ハイドン,フランツ・ヨーゼフ  〔オーストリア〕
(1732.03.31 〜 1809.05.31) 77歳 (衰弱)

           【 交響曲 第6番 ニ長調「朝」】
           【 交響曲 第92番 ト長調「オックスフォード」
           【 交響曲 第94番 ト長調「驚愕」】
           【 交響曲 第100番 ト長調「軍隊」】
           【 交響曲 第101番 ニ長調「時計」】
           【
交響曲 第104番 ニ長調「ロンドン」
 
          【 トランペット協奏曲 変ホ長調 】
           【 弦楽四重奏曲 ハ長調 作品76の3「皇帝」】
           【 弦楽四重奏曲 ト長調 作品 77の1 】
           【 オラトリオ「天地創造」】
           【 オラトリオ「四季」】

           【 オラトリオ「十字架上のキリストの七語」

        





 《 幼時の経歴 》

【 交響曲 第6番 ニ長調「朝」】

ハイドンの父は、最初の妻との間に12人の子どもをもうけたが、
妻の死後に再婚し5人が生まれ、ハイドンは第2子で長男だった。
両親の先祖に音楽家はいなかったが、ハイドンの弟2人は
音楽家となっている。

家族との間に数多くの手紙を残したモーツアルトの場合と違い、
ハイドンは中年に至るまでの書簡や記録が
きわめてわずかしか保存されてない。

幼時の経歴については、1776年に彼自らが小伝をしたためている。
「私は、1732年3月の最後の日にライタ湖畔ブルック近傍にある、
低オーストリアのローラウで生まれました。
私の亡父の職業は車大工で、ハラッハ伯につかえていました。
父は生来大の音楽好きで、一音も楽譜が読めないのに
ハープを演奏しました。

そして私は5歳の子どもだったのに、父を真似て父の弾く
小さな単純な曲を正しく歌うことができました。
その結果、父は音楽の初歩の教育や、その他子どもの
初等教育ができるようにと、ハンブルグで学校の校長をしていた
親戚に私を預ける気になったのでした。
全能なる神が、わたしに特別の才能を授けたので、
音楽をやすやすと習得でき、はやくも6歳のときには、教会の
高い合唱席でものおじせずに2、3のミサを歌うことができましたし、
またクラヴィーアやヴァイオリンを少しばかり弾くことも
できるようになっていました。」

29歳になった1761年から30年間、エステルハージ家での
長い多忙な宮廷生活が始まり、5年後に宮廷楽長となった。
温厚で勤勉なハイドンは、楽員の人望を集め、当主の信頼も厚かった。

生活は完全に保証されていたが、自由のない窮屈な
毎日を強いられていた。
しかしその間に、膨大な数にのぼる交響曲、協奏曲、室内楽を
作曲し、大作曲家としての名声を得た。

エステルハージ侯爵から三部作の作品依頼があって
作曲したのが「交響曲第6番“朝”」「交響曲第7番“昼”」
「交響曲第8番“夕”」の3つの交響曲で、新しい楽団の技量を
生かすためにあらゆる楽器にソロを与え、三部作は交響曲というよりは
バロック音楽的な合奏協奏曲の形となっている。




 《 交響曲の父 》

【 交響曲 第92番 ト長調「オックスフォード」】

古典派時代は交響曲の開花とともに始まった。
「交響曲の父」「パパ・ハイドン」とよばれたハイドンの現存する作品は、
104曲とされていたが、近年の研究でさらに2曲が加えられた。
数多くのハイドンの交響曲は様々な副題がついているが、
彼自身がつけたものはきわめて少ないとされている。

「交響曲第92番」は、11曲ある「パリ交響曲」と呼ばれる中の
最後の曲で、1788年に作曲された。
ハイドンの心技ともに円熟した56歳の作品である。

この作品はハイドンの「エロイカ」とも呼ばれ、技法の豊かさ、
磨かれた美しい楽想は、交響曲らしい充実した内容となったいる。

1791年に、オックスフォード大学は、
ハイドンに名誉音楽博士の称号を贈った。

その謝意を表するため、ハイドンは大学に赴き、3日間の演奏会を
催したが、最終日に公式の学位授与式の席において、ガウンを着用し、
自ら指揮をして演奏されたのが 「交響曲第92番」 だった。

