
《 3人の人物描写 》
【 ファウスト交響曲 S108 】
交響詩の形を確立したリストは、交響詩の方法を古典的な交響曲にも
活用しようとして、2つの標題交響曲を書いた。
ファウスト交響曲 S108(1854年)
ダンテ交響曲 S109(1856年)
どちらも合唱を伴うもので、「ファウスト交響曲」は
「3人の人物描写による」という副題がついている。
ゲーテの「ファウスト」の人物像に基づいていて、主題あるいは動機で
その人物の特性を音楽によって描いてゆき、各楽章に3人の「性格像」を
最終楽楽章に合唱をおいている。
第1楽章 Faust
第2楽章 Gretchen
第3楽章 Mephistopheles
第4楽章 Final Chorus
第1楽章の「ファウスト」は、真理に対する熱望と
人間の知識の限界を明らかにする。
第2楽章の「グレーチェン」では、リストのあらゆる女性に対する
愛情と讃美を、つねに否定する精神を示す
第3楽章の「メフィストフェレス」では、リストのあらゆる生涯の時期を通して
見い出される悪魔主義がある。
リストは1830年12月に、ベルリオーズを訪問した際に、
ゲーテの「ファウスト」を読むよう薦められ、これを読んだことが
この曲を書くきっかけとなった。
ベルリオーズにこの交響曲を捧げている。
1857年12月5日にワイマールで、リストの指揮により初演された。
リストの作品には、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した
曲目別の目録のサール番号(S.)と、リスト博物館館長の
ペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号(R.)の2つが
用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。

《 ダンテの「神曲」》
【 ダンテ交響曲 S109 】
リストは、ファウスト交響曲 S108(1854年)と
ダンテ交響曲 S109(1856年)の2つの標題交響曲を書いたが、
後の作品の「ダンテ交響曲」は、正式には
「ダンテの『神曲』による交響曲」とよばれる。
ダンテの「神曲」は、リストの青年時代からの愛読書の一つだったと
いわれ、1837年にはピアノ独奏用の「ダンテを読みたるのちに」の
第1稿を書いている。
「ダンテ交響曲」も、1847年ころから主要な主題をスケッチしていたが、
1855年初夏になって本格的に作曲に着手し、翌年の7月に完成した。
初演は完成の翌年の11月7日、ドレスデンの歌劇場で催された
管弦楽団年金基金募集音楽会で、リストの指揮で行なわれたが、
練習不足のため、不評だった。
この作品は伝統的な交響曲と違って、2つだけの楽章でできていて、
第2楽章の終わりには、女声合唱(または児童合唱)を置いている。
そのうえ、第1楽章「地獄」、第2楽章「煉獄」と標題が記されている。
プランをたてる段階で、第3楽章として「天国」を置くつもりだったが、
2歳年下のワーグナーが、
「いかなる人間の声を用いても、天国の喜ばしさを音楽で
表現するのは不可能だろう」と反対したため、
第2楽章の終わりに「マニフィカート」を合唱で歌わせて、
第3楽章の代わりとし、これによって天国からの崇高な音楽を聴き、
天国を崇めることを表現したのだった。
第1楽章は、失望と無限の苦悩に満ちた地獄の恐ろしさも描き出し、
第2楽章「煉獄」では、内心の浄化と天国への憧憬を書いている。
合唱の歌詞はラテン語で、聖書のルカ伝第1章
第46節以下からとられている、
「ダンテ交響曲」の中には、熱心なカトリック信者としての、
リストの信仰の音楽的な告白もある。

