ドヴォルザーク,アントニン 〔チェコ〕
(1841.09.08 〜 1904.05.01) 62歳  脳出血

          【 交響曲 第1番 ハ短調 ズロニツェの鐘 作品3 】
          【 交響曲 第2番 変ロ長調 作品4 】
          【 交響曲 第3番 変ホ長調 作品10 】
          【 交響曲 第7番 ニ短調 作品70 】
          【 交響曲 第8番 ト長調 作品88 】
          【 交響曲 第9番 ホ短調「新世界より」作品95 】
          【 ピアノ協奏曲 ト短調 作品33 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53 】
          【 チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 】
          【 管楽セレナード・ニ短調作品44 】
          【 弦楽四重奏曲 ヘ長調 作品96「アメリカ」】
          【 ピアノ五重奏曲 イ長調 作品81 】
          【 ピアノ三重奏曲 ホ短調「ドゥムキー」作品90 】
          【 スラブ舞曲 作品46 】
          【 ユーモレスク 作品101の7 】
          【 ジプシーの歌 作品55 】





《 ズロニツェの鐘 》

【 交響曲 第1番 ハ短調 “ズロニツェの鐘” 作品3 】

ドヴォルザークの交響曲は9曲ある。
彼の生前、番号なしの2曲(第3、第4)と
第1番から第5番(第6、第7、第5、第8、第9)が出版され、
永眠後、後の2曲(第1、第2)が現れた。

          第1番 ハ短調 作品3,B9「ズロニツェの鐘」(1865年)
          第2番 変ロ長調 作品4,B12 (1865年)      

          第3番 変ホ長調 作品10,B34 (1873年)      
          第4番 ニ短調 作品13,B41 (1874年)       

          第5番 ヘ長調 作品76,B54 (1875年)       
          第6番 ニ長調 作品60,B112 (1880年)       
          第7番 ニ短調 作品70,B141 (1885年)       
          第8番 ト長調 作品88,B163 (1889年)       
          第9番 ホ短調 作品95,B178「新世界より」 (1893年)

ドヴォルザークの作品には、作品番号のないものや、作曲順に
なってないものが多いので、ブルグハウザーが整理して付けた
番号が「B.」で略記されることがあり、「B番号」と呼ばれている。

ジムロック社は、ドヴォルザークの作品を高く評価していた
ブラームスが紹介し、彼の作品はそこから出版されていた。

最初に作曲した交響曲は、23歳のときの作品で、
ドヴォルザーク自らが「ズロニツェの鐘」と名付けている。
コンクールに提出したが入選できず、演奏も出版もされなかった。

ドヴォルザークの死後1923年にスコアが発見され、
1936年10月4日にブルノで 初演された。
楽譜が出版されたのは、更に25年後のことだった。

家業の肉屋を継ぐための修行で少年時代を過ごし、
初めて音楽の勉強をした町がズロニツェなので、
思い出の地の名を付けたようだ。

                第1楽章 Alleglo      
                第2楽章 Adagio di molto  
                第3楽章 Allegretto     
                第4楽章 Finale: Allegretto  





《 ドヴォルザークの恋 》

【 交響曲 第2番 変ロ長調 作品4 】

1865年に交響曲1番を完成したが、その後すぐの8月に着手し、
10月に完成したのが交響曲第2番である。
すぐには初演されず、改訂をした後1888年3月11日に
プラハで行なわれ、好評を得た。

ベートーベン、シューベルト、ワーグナー、リストらの
影響があちこちにうかがえる。

1863年にワーグナーがプラハを訪れているが、当時ヴィオラ奏者を
つとめていたドヴォルザークは、ワーグナーの指揮によって、
彼の作品を演奏し、深い感銘を受けている。

第2番も第1番同様、彼の生前に出版されることはなく、
第二次世界大戦も終わり、10余年も経った1959年に出版された。

第2番を完成させたころ、ドヴォルザークは、彼の生徒でもあった
ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァーに熱烈な想いをよせていた。