この曲の名称の「オックスフォード」は、後につけられたもので、
大学への謝礼のために新たに作曲されたものではない。




 《 宮廷生活 》

【 交響曲 第94番 ト長調「驚愕」】

 ハイドンは晩年を迎えてから2回ロンドン旅行をしていて、
「第93番」から「第104番」にいたる12曲はその時に
演奏された作品である。

ハイドンをロンドンに招聘したヴァイオリニスト兼興業師
ザロモンにちなんで「ザロモン交響曲」の名で親しまれ、
「ザロモン演奏会」で演奏された。

交響曲 第94番「驚愕」は、「びっくりシンフォニー」として
親しまれている曲である。
第2楽章の冒頭で、静かで単純な旋律の繰り返しの後に、突然全管弦楽の
強奏で、和音が打ち鳴らされたところからつけられたようだ。

当時の音楽家は貴族に仕え、貴族たちの社交の場のうるおいのために
演奏していたが、演奏が始まっても、おしゃべりや居眠りをする
貴族もいただろうから、驚かされたことだろう。




《 軍隊 》

【 交響曲 第100番 ト長調「軍隊」】

 軍隊風の打楽器が使われている「第100番」の、第2楽章の
コーダは、有名なトランペットの低音域による軍隊信号で始まる。
ザロモン演奏会での初演の新聞予告にすでに「軍隊交響曲」
という呼び方が使われていたが、この曲を「軍隊」と
名付けたのは、ハイドン自身だろうと考えられている。

ハイドンは満3年、イギリスで過ごした。
その日々を、一生で最も幸福な時期だと考えていたし、
また、イギリスを通じてドイツで有名になったのだと、しばしば話していた。
ハイドンはイギリスのいたるところでもてはやされ、
そこで全く新しい世界を発見し、そしてその豊かな収入によって
煩わしい境遇から逃れることができたのだった。

24歳違いのモーツァルトとは交友があったし、
38歳違いのベートーベンとは、彼が20歳のときに会い、弟子として
和声楽を教えているので、モーツァルトとベートーベンの交響曲には
ハイドンの影響があちこちにみられる。




《 信仰心 》

【 交響曲 第101番 ニ長調「時計」】

ハイドンの生地のオーストラリアのローラウ村は、ほぼ中心に
村の教会の塔が建っいて、遠くのどこの農地からでも見ることができ、
この教会を囲んで、ひとにぎりほどの人家が村落をかたちづくっていて、
ハイドン家は、大きな農家の作りだった。

ハイドンの父親マティアスは、祖父の代から車大工を
生業とした家に生まれ、跡を継いだ。
この地方一帯の領主である、ハラッハ伯爵に仕えていて、
邸からもらう仕事をしながら、ぶどう栽培もしていた。

母親のマリアの父は、今日の村長のような、市場裁判官をしていたが、
マティアスはその跡も継ぎ、息子たちの音楽家としての成功も
見とどけて、64歳で亡くなった。

母マリアは家政にすぐれ、敬虔なカトリック信者だったが、
46歳のときに誠実で献身的な生涯を閉じた。
あつい信仰心は、子どもたちにも受け継がれ、ハイドンは作曲する際
かならず「神の御名によって」という言葉を書き込んでから筆をおろし、
また曲の最後には「神を称えて」と記すのがつねであった。

交響曲101番は、ハイドンの交響曲のなかでは特に有名なものの
ひとつで、内容的にも非常に充実した傑作である。

「時計」という名称は、ハイドン自身の命名ではなく第2楽章の
規則正しいスタッカートのリズムによる伴奏が、あたかも時計の
振り子を思わせるところから、後世の人がつけたものである。




《 最後の交響曲 》

【 交響曲 第104番 ニ長調「ロンドン」】

ハイドンは28歳のときにウィーンのかつら師ケラーの娘
テレーゼに恋するが、彼女は修道院に入ってしまい、
彼女の姉のマリア・アンナ・アロイジアと結婚し、家庭を持った。

3歳年上の彼女は家庭的でなく、なによりも自分の夫が
音楽史上まれにみる才能に恵まれた作曲家であることを、
理解することができなかった。

2人の間に子どもはなく、ハイドンが65歳のときに別居し、
妻はリウマチに苦しみながら、夫に先だって71歳で世を去った。

1809年2月7日、ハイドンは2度目で最後の遺言状を作製した。
5月10日、ナポレオン軍がハイドン家の近くまで進攻し、
12日にはウィーンが占領された。

ハイドンは家庭の幸せを味わうことができず、1809年5月26日夕刻、
衰弱のため昏睡状態に陥り、31日午前0時40分、息をひきとった。
6月2日に行なわれた追悼式には、ウィーンの音楽家たちが、
モーツアルトの「レクイエム」を歌って見送った。

ハイドンの遺骸は、1932年にハイドンの生誕200年を記念して、
ときのエステルハージ侯爵の当主によって、侯爵家の菩提寺である
ベルク教会内に立派な廟所が作られ、そこの石棺に収納された。
頭骨は、ウィーン楽友協会の博物館に収められていたので、
全遺骸が合体したのは、1954年になってからだった。




《 鍵盤つきトランペット 》

【 トランペット協奏曲変ホ長調 】

 ハイドンが残した唯一のトランペット協奏曲は、親友であった
ウィーンの宮廷トランペット奏者アントン・ワイディンガーが
発明した鍵盤つきトランペットのために、1796年に作曲されたもので、
ハイドン協奏曲の最後をかざる傑作である。

晩年にふさわしい大編成のオーケストラをしたがえて、
トラアンペットが華やかに活躍したが、この鍵盤つきトランペットは
普及しなかった。

そういうわけで、この曲は新式トランペットの性能試験のために
作られたことになるが、曲種の珍しさと楽想の美しさによって、
現在にいたるまでしばしば演奏されている。
もちろん鍵盤つきトランペットの楽譜は、
通常のヴァルヴ・トランペット用に編曲されている。




 《 国歌 》
 

【 弦楽四重奏曲作品76の3「皇帝」】

 ハイドンが作曲した弦楽四重奏曲は、74曲とされているが、
あまりの多さに正確な数は分からない。

1791年にはイギリスでの生活が始まり、数えきれない程の
栄誉を受けたが、そのなかでも最高の名誉は名門の
オックスフォード大学から、名誉音楽博士の称号を受けたことだった。
翌年にはウィーンに戻っているが、その後もロンドンには何度か訪れている。

1797年、ナポレオン軍がオーストリアを押し寄せる懸念があったとき、
ハイドンはイギリスで聴いた「神よ、国王を救い給え」という国歌に、
深い感銘をおぼえていたので、オーストリア国民の志気を高める
国歌を作ろうと思い「神よ、皇帝を皇帝を護り給え」という曲を作曲した。

この「皇帝賛歌」は、第一次大戦のときまでオーストリア国歌として、
愛唱され続けた。
弦楽四重奏曲作品76の3「皇帝」の第2楽章は「皇帝賛歌」の旋律を
主題として作られている。




《 Hoboken番号 》

【 弦楽四重奏曲 ト長調 作品 77の1 】

 1799年に作曲された「弦楽四重奏曲77」は2曲あるが、
事実上ハイドンの最後のまとまった弦楽四重奏曲となった。
この2曲は、ロブロヴィッツ公に献呈された。
3年後の70歳のときに未完の一曲「作品103」を作っているが、
「私の力は永久に去った。私はすでに老いて、弱い」という
言葉とともに、中間の2つの楽章だけしか書かれなかった。

ハイドンの作品には、オランダの音楽学者の
アントニー・ヴァン・ホーボーケンが整理してつけた
ホーボーケン番号(Hob.)が使われている。
「作品77ー1」は、ホーボーケン番号ではHob.?.81となっている。




《 祈り 》
 

【 オラトリオ「天地創造」】

 ハイドンは、1790年から95年にかけて2度、イギリスを訪れているが、
その折、力強く根をおろしているヘンデルのオラトリオの数々に接し、
雄大な音楽の説得力に深い感銘を受けている。

帰国後本格的な作曲に着手し、「天地創造」(1798年)
「四季」(1801年)を生み、古典派オラトリオの境地を開いた。

ヘンデルと同様に、宗教的な題材によりながらも教会音楽としてではなく、
きわめて現世的に劇的で自由な態度で展開させていて、イタリア風の
派手な技巧的なアリア、ドイツ民謡風の簡潔で素朴な魅力ある
旋律も重用されている。