《 トライアングル協奏曲 》
【 ピアノ協奏曲第1番「変ホ長調」 S124】
ショパンが生まれた翌年にリストは生まれた。
ショパンは39歳でこの世を去ったが、リストは74年生きた。
20歳のころのショパンの作品は古典的だったが、
45歳のころのリストの作品は革命的だった。
リストがピアノ協奏曲を何曲書いたのか、正確なところは
分からないが、「第1番変ホ長調」と「第2番イ長調」が
ひろく演奏され、リストの協奏曲はこの2曲ということになっている。
ショパンも、ピアノ協奏曲は2曲残しているが、2人とも
最初に作曲したのは「第2番」だった。
リストの第1番は円熟期の作品で、3度改定されている。
第1番は華麗で輝かしいが、第2番はより詩的で抒情的で
ララソディー風であり、ロマン的である。
それぞれ、リストの音楽の違いを聴くことができる。
この協奏曲は4つの楽章からなり、各楽章を切れ目なく
続けて演奏するようになっている。
第3楽章で、トライアングルを巧妙に使用しているところから
「トライアングル協奏曲」という異名を与えられた。
ピアノを巨匠的に扱って、華々しい効果を出すように作曲され、
ピアノパートは管弦楽と十分に対抗し、むしろ完全に
圧倒するだけの量感がもられている。
管弦楽の扱い方も巧妙なうえに慎重で、特に一つの楽器を
独奏させるときなどは、室内楽的な旋律の目立たせ方をさせている。
第1楽章 Allegro maestoso-Tempo giusto
第2楽章 Quasi adagio
第3楽章 Allegretto vivace-Allegro animato
第4楽章 Allegro marziale animato
1852年2月17日、ワイマールの宮廷演奏会で、
ベルリオーズの指揮、リスト自身のピアノ独奏で初演された。

《 交響詩的 》
【 ピアノ協奏曲 第2番 イ長調 S125 】
第2番の協奏曲は、第1番の協奏曲の経験が生かされていて、
第1部から第6部までが切れることなく続き、単一楽章のような
形態をみせ、管弦楽による交響詩的な構成になっている。
第1番は華麗で輝かしいが、第2番はより詩的で抒情的で
ラプソディー風であり、ロマン的である。
それぞれ、リストの音楽の違いを聴くことができる。
第2番は、1839年に着手しその年に完成したが、
リストは何度も手を加え、初演されたのは1857年1月7日、
ワイマール宮廷劇場で、リストの指揮によって行なわれた。
この第2番の協奏曲は、第1番の協奏曲の経験が生かされていて、
第1部から第6部までが切れることなく続き、単一楽章のような
形態をみせ、管弦楽による交響詩的な構成になっている。
第1部 Adagio sostenuto assai
第2部 Allegro agitato assai
第3部 Allegro moderato
第4部 Allegro deciso
第5部 Marziaje un poco meno allegro
第6部 Allegro animato

《 単一楽章 》
【 交響詩「タッソー、悲嘆と勝利」】
多感な青年時代に、リストはベルリオーズの「幻想交響曲」に感銘を受け、
単一楽章の交響的な管弦楽曲の『交響詩』を創始した。
1、交響詩「人、山の上で聞きしこと」(山岳交響曲)
2、交響詩「タッソー、悲劇と勝利」
3、交響詩「前奏曲」
4、交響詩「オルフェウス」
5、交響詩「プロメテウス」
6、交響詩「 マゼッパ」
7、交響詩「 祭りの響き」
8、交響詩「英雄の輝き」
9、交響詩「ハンガリー」
10、交響詩「ハムレット」
11、交響詩「フン族の戦い」
12、交響詩「理想」
13、交響詩「ゆりかごから墓場まで」
リストの交響詩は13曲あるが、2曲目となる「タッソー」は、
1849年に作曲したもので、イタリアのルネサンス時代の
叙事詩人のタッソー(1544〜1595)を題材としている。
タッソーは、1575年に「開放されたエルサレム」を発表し、
名声を各地にひびかせた。
丁度そのころ、彼はフェララのアルフォンゾ公に仕えていて、
公の妹に恋をし彼女に多くの詩を捧げた。
しかし、公は彼が精神異常で常人ではないとして、監禁してしまった。
1586年に脱出し、流浪の旅をしながら悲惨な生活を送っていたが、
ローマ法王クレメンス八世はこれを知り、栄誉ある詩人として
月桂冠を与えるべくローマに招いたが、これに間に合わず、
恵まれない生涯を閉じたのだった。
交響詩「タッソー」は、ゴンドラの水夫たちがヴェネチア民謡を
独特な歌い方をしているのが心に残り、この旋律を
中核として構成されている。

