ロッシーニ,ジョアッキーノ 〔イタリア〕
(1792. 02.29 〜 1868.11.13) 76歳

  【 喜歌劇「アルジェのイタリア女」】
  【 歌劇「セヴィリアの理髪師」】  
  【 歌劇「泥棒かささぎ」】     
  【 歌劇「セミラーミデ」】     
  【 歌劇「ウィリアム・テル」】   
  【 スターバト・マーテル 】     





《オペラ・ブッファ》

【 喜歌劇「アルジェのイタリア女」】

ロッシーニは、閏年だった1792年の2月29日に
イタリアのペザロで生まれた。
父はトランペットとホルン奏者、母はソプラノ歌手で、
彼は1人息子だった。

子どものころは、父が望むようには音楽への関心を
示さなかったが、音楽学校時代から作曲を始め、
両親の知己もあり、早くから認められるようになった。

音楽学校を卒業した後、オペラ・ブッファの作曲家として、
軽妙な手法による作品を次々に発表して一世を風靡した。

十八世紀のイタリア・オペラは、 神話や古代の英雄を
題材とし、「正歌劇」(オペラ・セリア)と呼ばれていた。
それに対し、庶民生活や人情話的な題材を扱ったものを
「喜歌劇」「軽歌劇」(オペラ・ブッファ)と言っていたが、
ロッシーニはオペラ・ブッファ作家として、19世紀前半の
イタリアのみならず、ヨーロッパ全域において歓迎された。

彼の作品は光に満ち、流麗な旋律にあふれ、人物の描写も
生き生きとしていた。

生涯に50近いオペラを作曲したが、第10番目に書いた
「アルジェのイタリア女」は、 2幕のオペラ・ブッファ(喜歌劇)で、
青年期(21歳)の1813年に作曲し、その年の5月22日に
ヴェネチアで初演され成功をおさめた。

アルジェリアの都督のムスタファとその妻エルヴィラ、
イタリア女のイザベラと恋人のリンドロがからむ
朗らかで楽天性が盛り込まれた快く楽しいオペラである。




《 最大傑作 》

【 歌劇「セヴィリアの理髪師」】

歌劇「セヴィリアの理髪師」は、ロッシーニの歌劇作品のなかでも、
最も充実した内容をもった最大傑作といわれていて、
彼の24歳のときの作品である。

フランスの作家ポーマルシューの風刺的な喜劇を、イタリア語の
オペラ・ブッファ台本に書き直したもので、彼は13日間で
全曲を書き上げたという。

ロッシーニは、盗作?や転用の常習者で、この曲でもハイドンの
旋律や自分自身の他の作品からの転用があるが、こだわりのない
彼ののんきで明るい性格が現れている。

「セビリャの理髪師」序曲は、「イギリス女王エリザベッタ」の序曲を
そのまま転用したものだが、ロッシーニの得意とする
オーケストレーションの効果が、生き生きとした表情をそえる佳作である。

アルマヴィヴァ伯爵が、気のきく理髪師のフィガロの知恵を借り、
彼の協力を得て美しい娘ロジーナと結婚するという筋で、
機知と風刺とユーモアにみちた喜歌劇である。
1816年2月20日、ローマで初演され不評だったが、
2日目には全聴衆の熱狂をあびたといわれている。

日本人による上演は、1943年歌舞伎座で一部省略して
初演され、5年後には帝国劇場で、全曲の初演が行なわれた。
どちらも、藤原歌劇団によるものだった。

第1幕  第1場 セヴィリアの街角の広場
第2幕  第1場 バルトロの家の居間  




《 指揮者の先駆者 》

【 歌劇「セヴィリアの理髪師」】

ビューロー,ハンス・フォン 〔独〕
(1830.01.08〜1894.02.12) 64歳

指揮者・ピアノ奏者のビューローは9歳でシューマンの
義父(妻クララの父)のヴィークにピアノを学び、音楽を続けながら、
ライプチヒ大学では法律を勉強したが、ワーグナーの思想に共鳴し、
音楽に専念する決心をした。

