
《 ロシア国民音楽の父 》
【
歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲 】
グリンカは、ロシア国民楽派の祖として知られ、また十九世紀の
東ヨーロッパにおける国民主義音楽の先駆的存在でもあった。
彼は早くから音楽の勉強をしていたが、父の意志により、
運輸省に勤務したが、もともと身体の弱かったグリンカは、
6年後に公職を辞して音楽の勉強をやり直した。
歌劇「ルスランとリュドミラ」は、題材をロシアの民話に採り、
ロシアの民謡風な音楽を用いた点で注目された。
物語は、キエフの大公の娘リュドミラ姫に、3人の求婚者が争い、
悪魔やら怪物やらが出てきていろいろの事件が生じるが、
最後にその3人のうちの1人で、姫の愛人である騎士ルスランが
姫と結ばれる話である。
序曲は明快快活で変化が多く、ロシア的地方色も豊かで、
当時としてはめずらしく6全音音階がたくみに用いられている点で、注目された。
《 皇帝に捧げた命 》
【 歌劇「イワン・スサーニン」】
近代ロシア国民音楽の父と呼ばれたグリンカは、地主の父の息子として、
ロシアのユモレンスク州で生まれ、少年時代を生地の村で過ごした。
近くに住んでいた叔父が、農奴で作った小編成の吹奏楽団をもっていて、
グリンカの家の催しごとのときなどには、この楽団がやってきて、
ロシア民謡の編曲などを演奏した。
少年時代にこうした民謡に親しんだことが、やがて彼を
国民音楽の創造に向かわせた第一歩であったろうと、
後にグリンカは〈自叙伝〉の中で回想している。
国民オペラの創始者でもある、グリンカの最初の作品となったのが
歌劇「イワン・スサーニン」である。
グリンカ以前の歌劇を中心とした芸術音楽は、
イタリアの作曲家のものか、イタリア風の手法で作曲した
ロシア人の作曲家のものしかなかった。
そこで、彼は基本的にはイタリア歌劇の形式を用い、
ロシア民謡の特色の濃い旋律によって作曲した。
また、同じスラブ民族であるポーランド人の音楽要素も
取り入れていて、ロシアとポーランドの民族音楽を対比させ、
効果的に劇の進行をさせている。
「イワン・スサーニン」は、1836年11月27日に
ペテルブルグの宮廷歌劇場で初演された。
そのときニコライ一世の命により、題名を「皇帝に捧げた命」と
改めさせられたが、ソビエト政権になってからは
「イワン・スサーニン」の名に復した。
1613年、ロマノフ王朝成立期の動乱時代のヴォルガ河に沿った町
コストロム近くのドムニン村とモスクワをを舞台に、
物語りは展開される。
登場人物は、皇帝の命を救うためポーランド兵に殺される
イワン・スサーニンと娘のアントニーダ、許婚、養子の4人で、
序曲と第4幕、エピローグで構成された作品である。
戦いの合唱「わが祖国ロシア」 で幕があがる。
第4幕で、殺されるスサーニンが悲痛な思いで歌う
「さし昇る私の太陽よ」は、有名なアリアである。
《民族的素材》
【 幻想曲「カマリンスカヤ」】
(婚礼の歌と踊り歌の主題による幻想曲)
「ロシア国民音楽の父」といわれたグリンカは、
国民オペラの創始者でもあり、32歳のときに初演された
「皇帝に捧げた命」は大成功をおさめた。
彼は、1845年から47年にかけてスペイン各地を旅行し、
独特なスペイン民族音楽を収集して歩いた。
その成果として、スペインの民族音楽を用いた管弦楽曲の
傑作が生まれ、自信を得た彼は、自国ロシアの民族的素材による
交響管弦楽曲の創造を志して、「カマリンスカヤ」を書いた。
はじめの曲名は「婚礼の歌と踊り歌」であったが、
後に「カマリンスカヤ」と改名した。
「そのころ私は偶然のことから田舎で耳にした婚礼の歌「高い山から」
と、流行していた踊り歌「カマリンスカヤ」との間に
非常な類似のあることを発見した。
すると、にわかに私の想像がはたらきだし、
ピアノ曲の代わりに管弦楽用の「婚礼の歌と踊り歌」を書き上げた」
と回想録の中で述べている。
「カマリンスカヤ」とは、もともと2拍子の短い7小節の旋律を
反復する、ロシア農民の民族群舞の1つであるが、
民族舞曲中小節数が奇数で終わる唯一のものである。
ロシア民謡のもつ独特な性格を失うことなく、これを管弦楽曲の