《 リストの最期 》
【 交響詩「前奏曲」】
リストは、旅先のバイロイトで、愛する神に召された。
音楽祭に向かう途中で風邪をひき、急性肺炎を併発し、
心筋梗塞のため1886年7月31日午後11時15分に息をひきとった。
晩年は心臓病、慢性気管支炎、鬱病、白内障を患い、
病気との闘いの日々だった。
葬儀は8月3日、バイロイトの全市をあげて行われ、
市立墓地に埋葬された。
リストは死の年までに、数十曲の宗教音楽を書いた。
54歳のときに、カトリックの聖職者となる手続きをとり、
下級聖品(司祭以外の聖職者)の儀式を受けていた。
その時から、彼はアベ・リストと呼ばれ、死ぬまで
神父の服をまとうことになった。
リストだが、交響詩を13曲作曲しているが、
そのなかで最も有名なのが、この「前奏曲」である。
前奏曲というと、オペラや劇音楽などの開幕に演奏する曲、
あるいは組曲などの最初に置かれる曲などを指すが、
リストのこの交響詩は、そういう前奏のための曲ではない。
交響曲のように多楽章のものではなくて、標題となる
イデーにしたがって、自由に構成された単一楽章の
交響詩を案出したのが、リストだった。
われわれの一生は 死によってその厳粛な第1音が 奏でられる
未知の歌への前奏曲でなくて なんだろう
愛は すべての心の輝くあけぼのだ
しかし その喜びと幸せのうえに 荒々しい風が吹きすさんで
希望を打ちこわす
人はこのこのように傷つけられた心を 田園生活の平和の中で
癒そうとし 嵐の想い出を忘れようとする
だが そんな中に危急をつげるラッパが聞こえると
その理由がどのようなものであっても 敢然と立って戦いにおもむき
自信を取り戻すのだ
フランスの詩人ラ・マンティーヌの「詩的瞑想録」の中の一節が
この交響詩の序文に利用されている「前奏曲」(ラ・プレリュード)には
リストの署名が添えられている。
曲は4つの部分の分けることができ、全体は一連の自由な
変奏曲のようになっている。
第1部では「愛」を、第2部では「嵐」を第3部では、ホルンの
牧歌的な美しい響きも出て田園での静かな生活が描かれる。
第4部では戦闘の行進曲が行なわれ、華々しいクライマックスで曲は終わる。

《 交響詩の創始者 》
【 交響詩「オルフェウス」】
リストは「ピアノの魔術師」と呼ばれていたが、「交響詩の創始者」でもあった。
標題音楽をさらに発展させたに交響詩というジャンルを確立し、
13曲の作品を残している。
1853年から1854年にかけて書いた4番目の「オルフェウス」は、
グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の序の
音楽として作曲され、1854年2月16日にヴァイマルの宮廷劇場で、
リスト自身の指揮により初演された。
後にリストは、この曲を独立させて交響詩として出版した。

《ピアノの魔王》
【 ピアノ・ソナタ ロ短調 】
「ピアノ・ソナタ ロ短調」は、変則的なソナタ形式による長大な
単一の楽章からできているが、「ソナタとして発表されたことで
当時の批判は二つに分かれていた。
ワーグナーは「あらゆる概念を越えて、美しく、大きく、好ましく、
深刻で気高い」と書いたが、ブラームスなどの新古典派を
盛り立てていたウィーンの評論家のハンスリックの一派は
「支離滅裂で批判や論議は全く意味を持たない」
と新聞に寄せた批評は、すさまじいものだった。
1857年1月22日に、リストの娘と結婚したコジマの夫の
ビューローの演奏によりベルリンで初演された。
この曲は、シューマンが「幻想曲ハ長調作品17」を
リストに献呈した返礼として、彼に捧げられた。