その頃は、指揮は作曲者自身がすることが多く、指揮を専門にする
音楽家はいなかったが、指揮を専門としたビューローは、
現在の指揮者の先駆者ともいえる存在だった。

彼は、並外れた記憶力を持っていて、ロッシーニの
オペラ「セビリャの理髪師」の指揮でデビューした時、
「私は全ての楽譜を頭に入れ、楽曲を意のままに操れた」
と言ったといわれる。

オーケストラの楽員にも楽譜を全て記憶させ、しかも立ったまま
演奏するように強要し、完璧な演奏が出来るまで、
リハーサルを繰り返したといわれる。
その上、彼は演奏前に聴衆に向かって講義までした。

27歳のとき、リストの娘のコジマと結婚したが12年後には離婚をし、
コジマはワーグナーと再婚したので、ワーグナーとは不仲になり、
その後はブラームスの作品を積極的に紹介した。
ビューローも52歳のときに再婚している。

彼の指揮は、近代指揮法の典型として高く評価され、後の指揮法に
多くの影響を与えたが、ピアノ教師としても多くの優れた門下生を育てた。

1882年に創立されたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の
初代指揮者に就任している。
カイロで64年の生涯を閉じた。




《 オペラ・ブッファ作家 》

【 歌劇「シンデレラ」】

十八世紀のイタリア・オペラは、 神話や古代の英雄を題材とし、
「正歌劇」(オペラ・セリア)と呼ばれていた。

それに対し、庶民生活や人情話的な題材を扱ったものを
「喜歌劇」「軽歌劇」(オペラ・ブッファ)と言っていたが、
ロッシーニはオペラ・ブッファ作家として19世紀前半の
イタリアのみならず、ヨーロッパ全域において歓迎された。

彼の作品は光に満ち、流麗な旋律にあふれ、
人物の描写も生き生きとしていた。

1817年にローマで初演された「シンデレラ」は序曲と第2幕からなり、
彼のオペラのうち第19番目に書かれたもので、
24歳で創作力の絶頂期にあったころの作品である。
「セヴィリアの理髪師」をのぞけば、最も多く上演されてきた。

この歌劇では、継母は義父に、魔法使いは王子の家庭教師、
ガラスの靴は腕輪と替わっていて、おとぎ話ではなくて
大人向けの人情喜劇として作られている。

シンデレラのイタリア語=「チェレネントラ」




《 華麗な序曲 》

【 歌劇「泥棒かささぎ」】

ロッシーニは10代後半からオペラ・ブッファを作曲し、
名声を高め、イタリアの副王の力添えで兵役を
免除されるほどであった。
30歳のときに、ウィーンで彼の作品が上演された機会に
同地を訪れ、ベートーベンにも会っている。

「泥棒かささぎ」は、「セビリアの理髪師」を書いた翌年の
1817年にミラノで完成させた2幕のオペラ・ブッファである。
25歳ながら歌劇作曲家としてのロッシーニは、
すでに円熟の域に達していた。

台本が良くなかったため、あまり上演されることがなかったが、
華麗な序曲だけが演奏会のプログラムを飾っている。
(私は何度かTVで観る機会があったけど・・・)

貧しい軍人の娘アネットは、銀製の食器を盗んだ嫌疑を
受けるが、持ち去ったのはかささぎだったことが分かり、
疑われた代償として、身分が違うと反対されていた
結婚を許してもらうという筋書き。


 

《 オペラ・セリエ 》

【 歌劇「セミラーミデ」】

「セミラーミデ」は、その年に完成した2幕のオペラセリエである。
パビロンの王妃セミラーミデは夫である王ニーノを、セミラーミデと
王位とを一挙に獲得しようというアツニールと共謀で殺害した。
しかし、ニーノの亡霊はこの2人の恋を許さず、ついに2人を滅亡に導く。

ロッシーニの作品の中でも、ことに優れた作品として当時は
認められていたが、現在ではあまり上演されず大きな規模をもつ
序曲だけが取り上げられている。

ロッシーニは、後に彼の妻となるスペイン系のソプラノ歌手の
イザベラのために、多くの作品を書いた。
「セミラーミデ」を書いた年に30歳で結婚したが、結婚後
1年を経たころから仲が思わしくなくて、15年後に正式に別居した。
53歳のときイザベラが死亡したので、翌年になって
かねてから知り合っていたオランプと正式に結婚している。

