《 麗しい夫婦愛 》
【 交響曲 第1番 変イ長調 作品55 】
近代イギリスを代表する作曲家のエルガーは、
エルガーは149年前の6月2日、イギリスのウスター近郊の
ブロードヒースで生まれた。
父は楽器商で、教会オルガニストを兼ねていて、
エルガーは父から手ほどきを受けた。
数人の師に短期間学んだ他は、ほとんど独学でヴァイオリン演奏、
作曲に必要な技能を収得し、郷里の楽壇を振り出しに
着々と地位をきずいていった。
彼が作曲家として成功し、大作を次々と発表した創作活動の
最盛期は、41歳から62歳にかけての約20年間で、
二つの交響曲をはじめ多くの作品を書いた。
重厚なイギリス人らしい風格をそなえながらも、ほどよい
ロマン的叙情性をもち、しかも淡い憂愁をたたえた曲種は、
しみじみとしたすてがたい味わいをもっている。
エルガーの妻アリスは、彼よりも9歳近く年上だが、
麗しい夫婦愛で世に知られていた。
彼女の愛と信念と献身のお陰で鋭意作曲に没頭することがで き、
大規模な作曲を始め、野心的な作品が作られていった。
1920年に最愛の妻アリスが亡くなり、傷心のあまり再起しようとせず、
その後は独創的な大作を書かなかった。
イギリス音楽の再生に対して、彼が誰よりも多くを
寄与したことで、1904年に騎士に列せられ、
1904年に騎士に列せられ、1931年にはジョージ五世から、
準男爵の位を授けられた。
17年後に生まれたイギリスの作曲家ホルストと同年に、
76歳で世を去った。
第1楽章 Andante nobilmente e semplice - Allegro
第2楽章 Allegro molto
第3楽章 Adagio
第4楽章 Lento - Allegro
《 遺作 》
【 交響曲 第3番 ハ短調 作品88 】
1932年にBBCが「交響曲第3番」の作曲をエルガーに委嘱し、
書き進めたものの未完に終わり、彼の遺作となった
65年後の1997年になってアンソニー・ペインの補筆により
4楽章の交響曲として完成し、翌年の2月15日に
アンドルー・デイヴィス指揮、BBC交響楽団により初演され、
大好評だった。
第1楽章 Allegro molto maestoso
第2楽章 Scherzo: Allegretto
第3楽章 Adagio solenne
第4楽章 Allegro
《 ピチカート・トレモロ 》
【 バイオリン協奏曲 ロ短調 作品61 】
大規模な「バイオリン協奏曲ロ短調」は、エルガーの作曲活動が
一番盛んな53歳のときに作られた。
バイオリンの至難な技巧を駆使し、しかも彼自身の創案した
ピチカート・トレモロという奏法を用い、エルガーの蘊蓄を傾けた
大作として知られている。
彼の他の作品と同様に、派手ではないが豊かな旋律と和声の
しっとりとした美しさ、されにイギリス人らしい巨木のような構成で、
形式にはまった堅実そのものの曲である。
総譜に「ここにある人の精神を封じてある」と記しているが、
これは友人の性格描写をおこなおうとしたようである。
1910年11月10日ロンドンのクィーズ・ホールで、
作曲者自身の指揮とクライスラーのバイオリン独奏によって
おこなわれ、非常に好評を得た。
この曲は、クライスラーに捧げられた。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegro molto
《 哀愁 》
【 チェロ協奏曲 ホ短調 作品85 】
彼が作曲家として成功し、大作を次々と発表した創作活動の最盛期は、
41歳から62歳にかけての約20年間で、その最後の大作が
この「チェロ協奏曲」である。
エルガーの妻アリスは、彼よりも9歳近く年上だが、
麗しい夫婦愛で世に知られていた。
彼女の愛と信念と献身のお陰で鋭意作曲に没頭することがでした。
しかし、「チェロ協奏曲」を作曲した翌年に最愛の妻アリスが
亡くなり、傷心のあまり再起しようとせず、その後は独創的な
大作を書かなかった。
1919年62歳のときの作品で、全体を通じて流れる
哀愁が印象的である。
エルガーがもつ独特のリリシズム、叙情性が
この1曲に集約されているともいえる。
この当時は、ヨーロッパでは第一次世界大戦の影響で
荒廃していた時期にあたる。
イギリスも大変な打撃を受けていて、愛国者のエルガーは
戦争中には国民の感情を高めるために、勇ましい行進曲などを
作曲していたが、それはエルガーにとっては苦痛だった。
そのことを気に病み後悔をしていたエルガーの心情が
哀愁となってあらわれている。
4楽章からなるが、1、2楽章は続けて演奏される。
第1楽章 Adagio - Moderato
