《 生意気な浮浪児 》
【 交響曲 第1番 ハ短調 】
ブルックナーの家系は十四世紀までさかのぼることができるが、
祖父も父も学校の教師で、母は村の役人の娘だった。
11人の子ども(6人は出産時か幼少のころ亡くなっている)の
長男として、アンスフェルデンで生まれたブルックナーは、
楽才をもった父から音楽を学び、10歳のころには
礼拝の折にオルガンを弾かされていた。
13歳のときに父が病気で亡くなり、ブルックナーは修道院の
聖歌隊員に迎えられた。
父のような学校教師になるため勉強し、27歳のときに
教員免許を取得したが、その間も音楽の勉強も続けていた。
30歳を過ぎてから和声楽、体位法、管弦楽法、楽式論といった
作曲理論を本格的に学んでいて、音楽史のなかで
珍しい存在だといわれている。
彼は敬虔なカトリック信者で、子供のような純真な心情を
もっていて、物質生活は質素で、まったく世俗を超越した
芸術生活を送っていた。
「交響曲第1番」は、ブルックナー自身が「生意気な浮浪児」と呼び、
「これほど自分が大胆で、生意気だったことはない。
まさしく恋した馬鹿者のように作曲した」 と述べている。
技法的に細かい音符が頻繁に使われているが、同じ速度の中で、
音の動きの早さが極端に変化しているのはこの曲の特徴である。
41歳のときにリンツで書き始め、翌年には完成したが、
その後も手を加え、67歳のときにウィーン新版が完成した。
それは、ウィーン大学から名誉博士の称号を贈られたのに
対する感謝のしるしとして、ウィーン大学に捧げられた。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Adagio
第3楽章 Scherzo: Schnell
第4楽章 Finare: Bewegt,feurig
ブルックナーの作品が認められたのは60代に入ってからで、
彼の音楽が人生の黄昏どきともいえる時期に入って、
あたかも落日が壮大な残照を残すかのように、
すばらしい傑作を生み出していった。
さらに最大の交響曲作家として、世界的に評価され、
その名声が内外に高まったのは、死後20年もたった、
第一次世界大戦後のことだった。
《 休止交響曲 》
【 交響曲 第2番 ハ短調 】
ブルックナーの交響曲は9つということになっているが、
第1番以前に2つの完全な交響曲を書いている。
しかし、その2曲は世間に発表することなく、書庫の中に秘めたままだった。
交響曲 ヘ短調 (1863年)
交響曲 第0番 ニ短調(1869年)
交響曲 第1番 ハ短調(1866年)
交響曲 第2番 ハ短調(1872年)
交響曲 第3番 ニ短調 (1873年)
交響曲 第4番 変ホ長調 (1874年)
交響曲 第5番 変ロ長調(1878年)
交響曲 第6番 イ長調(1881年)
交響曲 第7番 ホ長調 (1883年)
交響曲 第8番 ハ短調 (1887年)
交響曲 第9番 ニ短調 (1896年) 未完成
彼の交響曲総譜には、原譜と改作譜がある。
改作譜は、あまりに長い演奏を聴かなければならない聴衆のために、
彼の弟子レーヴェが編んだものだが、しだいに原譜による演奏が
おこなわれるようになったようだ。
1870年に起こった独仏戦争は翌年に終了しているが、
ブルックナーが第2番を書いたのは、1871年から
翌年にかけてのことだった。
ブラームスは、この戦争により「勝利の歌」を書いて。ドイツ帝国の
創始を祝ったが、ブルックナーは、そうした戦争から精神的
あるいは外面的に影響を受けるよりもむしろ、自己の芸術に隠棲し、
そこにおいて神に奉仕するという態度を守り続けていた。
この「交響曲第2番」も、宗教的な色彩をもち、いわゆる
ミサ交響曲の一つとなっている。
とくに第2楽章はその傾向が強く、第4楽章では生と死の闘争から
死の勝利に達し「キリエ・ソレイソン」が高らかに奏される。
第3楽章は、オーストリアの素朴な農民の踊りを想わせ、
世俗的であるが、第1楽章は、悲愴味と悲嘆に溢れ、内省的である。
しかし、この交響曲はブルックナーの全交響曲の中で
最も人気のない曲とされている。
主要楽句を大きな休止符で区切って目立たせ、一つの楽想を
突然放棄して他の楽想に移るという方法など、
特徴のある休止符のため、「休止交響曲」と呼ばれることがある。
1873年10月26日にブルックナーの指揮により
ウィーン・フィルハーモニー交響楽団の演奏で初演されたが
当時、ウィーン世界博覧会が開かれていて、その行事に含まれていた。
