ドビュッシー,クロード・アシル  〔フランス〕
(1862. 08.22 〜 1918. 03.25)  56歳  (大腸癌)

             【 オペラ「ペレアスとメリザンド」】
             【 交響詩「牧神の午後への前奏曲」】
             【 夜想曲(ノクテュルヌ)】
             【 交響詩「海」】
             【 管弦楽のための影像 】
             【 フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ 】
             【 チェロ・ソナタ 】
             【 二つのアラベスク 】
             【 ベルガマスク組曲 】
             【 影像 】
             【 子供の領分 】






《 唯一のオペラ 》

【 オペラ「ペレアスとメリザンド」】

ドビュッシーの祖先はブルゴーニュの出で、代々農業や
手工業に従事していた。
祖父はパリに生まれ、パリで死んだ指物師だったといわれる。
その長男として生まれたドビュッシーの父は、
サン=ジェルマン=アン=レーに陶器の製造販売の店を出していた。
そのときに長男として生まれたのがドビュッシーだった。

ドビュッシーは、幼いころのことを語りたがらなかったので、
幼年時代のことは不明なところが多いが、夢想にふけりがちな、
いささか風変わりな少年であったようだ。
しかし、幼い頃から音楽に驚くべき才能を発揮したといわれる。

10歳でパリ国立音楽院に入学を許可され、
10年余り在籍したが、その間数々の賞を得ている。

ドビュッシーの唯一のオペラである「ペレアスとメリザンド」 は、
近代オペラ中最高の作品のひとつに数えられる。

ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンクの戯曲を基に、
架空の国のアルモンドを舞台にした第5幕のオペラである。

全曲は朗読風の一種のレチタティーボによって貫かれ、
いっさいの気分や感情は管弦楽によって描かれている。

作曲の年の1902年4月30日にパリのオペラ・コミック座で
初演されたが、保守的なパリの聴衆にとって、
この画期的なオペラは、簡単には受け入れられなかった。
しかし、数年後には世界各地で上演されるようになった。

           ペレアス (TorBr)アルモンドの王アンケルの孫 
           メリザンド(S)  遠い国の王女         
           ゴロー  (Br) ペレアスの父親違いの兄      

ゴローは森の中の泉のほとりで出会った
メリザンドを連れ帰り、妻とする。
しかし、メリザンドはペレアスと親しくなってしまう。
ゴローは、ペレアスに城を出るよう忠告する。
出発を前にして、ペレアスとメリザンドが愛を
告白しあっているところを見たゴローは、ペレアスを
剣で刺してしまう。
瀕死のメリザンドも、生まれたばかりの子どもを残して世を去る。

ドビュッシーが作曲した4年前の1898年に、
フォーレも劇付随音楽を作曲し、後に交響組曲として編んでいる。
1903年にはシェーンベルクが大編成のオーケストラのための
交響詩を、1905年にはシベリウスが劇付随音楽を作曲している。




《 ニジンスキー 》

【 交響詩「牧神の午後への前奏曲」】

この曲は、ドビュッシーが30歳のときに書いた。
当時彼はまだあまり有名ではなく、管弦楽曲としては最初の曲で、
その大胆な管弦楽法によって自己の作風を完成し、
後のストラヴィンスキーをはじめ、多くの作曲家に
多大の影響を与えた画期的な作品である。

初演は1894年に行なわれ、その前例のない新しい技法と
内容による作品にもかかわらず絶賛され、彼の作品中、
最も多くの人々に親しまれている。

ドビュッシーがかねてから親しかった、象徴派の詩人マラルメの
詩「牧神の午後」による作品で、詩のもつ夢幻的で
官能的な詩情を音で表現している。

午後の暑さの中で揺れ動く牧神の欲望と夢、逃げる妖精や
水の精を追うのにあきた牧神が、自然界を全て手中に収めるという
実現された夢に満たされ、酔い心地のまどろみに身を
まかせるという内容の詩である。

この作品は、後にラヴェルによって管弦楽のために編曲され、
1912年にロシアの生んだ今世紀最大の天才バレエ・ダンサーである
ニジンスキーが、バレエに振り付けている。

バレエの世界で、伝説的存在であるニジンスキーは、
1890年2月28日ポーランド人の両親のもと、キエフで生まれた。

ペテルグルグ帝室舞踊学校出身で、18歳のとき
モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」中のバレエ場面でデビューし、
翌年にディアギレフのロシアバレー団に参加して、圧倒的人気を得た。