第2楽章 Allegro molto
第3楽章 Adagio
第4楽章 Allegro - Moderato - Allegro ma non troppo
1919年10月に初演されたときは、評判にはならなかったが、
次第に人気を得て、カザルスをはじめ多くの名演奏家の
レパートリーとなって演奏されている。
デュ・プレ,ジャクリーヌ (英)
(1945.01.26〜1987.10.19) 42歳 多発性硬化症
イギリスが生んだ天才女流チェリストのデュ・プレは、
オックスフォードで生れた。
4歳からチェロ学び、並外れた音楽的才能はすぐさま開花した。
16歳のときに、ロンドンでデビューしバッハからエルガーまで
幅広いレパートリーをもっていた。
22歳のときに、ピアニスト・指揮者のバレンボエムと結婚し、
ピアノソナタなど、数々の名演を残している。
1973年の春に来日したが、体調不良のため演奏会はキャンセルされ、
秋に不治の病の多発性脳背髄硬化症と診断された。
演奏活動ができなくなり、引退を余儀なくされたが、
数年間は、後進の育成をあたった。
しかし、ほとんど寝たきりの状態が続き、42年の生涯を閉じた。
悲愴的なエルガーの「チェロ協奏曲」を演奏する生前のデュ・プレは、
イギリス国内で大衆的な人気を集めた。
《 戴冠式頌歌 》
【「威風堂々たる陣容」第1番 】
エルガーの父親は、教会のオルガニストだった。
最初、父の意志で法律家になろうとしたが、自分の天職は
音楽だと感じ、ピアニスト兼指揮者として足を踏み入れた。
エルガーの5曲の軍隊行進曲の総称が「威風堂々たる陣容」だが、
今日演奏されるのは第1番で、「威風堂々」といえばこの曲である。
イギリスのエドワード7世の戴冠式に際し、アルト独唱、合唱をもって
戴冠式頌歌に用いることを命ぜられ、この旋律が
「希望と光栄の国」のために用いられた。
作曲されたのは1901年で、その年の10月19日に初演された。
民謡的な美しさを持ちつつ、華麗でかつ堂々たる行進曲は
人々に喜ばれた。
曲題の「威風堂々」は、シェイクスピアの「オテロ」中の
「栄光への別れ」の場のセリフから引用されたものである。
イギリス音楽の再生に対して、彼が誰よりも多くを寄与したことで
1904年には騎士に列せられ、1931年にジョージ五世から
准男爵の位を授けられた。
《 ? 》
【 変奏曲「謎」 作品35 】
エルガーが、卓越した作曲家として決定的に証拠立てた作品は、
1899年に発表した変奏曲「謎」であった。
主題と14の変奏曲からなるこの曲は、14人の友達に捧げられているが、
それが誰なのかは明らかではなくて、それが謎なのである。
そして翌年に作曲したオラトリオ「ジェロンティウスの夢」は、
彼を国際的に有名にした。
この曲を聴いたリヒャルト・シュトラウスは、大家の作であると賞賛した。
エルガーが、作曲家としての卓越を決定的に証拠立てた作品は、
1899年に発表した変奏曲「謎」であった。
主題と14の変奏曲からなるこの曲は、14人の友達に捧げられているが、
それが誰なのかは明らかではなくて、それが謎なのである。
14の変奏曲は、それぞれ頭文字その他で示されている。
主題
第1変奏(C.A.E.)
エルガー夫人のキャロリン・アリス・エルガーを意味するものと思われる。
第2変奏(H.D.S.P.)
↓
略
↓
第14変奏(E.D.U.)
必ずしも音楽家ばかりでない、14人の友達の特徴を、彼らを
面白がらせ、また自分を面白がらせるために、私がこれらの
変奏の中にスケッチしたことは事実であるが、
これは個人的な事柄であるから公表する必要はない。
この変奏曲は、たんに1つの楽曲としてみなされるべきである・・・
(エルガーの説明)
そして翌年に作曲したオラトリオ「ジェロンティウスの夢」は、
彼を国際的に有名にした。
この曲を聴いたリヒャルト・シュトラウスは、大家の作であると
賞賛した。
《 自作のコラージュ》
【 ミュージック・メイカーズ 】
オーケストラ・合唱・メゾソプラノのソロによって演奏される
「ミュージック・メイカーズ」は、1912年55歳のときに初演されたが、
構想と作曲に10年を費やした
エルガー自身が自らの人生を振り返りながら、
生きる意味を問いかけているような作品となっている。
彼が作曲した、2つの交響曲、変奏曲「謎」、バイオリン協奏曲など、
エルガー自身の作品のいろいろな断片が曲の中にあらわれる。
自作のコラージュともいえる諸法は、R.シュトラウスの
交響詩「英雄の生涯」と比較されることもある。
二十世紀を迎えて多くの作品を書いた自分への
労いやご褒美のような曲ともいえる。