長い求愛の末に実を結ぶこともなく、彼女の妹のアンナと
結婚することになるのだが・・・

しかし、ヨゼフィーナへの愛が、ドヴォルザークを
積極的に筆をとらせたことになったであろう。

序奏の後に美しい旋律が歌われるパストラール風とも
夜想曲風とも思える第2楽章には、洗練された書方が見られる。

               第1楽章 Alleglo moderato    
               第2楽章 Poco Adagio      
               第3楽章 Scherzo: Alleglo con brio 
               第4楽章 Finale: Alleglo con fuoco 





《 3楽章の交響曲 》

【 交響曲 第3番 変ホ長調 作品10 】

1873年に書かれた交響曲「第3番」は3楽章からなるが、
他の交響曲は全て4楽章で書かれている。
第2楽章にワーグナーの「タンホイザー」序曲のモチーフが
引用されていて、葬送行進曲風の性格をみせている。

1874年3月29日に、プラハでスメタナの指揮により
初演されたが、自身の交響曲を演奏会で聴いた
最初の機会となった。
(「第1番」「第2番」は、生前には初演されなかった。)

初演の後、ドヴォルザークは改訂をおこない、
翌年にオーストリア政府の国家奨学生に応募し、
多額の奨学金を得られるとともに、審査員だった
ブラームスの支持を得る契機ともなった。

              第1楽章 Alleglo moderato       
              第2楽章 Adagio molto tempo di marcia  
              第3楽章 Alleglo vivace        




 《 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 》

【 交響曲 第7番 ニ短調 作品70 】   

「交響曲7番」は、ドボルザークが44歳のときの作品で、
構成的には古典的な伝統にしたがっているが、チェコの
民族音楽的な語法と時代的なロマン主義的な感情もある。

当時、彼は疲労感をおぼえ、浮き立つような朗らかな気分になれず、
暗さや悲痛さを味わっていたが、意欲的に作品に取り組み、
暗い情熱と内省的な沈潜とが融合したものになっている。

             第1楽章 Alleglo maestoso        
             第2楽章 Poco adagio          
             第3楽章 Scherzo: Vivace-Poco meno nosso 
             第4楽章 Finare: Allegro         

ノイマン,ヴァーツラフ  〔チェコ〕
(1920.09.29〜1995.09.02) 74歳 

ドヴォルザークが世を去った16年後にプラハで生まれた
ノイマンは、プラハ音楽院でヴィオラと指揮を学び、
在学中からヴィオラ奏者として活躍した。

指揮者としてデビューしたのは1947年で、当時
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者だった
クーベリックが急病となり、その代役としてだった。

同管弦楽団の他、チェコの別の管弦楽団の指揮も執り、
その後、東ドイツで活躍したが、1968年のプラハの春に
ソヴィエトが介入した後、祖国に戻った。

その後は20年以上にわたり、チェコ・フィルハーモニー
管弦楽団の首席指揮者を務め、同管弦楽団の
国際的な名声を築きあげた。

世界中で演奏旅行したが、日本へも1969年に初来日以降、
9度来日し演奏会を行なっている。
1995年9月2日、滞在先のウィーンで逝去した。

国外のツアーでは、ドヴォルザークやスメタナなど
自国の作曲家の作品をとり上げることが多かった。




《 ボヘミアン 》

 【 交響曲 第8番 ト長調 作品88 】 

ドヴォルザークの交響曲の中で第9番「新世界より」についで、
現在も広く知られているのが48歳の時に作曲した
第8番だが、この曲は出版商のジムロックとの口論から、
イギリスのノヴァロから出版されたため
「イギリス交響曲」とも呼ばれている。

しかし、曲の性格はイギリス的というよりも、彼の作品の
中でも最もボヘミアの国民主義的色彩の濃厚なものである。
全体の構成はきわめて独創味にみち、即興風なところさえあって、
この曲を交響詩と呼ぶ人も少なくない。

ジムロック社は、ドヴォルザークの作品を高く評価していた
ブラームスが紹介し、彼の作品はそこから出版されていた。

               第1楽章 Alleglo con moto  
               第2楽章 Adagio      
               第3楽章 Allegretto grazioso 
               第4楽章 Alleglo ma non troppo




《 郷愁 》

【交響曲 第9番 ホ短調 「新世界より」作品95】

チェコ国民楽派を代表するドヴォルザークは
1892年にニューヨークのナショナル国民音楽院の
院長として招かれて、4年間滞在したが、
故国チェコを思いつつ、アメリカ大陸で受けた
強い印象から作られたのが「新世界より」だった。

着任した年の暮に、黒人やアメリカ・インディアンの
民謡で暗示されたスケッチを書き、翌年の夏の休暇に
アイオア州のスピルヴィルに避暑に行き、
オーストレーションの大部分はここで書いた。

スピルヴィルには、彼と同国のボヘミアの移民が
多く住んでいたので、その人々の語る懐かしい母国語の
歓談を楽しみながら、心地よい雰囲気の中で
創作をすることができた。

1893年12月15日、金曜日の午後、ドヴォルザークも
出席し、アントン・ザイドルの指揮により、ニューヨークの
フィルハーモニー協会管弦楽団の演奏で初演された。

ドヴォルザークの最後の交響曲の第9番は、
4楽章からなり、演奏される機会の多い作品である。

第2楽章のラルゴの主題は「遠き山に日は落ちて」
(堀内敬三・作詞)「家路」(野上彰・作詞)として、
広く歌われている。

                第1楽章 Adagio-Allegro molto
                第2楽章 Largo       
                第3楽章 Scherzo: Molto vivace
                第4楽章 Alleglo con fuoco  




《 相次ぐ不幸 》

【 ピアノ協奏曲 ト短調 作品33 】

ドヴォルザークは、ピアノ、バイオリン、チェロのための
協奏曲を1曲ずつのこしている。

カレス・スラフコフスキーの依頼により書かれた
「ピアノ協奏曲のト短調」は、1876年35歳の
秋に作曲されたが、その後何度か草稿の変更がされ、
1878年3月24日にプラハでスラフコフスキーの
ピアノにより初演され彼に献呈された。

チィコフスキー、グリーグ、ラフマニノフなど
19世紀後半のピアノ協奏曲に比べて、ピアノパートの
鮮やかなテクニックの見せ場やヴィルトゥオーゾ的な
華やかさに欠けると評価されてきた。

演奏される機会が比較的少なく、ドヴォルザークの
レパートリーの中では、地味な存在だが、
管弦楽と調和したドヴォルザーク一流のロマンチシズムと
リリシズムが表現された作品である。

3楽章からなり、民族主義的な色の濃い作品を
書き始めたころのものである。
第1楽章は、作曲の前年に長女を亡くした
深い悲しみがこめられているかのような雰囲気が全体を覆っている。

ベートーベンの協奏曲の様式を踏襲しているが、
楽想やリズムと力性の扱い方に独創味がある。

                第1楽章 Allegro agitato   
                第2楽章 Andante sostenuto  
                第3楽章 Allegro con fuoco  

初演の前年には、次女と長男も世を去ったが、
初演の年には娘が誕生し、後に2男4女の父親となった。




《 民族遺産 》
 

【 ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53 】

 音楽における民族主義運動は、十九世紀後半に
ヨーロッパの東と北を中心におこった。

ロシアにつづいて、ボヘミアやスカンディナビアの諸国に
国民楽派が確立され、チェコではスメタナにはじまって
ヤナーチェクやドヴォルザークの手で、
民族主義の香り高い花を咲かせた。

十九世紀中期のボヘミアでは、政治的独立をもとめる
民族主義運動のなかにあって、音楽においても
その豊かな民族遺産の再評価がおこなわれた。

そのころ、1862年にプラハに創立された国民劇場の
ために、スメタナが多くの民族的な歌劇を作曲していた。

青年ドヴォルザークは創立以来11年間、国民劇場の
ヴァイオリン奏者をつとめ、1866年にその楽団の
指揮者となったスメタナから、親しく教えをうけた。

少年時代からボヘミアの民謡に親しんでいた彼は、
民族音楽の作曲家として決定的な歩みを踏み出したのである。

「彼は自然児で、考えるために立ち止まることをせず
思い浮かんだことはなにによらず五線紙上でのべた」
とスタンフォードが言ったという。
彼の特徴である作品の隅々にまで抒情的な美しさが
あふれる豊かな旋律の才は、十分にあらわされている。

ドヴォルザークは、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのために
それぞれ1曲ずつの協奏曲をのこした。
この曲は、年代的には初期のピアノ協奏曲と、
後期のチェロ協奏曲の中間に位置している。

憂鬱なスラブの気分、ジプシー風の情熱、ハンガリーや
ボヘミア地方のフリヤント舞曲の使用など、自由で
ファンタジーにあふれている曲である。

             第1楽章 Alleglo ma non troppo       
             第2楽章 Adagio ma non troppo       
             第3楽章 Finale: Alleglo giocoso.ma non troppo 





 《 チェロ協奏曲の傑作 》
 

【 チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 】

ドヴォルザークは、1892年から4年間ニューヨークの
ナショナル音楽院の院長として滞在したが、
チェロ協奏曲はその間の1895年に作られた。

アメリカの民族音楽であるアメリカ・インディアンの民謡や
黒人霊歌に対する深い関心をよせていたが、彼が終生
変わらない愛情を注いだボヘミアの民族音楽とが緊密に
融合されるいて、スラブ的な情熱とアメリカ民謡のもつ
哀愁を帯びた抒情性を兼ね備えている。

この作品は、彼の代表作であるばかりでなく、数少ない
チェロ協奏曲の傑作として、広く愛好されている。

               第1楽章 Alleglo         
               第2楽章 Adagio ma non troppo   
               第3楽章 Finale: Alleglo moderato  





《 9月の風 》

【 弦楽四重奏曲 ヘ長調 作品96「アメリカ」】

ドヴォルザークの写真や絵を見ると、髭とギョロリとした
目玉が印象的だが、彼は典型的な朝方の芸術家で、早寝早起きを
励行し、毎朝4時に起きて仕事を始めたという。
家族に対しては良き夫であり、良き父であり、芸術家に
ありがちな奇行や偏屈なところがほとんどなかった。
良妻に恵まれたことが、なによりの幸運だったのだろう。

彼が、音楽の次に汽車が好きだったことは有名であるが、
1892年9月に、ニューヨークのナショナル音楽院の
院長として滞在するため、10日間の船旅を終えて
新世界アメリカの土を踏んでから、船にも魅了されたようだ。

郷愁にかられ、1895年には帰国してプラハ音楽院の
教授となり、教育者として大きな業績を残した。

アメリカに滞在中、故郷からの移民団のいるアイオワ州の
スピルヴィルに出かけて、ボヘミアにいるような気持になり
故国を思いつつ、アメリカ大陸で受けた強い印象から
作られたのが弦楽四重奏曲「アメリカ」で、
その少しまえに交響曲「新世界」を作曲している。

弦楽四重奏曲は13曲以上作曲しているが、なかでも
最もよく演奏され、有名なのがこの「アメリカ」で、
もとは「ニガー」(アメリカ黒人)と俗称されていた。
スピルヴィルには9月の中旬まで滞在していたようなので、
9月の空気を吸いながら作曲したのかもしれない。

              第1楽章 Alleglo ma non troppo   
              第2楽章 Lento         
              第3楽章 Molto vivace      
              第4楽章 Finale: Vivace ma non troppo




《 民族的 》

【 ピアノ五重奏曲 イ長調 作品81 】

ドボルザークの五重奏曲は5曲あるが「イ長調」は名作として知られている。

ピアノ五重奏曲 第1番 イ長調 (1872)   
ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 作品81(1887)

46歳のときの作品で、すでに国際的な名声をにない、
また優れた作品を相次いでだした時代である。

旋律美と地方色と楽器用法の巧さと、円熟した
彼の長所が発揮されている作品で、
第2楽章の「ドゥムカ」(ロシアやボヘミアの民謡の哀歌)は、
スラブ民族的な哀調と熱情が人をひきつける美しい楽章である。

ボヘミアの民族舞曲の「フリアント」
(強いアクセントのつく急速度の活発な舞曲)が 使われた
第3楽章は、激しいフシと甘美なフシとが交互に現れる。

               第1楽章 Allegro ma non tanto 
               第2楽章 Andante con molto 
               第3楽章 Molto vivace    
               第4楽章 Finale: Allegro   




《 スラブ的 》

【 ピアノ三重奏曲 ホ短調「ドゥムキー」作品90 】

ドボルザークの三重奏曲は、ピアノ三重奏曲の4曲と
弦楽(バイオリン2とビオラ)のものの5つある。

              弦楽三重奏曲 作品74(1887)     
              ピアノ三重奏曲 作品21 変ロ長調(1875)
              ピアノ三重奏曲 作品26 ト短調(1876) 
              ピアノ三重奏曲 作品65 ヘ短調(1883) 

最もよく演奏されるのが作品90で、
この曲だけ「ドゥムキー」とつけられている。

スラブ民族の哀歌の「ドゥムカ」の複数名詞で、
第5楽章全体がスラブ的な地方色をあらわし、
ドゥムカ特有の哀愁と情熱、美しくかつ力強い作品は、
ひろく愛され、あらゆる三重奏曲中でも有名な一つとなっている。

この曲を作曲したのはドボルザーク49歳のときだが、
この年に彼はプラハ音楽院教授となり、その秋には
プラハで生誕50周年祝賀が盛大に行なわれた。

プラハ大学からは名誉学位を贈られ、またイギリスの
ケンブリッジ大学からも名誉学位を贈られという社会的栄誉の年で、
大器晩成のドボルザークがようやく正当な地位を報いられたことになる。
作風としても十分に円熟した時期だった。

1891年4月11日に、プラハで初演された。

                第1楽章 Lento maestoso 
                第2楽章 Poco adagio  
                第3楽章 Andante    
                第4楽章 Andante moderato
                第5楽章 Allegro     
                第6楽章 Lento maestoso  





《 チェコとスロバキア 》

【「スラブ舞曲」作品46、72 】

  ドヴォルザークは、1841年9月8日、 ボヘミア(チェコ)の
 プラハ近郊のネラホゼヴェス村で、肉屋兼業の旅館の長男として生まれた。
 スメタナの交響詩でよく知られるモルダウ川の岸辺にある
 平和な美しい村だったようだ。

 幼年時代から音楽の才能をあらわしていたが、父親は息子に家業を
 継がせようとし、16歳のときしばらくの間家業に精をだしたものの、
 その間も音楽の勉強は続けていて、結局父親がおれて
 プラハ音楽院で学ぶことになった。
 モーツアルトが天才型だとすれば、ドヴォルザークは努力型だったようだ。

 24歳のとき、ピアノを教えていた金細工師の娘のヨセフィーナと
 愛し合うが、彼女は伯爵に嫁いで行ってしまう。
 だが、8年後にアルト歌手だった彼女の妹のアンナと結婚し、
 幸せな家庭を築いた。

 大作曲家ブラームスは、新進作曲家ドヴォルザークの作品の独創性と
 芸術性を高く評価し、2人はかたい友情の絆で結ばれていた。

 「スラブ舞曲」は、ブラームスの「ハンガリー舞曲」の
 スラブ版として作られ、当時から大変な評判だった。
 「ハンガリー舞曲」と同じように、原曲は2台のピアノによる
 4手連弾だが、すぐに管弦楽用に編曲されている。
 生き生きとしたリズムが、スラブの民族音楽のエネルギーを感じさせる。