《 人間関係 》
【 ラ・カンパネルラ 】
リストはハンガリーのボドリアン(ライディング)で、
一人っ子として生まれた。
前年ショパンとシューマンが生まれている。
3人の創作活動は時を同じくしているが、民族の相違や、
幼年期からの生活環境と音楽環境の相違、ピアノの上での
教育の相違は、彼らの創作を各自独特のものとした。
リストとショパンは無二の親友だったといわれる。
ショパン 〔ポーランド〕(1810〜1849) 39歳
シューマン〔ドイツ〕 (1810〜1856) 46歳
リスト 〔ハンガリー〕(1811〜1886) 74歳
ワーグナー〔ドイツ〕 (1813〜1883) 69歳
リストは21歳の時、パリでベルリオーズから6歳年上の
マリー・ダグー伯爵夫人を紹介され、親密な関係となり、
マリーは夫と家庭を捨てて、リストとスイスで新居を構えた。
二人のことは、パリではスキャンダルでもちきりだったといわれている。
長女が生まれたとき、出生届けに母親の本名は記入できず、
私生児として届けられた。
6年後、長男が生まれたが、二人の愛情は次第に冷却し、
マリーは三人の子どもとともに、パリへと去って行った。
35歳のとき、ロシアでの慈善演奏会で多額の寄付をした
カロリーネ・フォン・ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人と知り合い、
愛しあうようになり、お互いに結婚を望んだが、侯爵との離婚が
成立せず、別れることになった。
マリー夫人との間に生まれ、リストによく似た次女のコジマは、
ビューロー夫人となっていたが、彼女も夫の元を去り、
ワーグナーと生活を共にした。
その時のリストの心労は甚だしかったといわれる。
リストは、自作及び他人の作品を数多くピアノ曲に編曲している。
パガニーニが、ある僧院で聞いた鐘の音をヴァイオリンの
ピチカートで表現したヴァイオリン協奏曲第2番の3楽章「鐘」が、
「パガニーニ大練習曲」第3番の「ラ・カンパネルラ」である。
この曲は、シューマンの夫人クララに捧げられた。

《 ハンガリー民族音楽 》
【 ハンガリー狂詩曲 第2番 嬰ハ短調 】
リストのピアノの作品はその多くが、若いころの演奏で忙しかった
巨匠時代のもので、超人的なテクニックを要求するものが多いが、
すべてロマンティシズムに徹している。
19曲のハンガリー狂詩曲は、ハンガリーで収集したジプシーの音楽や、
ハンガリーの民族音楽をチャールダッシュの形式でまとめたものである。
その中でも、もっとも親しまれているのが、1847年に作曲した、
幻想的な第2番である。
ゆるやかな速度で情緒たっぷりなハンガリー風のメロ ディーを歌う
“ラッサン”という部分で始まる。
そしてそれとは対照的に、めまぐるしい急速度で熱狂的な踊りを
あらわす“フリシェカ”という部分が続き、ピアノから管弦楽のような
効果をつくりだしながら、きらめきほとばしる野生の情熱を展開してゆく。
技巧のかぎりをつくしたスケールの大きいピアノ曲となっている。
ハンガリー狂詩曲は、ピアノ独奏曲として書かれたものだが、
弟子のドップラーとで、6曲を選び管弦楽用に編曲した。

《 抒情的な歌曲 》
【 歌曲「三人のジプシー」】
リストは幼少のころから父の手によって音楽教育を授けられ、
早くから素晴らしい才能を示した。
父は望みの全てをわが子にかけて、その音楽修行に、
また演奏活動に付き添って廻ったが、リストが16歳のときに
病気で世を去った。
一人っ子だったリストはその後、母の生活を支えていくことになった。
ピアノ伴奏つきのリストの歌曲は、ピアノ曲や交響曲などに
みることのできない、素朴さと単純さを秘めた抒情的なものが多い。
レーナウの詩による「三人のジプシー」は、リストの49歳の
ときの作品で、哲学的な思想を折り込んだ一種の
バラードともいえるものである。
伴奏は、リストらしく巨匠風で、しかもハンガリー狂詩曲風な面影もある。
三人のジプシーが 疲れて道ばたに たむろしているのを見た
その1人は ヴァイオリンを持ち 夕日の中で 明るい歌を歌っていた
他の1人は パイプをくわえて 煙をながめつつ
幸福感にひたっているかのようで
もう1人は のんびり寝て 楽しい夢を追っていた
みすぼらしい3人だが 自由をもち 世の人々を嘲笑している
ジプシーは 「この世は食い 眠り 楽しむところだ」と
人生の哲理を教えてくれた
疲れた足どりで 私は黒い髪をもつ 彼らをみつめたのだった
(歌詞大意)