第1楽章 moderato
第2楽章 Andante
第3楽章 Scherzo: Massig schnell
第4楽章 Finare: Ziemlich schnell
《 ワーグナー交響曲 》
【 交響曲 第3番 ニ短調 】
「詩と音の芸術の前人未到の世界的に著名な
すぐれた大家であるワーグナー閣下に、深甚な敬意をもって
「交響曲第3番ニ短調」を捧呈いたします。」
これは、ブルックナーがこの曲をワーグナーに献呈するために
日記に書いた草案の文面である。
ワーグナーは、出来上がった楽譜を受け取り、詳細に検討した
結果、この申し出を受託することにし、その後終生、
この交響曲の総譜を読むのを楽しみにしていたという。
この曲は4楽章からなるが、特に第1楽章の冒頭の
トランペットの動機がワーグナーを非常に喜ばせたといわれ、
ワーグナーの家ではブルックナーに「トランペットのブルックナー」という、
あだ名さえつけたといわれる。
ワーグナーを喜ばせた理由は、ブルックナーの交響曲の特徴である
宗教性、自然的情緒が、ワーグナーの愛好したベートーベンの
「交響曲第6番」(田園)や、「交響曲第9番」(合唱)に
共通するものをもっていたこともあるようだ。
ブルックナーの作品は何度も改定をしているが、この交響曲も
3回の改補の後、改訂版の初演は、作曲してから17年後の
12月21日にウィーンで行われた。
世を去る6年前で、彼は66歳になっていた。
第1楽章 Misterioso
第2楽章 Adagio quasi Andante
第3楽章 Scherzo
第4楽章 Allegro
《 森の中のロマン 》
【 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」】
アバド,クラウディオ 〔伊〕
(1933.06.26?)
イタリア出身の世界的指揮者のアバドは、
ミラノの音楽一家に生まれた。
2000年に胃癌で倒れたが、手術の結果が良好で
その後も活躍している。
1990年にカラヤンの後任として選出され、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に就任し、
2002年まで在任した。
2003年以降は、ルツェルン祝祭管弦楽団などで活動を続けていて、
2006年にはルツェルン・フェスティバル・イン・東京の一環として
行なわれた公演で、ブルックナーの「 交響曲 第4番」を指揮し、
好評を得た。
ブルックナーの交響曲は、ベートーベンに範を求めた形式感と、
オルガンを想わせるような響きの分厚さ、
そして宗教的なたたずまいをもっている。
最大の交響曲作家として、世界的に評価されるようになったのは、
ブルックナーの死後20年もたった、第一次世界大戦後のことだった。
50歳の時に作曲した第4番「ロマンティック」は、
ロマンにみちたドイツの森の気分を表現したものと説明され、
9つの交響曲中最も有名なものである。
完成の翌年の1881年2月20日に、リヒターの指揮により、
ウィーンで初演された。
「ロマンティック」という名称は、作曲者自身が命名したもので、
ロマンに満ちたドイツの深い森の中から鳥の声や
狩りの角笛も聞こえてくる。
第1楽章 Allegro molto moderato
第2楽章 Andante quasi allegretto
第3楽章 Scherzo: Vivace non troppo
第4楽章 Finare: Allegro moderato
《「対位法的」交響曲 》
【 交響曲 第5番 変ロ長調 】
1876年から1879年にかけてウィーンで作曲された第5番を、
作曲者自身は「対位法的」交響曲「幻想風」交響曲と呼んでいた。
国毎に「信仰告白」「ゴチック風」「悲劇的」
「ピッチカート交響曲」の愛称もある。
この交響曲は、ブルックナーが世を去る2年前の
1894年4月8日にグラーツで初演されたが、不幸にも
ブルックナーは聴くことができなかった。
しかも、作曲してから15年も後のことだった。
これには、ハンスリックはじめブラームス党の反対に悩まされて、
困難な状況が続いたこともある。
彼の作品を認めさせることができたのは、交響曲第7番を
完成した1884年で、60歳にして初めて交響曲作家としての
地位を得ることができた。
第1楽章 Adagio-Allegro
第2楽章 Adagio
第3楽章 Scherzo: Molt vivace
第4楽章 Adagio-Allegro moderato