素材として使うということは、イタリア風音楽一辺倒であった
当時のロシア楽壇では、まだ誰も成功してなかった。
この曲の歴史的価値は高く評価されているが、
リムスキー=コルサコフは「グリンカは『カマリンスカヤ』によって
ロシア民謡の旋律の交響楽的扱い方を子孫にしめしてくれた」といい、
チャイコフスキーもまた、「樫の大木が1つの実から生まれるように
『カマリンスカヤ』には、あらゆるロシア音楽の流派が含まれている」
と述べている。
47歳のときに母親の死にあった グリンカは、
もともと身体の弱かったこともあり、その後健康がすぐれなかった。
彼は死の前年、教会音楽を研究するためにベルリンに赴いたが、
十分に成果をあげないうちに57歳の2月15日にこの地で客死した。
《民族音楽》
【 幻想的序曲「マドリードの夏の夜の想い出」】
(スペイン序曲第2番)
グリンカは、ユモレンスク州で生まれた。
父は地主で、彼は少年時代を生地の村で過ごした。
近くに住んでいた叔父が、農奴で作った小編成の吹奏楽団をもっていて、
グリンカの家の催しごとのときなどには、この楽団がやってきて、
ロシア民謡の編曲などを演奏した。
少年時代にこうした民謡に親しんだことが、やがて彼を国民音楽の
創造に向かわせた第一歩であったろうと後にグリンカは
〈自叙伝〉の中で回想している。
グリンカは、ロシア国民楽派の祖であると同時に、
ロシア・シンフォニズムの確立者であった。
1845年から47年にかけて、彼はスペインで過ごしたが、
旅を終えた翌年からワルシャワに定住した。
ここで、彼はワルシャワ公のイヴァン・パスケーヴィッチの知遇を得て、
公の管弦楽団のために作曲したのがこの序曲である。
4つの民族舞曲の連曲の形式をとっていて、
巧みな管弦楽法によって、南国の香りをゆたかに漂わせ、
後の印象派の手法に近いものを感じさせる作品である。
《ホタ・アラゴネサ》
【 幻想的序曲「ホタ・アラゴネーサ」による
華麗な奇想曲 】(スペイン序曲 第1番)
グリンカは、ロシア国民楽派の祖として知られ、また十九世紀の
東ヨーロッパにおける国民主義音楽の先駆的存在であった。
国民オペラの創始者でもあり、32歳のときに初演された
「皇帝に捧げた命」は大成功をおさめた。
3拍子の速いリズムの「ホタ・アラゴネサ」は、スペインの
アラゴン地方の有名な民族舞踊および、その民謡である。
1845年から47年にかけて、彼はスペインで過ごしたが、
その間に異国情緒にあふれるスペインの民族舞踊にすっかり夢中になり、
これを素材にした国民的音楽を書くことに執着を感じて
作曲したのが「華麗な奇想曲」で、この曲は後に
オドエフスキー公の勧めで、「スペイン序曲」第1番と改題された。
《 ロシアへの郷愁 》
【 二つのロシアの主題による序曲 】
ロシアの最初のオペラ「皇帝に捧げた命」は1836年に
作曲したが、部分的にはロシア民謡に基づいている。
彼は1830年から4年間、イタリアで過ごした。
そして、ロシアへの帰国を前にベルリンで作曲したのが
「二つのロシアの主題による序曲」で、グリンカの
長い旅の終わりに作られたこの曲は、ロシアへの郷愁が、
色濃く感じられる作品である。
《 イタリアで 》
【 弦楽四重奏曲 ヘ長調 】
グリンカは1830年から4年間、イタリアで過ごした。
26歳のこの年体調を崩し、勤めていた運輸関係の公務員を退職し、
音楽を学ぶために転地療養を兼ねてイタリアに向かった。
ここで、メンデルスゾーンやベルリオーズに会った。
またイタリアのオペラ作曲家ベツリーニやドニゼッティとも
知り合い大いに刺激を受けた。
この時期に書かれたのが「弦楽四重奏曲ヘ長調」で、
古典的な形式による作品だが、第2楽章にはこの時期に
研究を重ねたイタリア歌劇からの影響がみられる。
《 近代ロシア音楽の父 》
【 悲愴三重奏曲 ニ短調 】
イタリア留学中の1832年に完成した「悲愴三重奏曲」は
クラリネット、ファゴット、ピアノのために書かれている。
イタリア的な旋律の美しさと、ロシア的な雰囲気を讃えた作品で、
第1楽章の第1主題でクラリネットが
悲哀を帯びたメロディをしみじみと歌っている。
4楽章でできているが、全楽章は続けて演奏される。