10年後、精神異常のため引退し、その後30数年間精神病院を
転々としたが、1950年4月11日、スイスで60年の生涯を終えた。




《 光と影の交錯 》

【 夜想曲(ノクテュルヌ)】

「近代音楽の父」といわれているドビュッシーは、
印象主義音楽を創始し、近代現代の音楽に非常な影響を
与えた重要な作曲家である。

十九世紀の後半期にフランスに起こった印象主義運動は、
音楽の世界にも大きな影響をもたらし、ドビュッシーによって
印象主義音楽が作られた。

それは瞬間の感覚としてとらえた印象を、主として和音を通して
表現しようとするもので、技法的には中世の教会調の復活、
全音音階の創始、不協和音の巧みな用法など、在来の音楽には
見られない革命的なものであった。

彼の音楽はあまりにも完成されたひとつの世界であったので、
その音楽を直接継ぐものは現われなかった。
彼は、音楽上の印象派の最初のページを開いたが、
最後のページを閉じたのも、また彼であった。

ドビュッシーの家庭生活は波乱万丈だったが、エンマと再婚し、
彼が43歳の時に娘のクロード=エンマ(愛称シュシュ)が
誕生してからは、親子3人で平和な喜びに満ちた日々を過ごした。
しかし、それは長くは続かず、ドビュッシーに病魔が襲ってきた。

父親の死の8年後、母親の死の3年後、そして愛娘の
シュシュの死に先立つこと1年余り、ドビュッシーは癌のため、
パリで56年の生涯を閉じた。

印象主義音楽は、印象派の画家と同様に、たえず移ろいゆく
自然を音で表現しようとしたものであるが、その印象主義的手法が
確立されたのは、この「夜想曲」においてであった。

Nocturnes(ノクテュルヌ=仏、ノクターン=英)
普通は「夜想曲」と訳される。
もともとピアノ曲の一様式名であり、合奏によるものとしては、
「夜曲」と訳される様式ででもある。

しかし、この「ノクテュルヌ」は、これらの様式によるものではない。
もっと彼自身の主観にもとずく自由な命名によるもので、
装飾的な意味で使われていて、この言葉に含まれる微妙に変化する
光と影の交錯などを、絶妙な管弦楽法を駆使して表現している。

「ノクテュルヌ」は、3曲で構成されている。

1、雲

悠久の大空。
ゆっくりとメランコリックな白い雲の流れ、
やがては灰色の苦悩の中に消えさってゆく。
なにかキラリとした、はかない輝きを残しながら・・

2、祭

賑やかな、楽し気な祭の幻影・・・。
踊るような雰囲気の運動とリズム、そこに突然、光が眩しく差し込む。

また祭を横切り、その中に溶け込んでいく行列のエピソード。

3、シレーヌ(人魚)

海と無数のリズム。
陽光に銀色に輝く波の間から、シレーヌたちの神秘的な
歌と笑い声が聞こえてくる。
16人の女性合唱がオーケストラの他に編成されていて、
歌詞はなく「アー」で歌われる。

この曲は、ドビュッシーの37歳のときに完成したが、
親との不和をも押し切って、リリー・テクシュと結婚した年である。

5年後には、裕福な銀行家のバルダック夫人のエンマと
愛しあうようになり、テクシュは自殺未遂をおこしている。




《 印象主義音楽 》

【 交響詩「海」】

交響詩「海」は、1903年に作曲を初めたものの、
私生活上の問題で、完成したのは1905年になってからだった。
その間、ドビュッシーは妻のリリーを捨て、裕福な銀行家の
バルダック夫人のエマと駆け落ちをし、悩んだリリーが自殺未遂をおこし、
センセーショナルにあつかわれたため、モデル小説まで出たほどだった。

海を愛していたドビュッシーが、海への無数の思い出をもとに
作曲した交響詩「海」は、3つの部分で構成されていて、
海のイメージを見事に表現した作品である。

(1)「海上の夜明けから正午まで」
(2)「波の戯れ」        
(3)「風と波との対話」     

初演は、完成した年の10月15日にシュヴィヤールの指揮、
コンセール・ラムルー管弦楽団によって行なわれた。




《 影像 》
 
【 管弦楽のための影像 】

ドビュッシーには「影像」と題する作品が3つある。
第1集と第2集はピアノのための作品集で、第3集は晩年の
円熟期に書いた管弦楽のための作品である。

どれも標題音楽だが、彼の心眼に映じた印象をまとめあげたもので、
第3集はイギリス、スペイン、フランスの俗謡や舞曲に素材を求め、
それぞれの国の音楽的風土のリアリティたくみに処理している

(1)「ジーグ」 〈スコットランド〉     

(2)「イベリア」 〈スペイン〉       
   第1楽章  街より道より      
   第2楽章  夜のかおり       
   第3楽章  祭りの日の朝      

(3)「春のロンド」〈フランス〉       

3曲のスコアは別々に出版され、初演もいっしょではなかった。
演奏会でも3曲を連続して演奏することは少ない。
オーケストラのための、似た作風の曲を一まとめにされたようだ。




《 三重奏ソナタ 》

【 フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ 】

ドビュッシーは死の3年前の1915年に、いろいろな楽器の
組み合わせによる6曲のソナタを作曲する計画を立てたが、
3曲しか残せなかった。

1、チェロとピアノのためのソナタ (1915年)      
2、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915年)
3、バイオリンとピアノのためのソナタ (1917年)    

続いてオーボエ、ホルンとクラブサンのためのソナタを考えていたという。

フルート、ヴィオラとハープのためのこの
三重奏ソナタは、ソナタ第2番とも呼ばれている。
楽器編成としては斬新だが、曲想の美しさは際立っている。

初期の弦楽四重奏曲で用いられている循環主題法が
用いられていて、効果をあげている。

第1楽章 牧歌 
第2楽章 間奏曲
第3楽章 終曲 

1917年4月21日、パリにおいて国民音楽協会の演奏会で
初演が行なわれた。




《 フランス的な作曲家 》

【 チェロ・ソナタ 】

「フランス的」な作曲家のドビュッシーは、
フランス印象主義音楽を創始した大家でもあり、
モネ、マネーやルノアールなどフランス印象派の画家たちの新しい手法や、
ヴェルレーヌなどの印象派の詩人たちの洗練された作詩法から
多くの影響を受け、音楽の分野で新しい傾向の作品を創造した。

彼が死の3年前に最後に取り組み、全てを完成することが出来なかった
6曲のソナタの第1番が、3楽章からなる「チェロ・ソナタ」である。

第1楽章ープロローグ、第2楽章ーセレナードは
チェロの無気味なピチカートで始まる幻想曲風で、
「死への恐怖」をあらわそうとしたという。
中断されず、第3楽章ー終曲へと続けて演奏される。




 《 フランス的な作曲家 》

【 二つのアラベスク 】

「近代音楽の父」といわれ、フランス印象主義音楽を
創始した大家のドヴュッシーは、きわめてフランス的」な作曲家で、
当時のモネ、マネー、ルノアールなどフランス印象派の
画家たちの新しい手法と、ヴェルレーヌ、ボードレーヌなど
印象派の詩人たちの洗練された作詩法から多くの影響を受け、
音楽の分野で新しい傾向の作品を創造した。

「二つのアラベスク」は、彼の最初の ピアノ作品で、
ローマ大賞を受け、イタリアに留学して帰国直後の作品である。

第1曲のアラベスクは、美しいアルペッジョが爽やかな
明快さをもって反復され、はぎれのよい優雅な表現の支えとなっている。


上声部のメロディーには甘味をもった美しさがあり、
ロマンティックなマスネーの魅力と、ラモーやクー
ランによって
打ち立てられた鍵盤楽器音楽の領域での洗練された優雅な
表現法と、ドビュッシー自身のもつ新しい感覚がともに
存在している小作品である。

第2曲は、マスネーの影響が感じられるが、動きのある
生き生きとした躍動する世界を描いている。
伝統的な和声の進行ではなく、平行5度進行を使用している。




《月の光》

【 ベルガマスク組曲 】

ミケランジェリ,アルトゥーロ・ベネッティ〔伊〕
(1920.01.05?1995.06.12) 75歳 心臓病

二十世紀において、最も個性的なピアニストに数えられる
ミケランジェリは、ロンバルディア州のブレシアで生まれた。
3歳のときからバイオリンを学んだが、しばらくしてから
ピアノに切り替えた。

医師、パイロット、レーサーの肩書きも持ち、
ピアニストとしては、演奏会での使用楽器のこだわりや、
突然のキャンセルなど、話題に事欠かなかった。
1995年6月12日に心臓病のため、スイスの病院で亡くなった。

録音を嫌ったミケランジェリだったが、ドビュッシーの作品の
録音は、ドビュッシー演奏の一つの基準に数えられている。

ベルガマスク組曲は、ドビュッシーがイタリア留学中の
北部イタリアのベルガモ地方の農民生活の印象に基づいて書かれた。
タランテラに類似している、8分の6拍子の速い舞曲の
ベルガマスカとは無関係で、ただ曲の題名につけたものといわれている。

第1曲 プレリュード  
第2曲 メヌエット   
第3曲 月の光     
第4曲 パスピエ    
 
これは4つの小曲からなる組曲で、ドビュッシーのピアノ作品中、
最もポピュラーな作品の一つにあげられるのが
第3曲の月の光だが、美しいメロディが印象的に月の光を暗示し、
きらきらと輝く色彩描写は、ロマンティックな情緒を漂わせる。

ドビュッシーは学生時代、学資を自ら稼ぐために
アルバイトをしているが、チャイコフスキーとの不思議な関係で
名高いフォン・メック夫人のピアノ奏者となり、夫人やその家族とともに、
フランス、スイス、イタリア、ロシアなどを旅行している。




《 印象主義的な手法 》

【 映像 】

1905年に「映像」第1集3曲が作曲され、
2年後の1907年に第2集の3曲が作曲された。

1903年に作曲した「版画」で、ピアノの新しい表現法を探究し、
印象主義的なピアノ書法を確立したドビュッシーは、
「映像」の作曲直前に、交響的組曲「海」を完成し、
独創的な境地を開いた。

事物や情景をあるがままに、その雰囲気をも共に表現しようとする
印象主義的な手法は「映像」6曲においてさらに強調されている。

生き生きとした溌剌さと豊かな表現力とが、
絵画風な美しい世界を描写している。

ピアノ音楽の領域で、リストやショパンは美しい旋律や旋律の展開や、
ダイナミックな表現を行なって新しい技法を開いたが、
ドビュッシーは、機能性をもった和声の力で支えられた音のもつ
緊張感をやわらげ、浮動させることによって、自然の情景や動きを
微妙に描いて、さらに新しい世界を開いた。

第1集

第1曲 水の反映 
第2曲 ラモー賛歌
第3曲 運動   

第2集

第1曲 葉ずれを過ぎる鐘の音
第2曲 そして月は廃寺に沈む
第3曲 金色の魚オーケストラのための、似た作風の曲を一まとめにされた。




《 童心 》

【 子供の領分 】

ドビュッシーは子供っぽい性質のため社交は苦手で、
パイプをくわえながら、ひとりで書斎を歩き回り、
とりとめのない夢想にふけり、少年のような想像の世界に
遊ぶのが好きであった。

「子供の領分」は、このような邪気のない夢想のなかから
生まれたもので、ドビュッシーの軽妙で上品な皮肉に満ちた
ユーモアからなり「いたずら気に満ちた傑作」である。

楽譜の冒頭に「あとに続くものへの、父の優しい詫言をそえて、
私のかわいいシュシュへ」とある。
エンマと結婚して、初めて人の子の親となったが、
当時3歳の愛する娘のクロード=エンマ、愛称シュシュために書かれ、
彼女に献呈された。

エンマ夫人とシュシュとの家庭は、平和なよろこびにみちた
日々だったが、癌が体をむしばみ56歳で息をひきとり、
シュシュも1年後に亡くなっている。

第1曲 グラドス・アド・パルナスム博士
第2曲 象の子守歌          
第3曲 人形へのセレナード      
第4曲 雪は踊っている        
第5曲 小さい羊飼          
第6曲 ゴリウォーグのケーク・ウォーク

6曲からなる作品だが、この曲の中で夢見る子どもは都会育ちの、
少々おませで神経質である。
しかし、青白く病弱ではない。
洗いおとされた童心のあどけなさである。

子供をえがいた音楽で有名なのは、シューマンの「子供の情景」、
ムソルグスキーの「子供部屋」、フォーレの「ドリー」などがある。

どれも大人の目から見た子供を描いているが、
ドビュッシーは自ら童心になり、子供の直感の世界、
感覚の世界に生きようとした。
彼は、シュシュと一緒に夢を見、娘の想像する
音楽の世界をともに遊んだのである。