《 ブルックナー風 》
【 交響曲 第6番 イ長調 】
ブルックナーは、ベートーベンの形式を完全なものとして
全体の設計に用いたが、部分的には
バッハとワーグナーの形式をもとっている。
第6番は、悲愴味あふれる交響曲第5番と対照に、
平安でほがらかな明るさをもっている。
ブルックナー自身は、この曲を最も放胆なものと呼んだが、
それまでの曲の重苦しさと悲痛味を除去したことからだろう。
ブルックナーの特徴である自然的な情緒と宗教性は
全体を支配していて、ブルックナー開始や
ブルックナーリズムの愛用、力度の頻繁な変化、
クライマックスでの金管のブルックナー風の活用もあり、
全体の統一にも留意されている。
管楽器の響きはオルガン風に壮大であり、
主題の構成法や処理はワーグナー風である。
第1楽章 Maestoso
第2楽章 Adagio
第3楽章 Scherz
第4楽章 Finale
この曲の初演は1889年2月26日ウィーンの
フィルハーモニー演奏会で、マーラーの指揮により行なわれ、
ブルックナーの「親切な家主」に捧げられた。
《 帝王カラヤンの最後の演奏会 》
【 交響曲 第7番 ホ長調 】
カラヤン,ヘルベルト・フォン 〔墺〕
(1908.04.05?1989.07.16) 81歳
カラヤンは1954年(46歳)に単身で初来日し、
約一カ月間滞在して、NHK交響楽団を指揮した。
音楽界の帝王になる前だったが、熱心にN響の指導をし、
また若い指揮者へのレッスンも行なった。
この初来日以降、カラヤンはベルリン・フィルまたは
ウィーン・フィルとともに10回もの来日公演を行った。
1842年に創立されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、
ベルリン・フィルとならぶ世界最高のオーケストラの1つで、
専任の指揮者をもたず、客演指揮者制でコンサート活動を
展開しているが、1983年にカラヤンに名誉指揮者の
称号を与えている。
ベルリン・フィルの創立は1882年で、1954年に
フルトヴェングラーが急逝した後、カラヤンが音楽監督に就任し、
ベルリン・フィルの新たな黄金期が到来した。
カラヤンとのコンビは、世界最高の組み合わせと称され、
演奏会のみならず、レコード・映像産業にも大きな変革をもたらした。
カラヤンの最後の演奏会となった1989年4月23日に
指揮をしたのが、ブルックナーの「交響曲第7番」だったが、
「ベルリンとは結婚生活を営み、ウィーンとは恋愛関係にある」
と語っていたという。
しかし、晩年は女流クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの
入団問題がきっかけとなってオーケストラとの関係が悪化し、
1989年にベルリン・フィルの音楽監督を辞任、その直後に
ザルツブルグ郊外にある自宅にて急逝した。
ヨッフム,オイゲン 〔独〕
(1902.11.01?1987.03.26) 84歳
二十世紀を代表する巨匠指揮者のヨッフムは、
バイエルンで生まれた。
ドイツ各地の歌劇場で活躍したが、ナチス時代のドイツでは、
フルトヴェングラーに次ぐ名声を得た。
ブルックナーの指揮で定評があるヨッフムが指揮者として
デビューしたときの曲が交響曲第7番だった。
日本にも7回来日しているが、亡くなる前年に
アムステルダム・コンセルトヘボウを率いて最後の
来日公演を行なっている。
老齢のため、腰掛けての指揮だったが、そのときに演奏したのも
ブルックナーの交響曲第7番だった。
この曲は、ドイツでブルックナーを有名にした曲で、巨匠の
全ての交響曲が認められる原動力となった。
彼の出世作であり、作品中の最高峰に位するものといわれている。
ブルックナーの作品はワーグナーの影響を受けているが、
出世作となったのも交響曲第7番で、ワーグナーの
病気と死とから生まれたものである。
「私は家に帰ったが、非常に悲しかった。巨匠がもう長く
生きることは不可能だと思ったからである。
だから嬰ハ短調のアダージョ(第2楽章)を思いついた」
と手紙に書いているが、完成したのはワーグナーの死後だった。
この楽章は1883年1月22日から4月21日の間に書かれたが、
ワーグナーは1882年夏頃から病弱となり、
翌年の2月13日に世を去っている。
「非常に荘厳にかつ緩徐に」と指定された第2楽章は
この交響曲中で最も有名な楽章で、テューバの敬けんな