ロッシーニはオペラ・ブッファ作家として、19世紀前半の
イタリアのみならず、ヨーロッパ全域において歓迎されたが、
「セミラーミデ」は、30歳のときに完成した2幕のオペラセリエである。

〔オペラ・セリエ 〕
オペラ・ブッファに対する言葉で「正歌劇」
神話や古代の英雄を題材とする十八世紀のイタリア・オペラのこと。

〔オペラ・ブッファ〕
オペラ・セリエに対する言葉で「喜歌劇」「軽歌劇」庶民生活や
人情話的な小喜歌劇




《 フィナーレを飾った傑作 》

【 歌劇「ウィリアム・テル」】

ロッシーニのオペラは50ちかくあるが、それは1811年ごろから、
1830年にいたる約20年間の仕事だった。
その後は、数曲の宗教曲やカンタータ、かなりの数の歌曲のほか、
2、3のオーケストラ曲、室内楽曲を含むいくつかの器楽作品などを
随時気のむくままに書きとどめ歌劇は一切書かなかった。
(ロッシーニは、美食家としても 知られている。)

1868年11月13日、パリの近くのパシの別荘で
世の人の哀惜のうちに永眠した。

「ウィリアム・テル」は、ロッシーニの37歳のときの作品で、
彼が書いた37番目の作品である。
その後不眠症などに悩まされるようになり、新しい歌劇創作の
筆を折る決心をしたため、ロッシーニ自身が書きおろした
最後のオペラ作品となった。

1829年8月3日にパリのオペラ座で初演され、大成功だった。
ベルリオーズなども大いに賞賛したといわれている。

歌劇の題材は、シラーの有名な詩劇で、弓の名人の
ウィリアム・テルとスイスのある独立運動とが中心になっている。
4幕5場の歌劇は、全曲を通すと5時間に近い時間を
要することもあり、全曲を上演されることはほとんどなく、
序曲だけが演奏会でとりあげられている。

序曲は4つの部分からなり、描写風にドラマの内容を暗示している。

        第1部〈夜明け〉ーチェロの演奏が主体で、静かなスイスの夜明け。
        第2部〈嵐〉ー嵐の来襲から、暴風雨、遠雷と描写的。 
        第3部〈静寂〉ーイングリッシュ・ホルンを中心に歌われる平和な牧歌。
        第4部〈スイス軍の行進〉ー勇ましい勝利の歓びに満ちた行進曲。




《 宗教音楽 》

【 スターバト・マーテル 】

歌劇「ウィリアム・テル」は、ロッシーニ自身が書きおろした
最後のオペラ作品となったが、その後の40年近くの後半生は、
数曲の宗教曲やカンタータなど、気の向くままに書きとどめていたに
すぎなかったが、彼の全作品の中でも屈指の秀作に数えられる
「スターバト・マーテル」は、「ウィリアム・テル」完成の2年後に着手された。

かつてナポリで、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を
聴いたロッシーニは、こんな名作のあるジャンルには
足を踏み入れまいと決心していたが、スペインの富豪で
好事家のドン・ヴァレラの依頼をうけて創作に取りかかったといわれる。

ところが腰部神経痛に襲われ、作曲の筆が進まなくなり、
完成したのは10年後のことだった。
1842年1月7日 にパリのヴァンタドゥール会場で初演され、
大きなセンセーションをまきおこし、評判をよんだ。

明るい表情をもった世俗的な人なつっこさ、のびやかな旋律の
美しさ、強弱や色彩の起伏にとんだオーケストレーションなど、
ロッシーニ独特の作風がこの宗教曲をきわめて人間くさい親しみに
みちた作品として、宗教音楽に一陣の新風を吹き込んだ。

10章からなり、2管編成の管弦楽にともなわれた合唱、
重唱、独唱が「スターバト・マーテル」の20節の三行詩全文を
うたいあげている。