《 郷愁 》
 

【 ユーモレスク 作品101の7 】 

ピアノ独奏曲の「ユーモレスク」は全部で9曲あって、
作品番号のついてない1曲をのぞいて、8曲は
53歳の夏、寛いだ気分で気楽に書き上げたものである。

彼は、51歳のときニューヨークの国民音楽院の院長として
招聘され、2年間の約束でアメリカに渡ったが、郷愁はつのり
夏の休暇に故郷ボヘミアに帰り、ヴィソカーの田舎の自宅で
久しぶりに寛ぎ、心ゆくばかりふるさとのわが家の
幸福感に浸っていたときだった

曲は明るくて親しみ深く、幸福感のただよう
上品なものとなっている。
第7番の変ト長調がもっともすぐれていて、広く愛好されているので、
「ユーモレスク」といえばこの曲をさすようなものである。
ヴァイオリンやサキソフォンの独奏曲としても好んで演奏されている。




《 わが母の教えたまいし歌 》
 
 【 ジプシーの歌 作品55 】 

ドヴォルザークは、1841年9月8日にボヘミア(チェコ)の
プラハ近郊のネラホゼヴェス村で生まれた。
この村は、スメタナの交響詩でよく知られるモルダウ川の
岸辺にある平和な美しい村だった。
彼は肉屋兼業の旅館の長男で、7人の弟妹がいた。

幼年時代から音楽の才能をあらわしていたが、父親は息子に
家業を継がせようとし、16歳のときしばらくの間家業に
精をだしたものの、その間も音楽の勉強は続けていて、
結局父親がおれてプラハ音楽院で学ぶことになった。
モーツアルトが天才型だとすれば、
ドヴォルザークは努力型だったようだ。

24歳のとき、ピアノを教えていた金細工師の娘の
ヨセフィーナと愛し合うが、彼女は伯爵に
嫁いで行ってしまった。
8年後にアルト歌手だった彼女の妹のアンナと結婚したが、
2年間に最初の子どもを3人失うという悲しい出来事があった。
しかし、その後子どもにも恵まれ、良き夫、良き父として
幸せな家庭を築いた。

1901年60歳のときにオーストリア政府より
終身上院議員の栄誉を受け、プラハ音楽院の院長にも就任し、
その年の誕生日には大々的な祝典が催された。

日露戦争が始まった1904年の3月に
ドヴォルザークは、腎臓病で倒れた。

そして、彼が作曲した最後のオペラ「アルミダ」の初演の後
まもない5月1日、家族と一緒に昼食をとった直後に
脳出血に襲われ、そのまま息をひきとってしまった。

それまで病気らしい病気をしたことがなく、
自分の体を過信していたようで、元気だと思い込んでいた
ドヴォルザークにとってはあっけない最期だった。

62歳で永眠したドヴォルザークの生涯は、若いうちは
大変苦労をしたが、30代の半ばに栄光への道が
開かれだしてからは、幸運の連続だった。
とはいえ、被抑圧民族としての悩みや、芸術上の疑問にも
多くぶつかったようで、それらを克服しながらの
音楽生活をおくったようだ。

ジプシーの歌は、7曲からなる歌曲集で、
39歳のときに書かれた。
それまでにも歌曲を数々書いているが、この曲集で
歌曲創作のクライマックスに達している。

歌詞は、ボヘミアの抒情詩人アドルフ・ヘイドゥークの作で、
民族的な題材をもち、ジプシーらしく
自由を愛する精神にあふれている。
そのような感情と精神の詩がドヴォルザークを
魅了したのだろうといわれている。

第1曲「わが歌ひびけ」     
第2曲「きけよトライアングル」 
第3曲「森はしずかに」     
第4曲「わが母の教えたまいし歌」
第5曲「弦を整えて」      
第6曲「軽い着物」       
第7曲「鷹は自由に」      

第4曲の「わが母の教えたまいし歌」はドヴォルザークの
歌曲の中で最も有名なもので、母想いの彼の感情に
この歌詞が強く心を打ったのだろう。

老いた母が私に歌を教えていたときに、
目に涙を浮かべていたが、
いま私が自分の子にその歌を教えるときにも、
日焼けした頬にやはり涙を流す。

(歌詞大意)