葬送曲が悲し気だ。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Adagio: Sehr feierlich und sehr langsam
第3楽章 Scherzo: Sehr schnell
第4楽章 Finare: Bewegt,doch nicht schnell
《 教会音楽家 》
【 交響曲 第8番 ハ短調 】
ブルックナーは、十九世紀後半の最大の教会音楽家として
有名だが、最大の交響曲作家としても評価されている。
彼は厳しく熱心なカトリック教徒として、生涯独身で通した。
若いときは、教師だった父と同じ職業を選び、学校に勤めながら
音楽の勉強をした。
教師の生活を捨てて、音楽家として立つことを決心したときは、
32歳になっていた。
リンツの教会のオルガン奏者から、ウィーンの宮廷オルガン奏者、
音楽院の教授となったが、作曲した作品が
認められるようになったのは、60代に入ってからだった。
「交響曲第8番」は63歳のときに完成したが、指揮者の友人や
最も親しい芸術上の友人たちも、口を揃えて改作を要求した。
この結果、ブルックナーはそれまでの激しい創作力を失い、
自己批判的になり、神経衰弱気味になってしまい、
自殺の考えさえ抱くようになった。
しかし、その後精神力で立ち直り、補筆をし、完成させて
5年後の12月18日に初演され、かなりの成功だったといわれる。
第1楽章は、ダンテの神曲の地獄に下ってゆく場面で、
終わりのトランペットとホルンには、死の予告があると述べている。
第2楽章は「ドイツの野人」と呼ばれ、悲劇の色に被われている。
第3楽章で宗教的の浄化され、第4楽章で輝かしい終末に達する。
最後の交響曲となった第9番は第3楽章からなるので、
この第8番がブルックナーの最後の第4楽章になる。
旋律の動きの美しさは、ブルックナー自身も気に入っていて、
自作の交響曲の中で、最も美しいものと考えていたという。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Scherzo(Allegro moderato)-Trio(Langsam)
第3楽章 Adagio: Feierlich langsam-doch nicht schleppend
第4楽章 Finare: Feierlich,nicht schnell
《 最後の輝き 》
【 交響曲 第9番 ニ短調 】
ブルックナーの交響曲は、ベートーベンに範を求めた形式感と、
オルガンを想わせるような響きの分厚さ、そして
宗教的なたたずまいをもっている。
第1楽章 Feierlich,Misterioso
第2楽章 Scherzo: Bewegt: lebhaft-Torio: schnell,Scherzo da capo
第3楽章 Adagio: Langsam, feierlich
最後の輝きとなった超大作の第9番は、終楽章(第4楽章)を
完成させることなく72歳の生涯を閉じた。
初演が行なわれたのは、死後7年経ってからのことだった。
68歳のときにウィーンの宮廷オルガン奏者を、70歳のときに
音楽院の教授を退職していたが、オーストリア皇帝からたまわった、
ウィーンのシェーンブルンの家で永遠の眠りについた。
葬儀はウィーンの全市民層の参加による盛大なものだった。
《 宗教合唱曲 》
【 テ・デウム】
宗教合唱曲の「テ・デウム」は、古今の宗教作品の中でも
傑作の一つとして高い評価をされている、
「テ・デウム」は、ブルックナーの他に、パーセル、ヘンデル、
ベルリオーズ、ヴェルディなどが作曲しているが、
彼の作品が最もよく知られている。
1881年にスケッチをし、一応書き上げたが、1883年2月に
敬愛するワーグナーが世を去り第7交響曲を発表した後に改訂し、
総譜の完成は60歳の1884年3月7日だった。
ラテン語で書かれた、神に感謝を捧げる力強く感激的な
讃歌の「テ・デウム」は、 独唱、合唱、管弦楽にオルガンが加わった
作品で、キリスト教の最も古い讃歌の一つとされ、構成する
5つの詩の最初のテキストは五世紀までさかのぼる。
熱心なカトリック信者らしいブルックナーの
敬虔な感情に溢れている。
1885年5月2日2台のピアノで初演されたが、翌年の
1月10日に管弦楽を伴った形ではじめて演奏された。
第1曲 「天主よ、我ら御身をたたえ」
第2曲 「御身に願いまつる」
第3曲 「とこしえに得したまえ」
第4曲 「御身の民を救いたまえ」
第5曲 「主よ、御身により頼みたてまつる」