天地創造の台本は、英国の詩人リドレーがミルトンの「失楽園」に
もとずいて、ヘンデルのオラトリオのために作ったものだが、
それが果たされなかったのでハイドンの手に移り、ヘンデル愛好家の
ドイツ貴族ヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に訳された。

全体は3つの部分からなり、第1、第2部では6日間にわたる
神の天地創造の経過が3人の天使によって物語られる。
第3部では楽園にあるアダムとイブとを扱う構成となっている。

蜜蜂の羽音、蛙の鳴き声、小川のせせらぎ、雷鳴、バラの香りなどの
自然描写が管弦楽部と声楽部によって、効果的に音化されている。




《 自然 》
 

【 オラトリオ「四季」】

 「四季」といえばヴィヴァルディを思い浮かべるが、
ハイドンはオラトリオ「四季」を書いている。
イギリスの詩人タムソンの詩をもとに、スヴィーテン男爵の
台本によって1801年に完成している。
その後は、数曲の作品しかなくてハイドンの作曲の大要は終わっている。


オラトリオにふさわしい宗教的な内容をもった「天地創造」とは
趣きを異にしていて、「四季」は春夏秋冬の4部から構成され、
小作人シモン、娘ハンネ、若いルーカスを中心に田園の
牧歌的な情景がいきいきと歌われる。

色彩豊かな描写的手法をおりまぜながら、農民たちの素朴な
神への感謝をたたえる「四季」は、ユーモアにみちたパパ・ハイドンを、
ウィーンを取りまく美しいオーストリアの自然を感じさせる。




《 引退 》

【 オラトリオ「十字架上のキリストの七語」】

24歳年下のモーツァルトから“パパ・ハイドン”と呼ばれて
慕われたハイドンは、幼い頃から神童の名をほしいままにし、
36歳の若さで不幸な死を迎えたモーツァルトとは対照的に、
大器晩成型の人生を送った苦労人の音楽家だった。

モーツァルトとは1780年頃に交友が始まっている。
お互に相手の才能を高く評価し、死にいたるまで変わらぬ
深い友情を保ち続けた。

葬儀の後のウィーン市民による追悼式の折は、
モーツァルトの「レクイエム」が歌われている。

38歳違いのベートーベンとは、彼が21歳のときに会い、
ハイドンが師となり、和声楽を教えた。

ハイドンは歌が大変上手だったので、ウィーンの
シュテファン教会の合唱児童として17歳まで過ごした。

しかし声変わりによってボーイソプラノが歌えなくなると、
指揮者からカストラート(高い声を出すために“去勢”された
男性歌手)になることを迫られたが、父親の反対で
それをしなかったため定職を無くし、20代は苦労の連続だった。

後に才能を認められ、29歳のときにハンガリーの有力な
貴族・エステルハージ家の副楽長として迎えられてからは、
自分の楽団を手にして作曲に邁進した。

5年後には楽長に昇進し、時を同じくしてエステルハージ侯が
豪華な別荘「エステルハーザ」を建築したので、その舞台で上演するための
オペラや演劇も一手に引き受け、多忙な日々を過ごした。


そして50歳を過ぎた頃には「エステルハーザの作曲家」として、
ハイドンの名声はヨーロッパ各地に響きわたり、
各国の王室や教会から作曲依頼が殺到した。

オラトリオ「十字架上のキリストの七語」も、そうした作品の
ひとつだが、原曲は1785年にスペインのカディスの
司教座聖堂参事会から委嘱された聖金曜日の器楽曲である。

7つの管弦楽用ソナタ組曲で、それぞれのタイトルとなるキリストの
言葉を、バリトン独唱が歌うレチタティーボがつけられている。

この曲は、後に彼自身の手によって弦楽四重奏用に編曲され、
「作品51」として出版されたが、
更に1797年に独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオとして
書き直されたのが、オラトリオ「十字架上のキリストの七語」で、
「天地創造」「四季」とともにハイドンの傑作のひとつとされています。

ハイドンは、1803年12月26日に行なわれた慈善音楽界で、
この曲の指揮を最後に引退した。
オラトリオ=聖譚曲、宗教的な題材による大規模な叙事的楽曲。
舞台上の演出(背景・衣裳・動作)は伴わない。