《 人間関係 》
【「ラ・カンパネルラ」】
リストは191年前の10月22日、ハンガリーの
ボドリアン(ライディング)で、一人っ子として生まれた。
前年ショパンとシューマンが生まれている。
3人の創作活動は時を同じくしているが、民族の相違や、幼年期からの
生活環境と音楽環境の相違、ピアノの上での教育の相違は、
彼らの創作を各自独特のものとした。
リストとショパンは無二の親友だったといわれる。
ショパン 〔ポーランド〕(1810〜1849) 39歳
シューマン〔ドイツ〕 (1810〜1856) 46歳
リスト 〔ハンガリー〕(1811〜1886) 74歳
ワーグナー〔ドイツ〕 (1813〜1883) 69歳
リストは21歳の時、パリでベルリオーズから6歳年上の
マリー・ダグー伯爵夫人を紹介され、親密な関係となり、
マリーは夫と家庭を捨てて、リストとスイスで新居を構えた。
二人のことは、パリではスキャンダルでもちきりだったといわれている。
長女が生まれたとき、出生届けに母親の本名は記入できず、
私生児として届けられた。
6年後、長男が生まれたが、二人の愛情は次第に冷却し、マリーは
三人の子どもとともに、パリへと去って行った。
35歳のとき、ロシアでの慈善演奏会で多額の寄付をした
カロリーネ・フォン・ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人と知り合い、
愛しあうようになる。
お互いに結婚を望んだが、侯爵との離婚が成立せず、別れることになった。
マリー夫人との間に生まれ、リストによく似た次女のコジマは、
ビューロー夫人となっていたが、彼女も夫の元を去り、ワーグナーに走った。
その時のリストの心労は甚だしかったといわれる。
リストは、自作及び他人の作品を数多くピアノ曲に編曲している。
パガニーニが、ある僧院で聞いた鐘の音をヴァイオリンのピチカートで
表現したヴァイオリン協奏曲第2番の3楽章「鐘」が、「パガニーニ大練習曲」
第3番の「ラ・カンパネルラ」である。
この曲は、シューマンの夫人クララに捧げられた。

《 抒情的な歌曲 》
【 歌曲「三人のジプシー」】
リストは、192年前の10月22日、オーストリの国境地帯にある
小さな農村のボドリアン(ライディング)で生まれた。
父のアダムは、ハイドンにゆかりの深いエステルハージ公家の
土地管理人を勤め、楽才もあった。
リストは幼少のころから父の手によって音楽教育を授けられ、
早くから素晴らしい才能を示した。
父は望みの全てをわが子にかけて、その音楽修行に、また演奏活動に
付き添って廻ったが、リストが16歳のときに病気で世を去った。
一人っ子だったリストはその後、母の生活を支えていくことになった。
ピアノ伴奏つきのリストの歌曲は、ピアノ曲や交響曲などにみることの
できない、素朴さと単純さを秘めた抒情的なものが多い。
レーナウの詩による「三人のジプシー」は、リストの49歳のときの作品で、
哲学的な思想を折り込んだ一種のバラードともいえるものである。
伴奏は、リストらしく巨匠風で、しかもハンガリー狂詩曲風な面影もある。
三人のジプシーが、疲れて道ばたにたむろしているのを見た。
その1人は、ヴァイオリンを持ち、夕日の中で明るい歌を歌っていた。
他の1人はパイプをくわえて、煙をながめつつ、幸福感にひたって
いるかのようで、もう1人は、のんびり寝て、楽しい夢を追っていた。
みすぼらしい3人だが、自由をもち、世の人々を嘲笑している。
ジプシーは「この世は食い、眠り、楽しむところだ」と
人生の哲理を教えてくれた。
疲れた足どりで、私は黒い髪をもつ彼らをみつめたのだった。
(歌詞大意)
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|
1828
|
カロリーネ・ウンガーに初恋 |
1828
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ピアノの弟子の商工大臣の令嬢のカロリーヌと愛し合ったが彼女の父に仲を
裂かれる
|
1833
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6歳年上のマリー・タグー伯爵夫人と親密になる |
1835
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長女ブランディーヌ誕生 |
1837
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次女コジマ誕生 |
1839
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長男ダニエル誕生 |
1844
|
マリー・タグー伯爵夫人と別れる |
1847
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8歳年下のカロリーネ・フォン・ヴィットