《 最後の作品 》 【 歌劇「ラクメ」】 フランスが生んだ「バレエ音楽の父」と呼ばれているドリーブは、 1836年2月21日にサン=ジェルマン=デュ=ヴァルで生まれた。 29歳で、オペラ座の合唱副指揮者となり、 同時にバレエ音楽作曲への興味を抱き始めた。 45歳のときからパリ音楽院の作曲家教授として、 後進の指導にあたりながら創作活動を行なった。 10年後の1月16日、パリで54年の生涯を閉じた。 彼は、バレエとオペラの作曲にすぐれた才能を発揮したが、 作品はカンタータ、歌曲、付随音楽、教会音楽、合唱曲などもある。 ドリーブの音楽は、優美典麗であり声楽の部分もオーケストラの部分も 無理なく流れるように書かれているものの、劇的な迫力に欠けている ところがあり、そこに彼のオペラの限界があったといわれている。 プッチーニ 「蝶々夫人」( 日本) プッチーニ 「アフリカの女」(アフリカ) ドリーブ 「ラクメ」(インド) 3つの作品は舞台は違うが、軍人がそれぞれの土地の女性と 恋におちて、悲劇的な結末となる点で共通した内容となっている。 イギリス統治下のインドを舞台にした3幕のオペラ「ラクメ」は、 自身の手で完成した最後の作品で、東洋的な異国情緒を 巧みにかもし出しているが、他のオペラ同様、劇的迫力には乏しい。 しかし、彼が作曲したオペラの中では、人気のある唯一の作品で、 色彩的・優美・快活さなどは、バレエ曲と共通している。 1883年4月14日にパリのオペラ・コミック座で初演された。 ピエール・ロティの小説「ロティの結婚」にヒントを得ていて、 バラモン教の僧ニラカンタの娘のラクメと、 イギリス陸軍士官ジェラルドとの悲恋を描いている。 第1幕 バラモン教の寺院の庭 第2幕 街の広場 第3幕 森の中の小屋 《 ロマンティック・バレエ 》 【 バレエ組曲「コッペリア」】 1870年5月25日、パリのオペラ座で 名作バレエ「コッペリア」が初演された。 元来、フランスはバレエ大国だが、1860年代の フランス・バレエ界は低調を極めていた。 そこでオペラ座の経営者は、バレエ界に活を入れようと意気込み、 1867年に新進作曲家のドリーブに新作バレエ 「コッペリア」の作曲を依頼した。 曲は1867年に完成したが、オペラ座は稽古と上演準備に 3年もかけ、そのため当初予定していた主役の バレリーナとの契約が切れてしまったのだった。 そこで、スワニルダ役には、イタリア出身の15歳の 天才少女バレリーナ、ジョゼッピーナ・ボツァッキが抜擢された。 こうして、オペラ座の総力を結集した「コッペリア」は ようやく初演の運びとなった。 皇帝ナポレオン三世を含む観客は、ボツァッキの素晴らしい踊りと、 ドリーブの優美な音楽に魅了され、初演は大成功だった。 ところが、フランスとドイツの戦争のため、オペラ座は8月31日に 閉鎖され、皇帝ナポレオン三世は9月2日に捕虜となり降伏、 その日に振付師のサン・レオンが心臓発作で死に、 パリ包囲網最中の11月23日には、天然痘の流行と栄養失調が、 主演の少女バレリーナ、ボツァッキの若い命まで奪ってしまった。 それは、彼女の16歳の誕生日のことだった。 戦争が終わったものの振付師と主演バレリーナを失った 「コッペリア」の再演は容易ではなかったが、 翌年の秋には再演をし、観客の熱狂的な喝采を誘った。 フランスでは、その後バレエの衰退に歯止めをかけることが できなかったが、ドリーブの「コッペリア」が示した ロマンティック・バレエの理念は、ロシアのチャイコフスキーに 受け継がれ、発展していった。 ドイツの作家ホフマンの物語りによるこのバレエは、 ガリシアの境にある小さな町を舞台である。 主人公のスワニルダの恋人フランツが、人形作りの老人 コッペリウスの娘のコッペリアに心が惹かれているのに嫉妬をする。 ある夜、スワニルダはコッペリウスの留守中に仕事部屋に忍び込み、 コッペリアが自動人形だとわかり、人形が着ていた衣装を着替えて、 コッペリアになりすまし、コッペリウスをからかう。 そして最後にスワニルダとフランツは仲直りをして、 めでたく結婚をするという楽しい騒動を描いている。 バレエ組曲「コッペリア」は、バレエ「コッペリア」の音楽に 基づいて形づくられた組曲で、指揮者によっていろいろと 組合わせが変えられるが、5つの部分からなっている。 第1曲 スラブ民謡と変奏曲 第2曲 祭りの舞曲と時のワルツ 第3曲 夜想曲 第4曲 自動人形の音楽とワルツ 第5曲 チェルダッシュ
《 ディベルティスマン 》 【 ナイラ・ワルツ(花の踊り)】 ドリーブは29歳のとき、オペラ座の合唱副指揮者となり同時に バレエ音楽作曲への興味を抱き始めた。 彼の師であった、有名なバレエ「ジゼル」の作曲者のアダンの作品 「海賊」の再演にあたり、ディベルティスマンの作曲を依頼され 完成したのが、この「ナイラ・ワルツ」である。 この曲は「海賊のバレエ音楽 花の踊り」とも「間奏曲」とも呼ばれいる。 ディベルティスマン (十七、八世紀のフランス・オペラにおいて、バレー、舞曲のように 筋書きの進行に関係なく挿入される短い器楽曲) ナイラ・ワルツは、ハンガリーの作曲家でありまたピアニストでもある ドホナーニによって、ピアノ用に編曲されてもいる。
《 通俗音楽 》 【 歌曲「カディスの娘たち」】 軽快なボレロ調のはずんだ曲で、野外でうきうきと踊り戯れ、 笑いこぼれている奔放な娘たちの歌である。 歌曲は14曲がひとまとめに出版されたが、その中でも最も有名なのは、 ドリーブの音楽の特色が十分に発揮された、ド・ミュッセの詩による 「カディスの娘たち」である。 私たちは男3人女3人、みんな牛を見にやってきた。 良く晴れた日、芝の上で、 みんなはカスタネットに合わせてボレロを踊った。 私は美しく、私の腰衣はよく似合い、 私の背はすらりと高いと思いませんか。 カディスの娘たちは、こういうことが好きなんです。 ラ、ラ、ラ・・・・・。 それは日曜日の夕方のことだった。 私たちはボレロを踊っていた。 すると金持ちの貴族がやってきて、 「かわいい娘よ、わしのものにならないか。 そうすればこの黄金をあげよう」 「それはお門ちがいというもの。 カディスの娘はそういうことに耳をかたむけません」 ラ、ラ、ラ・・・・・ (歌詞大意)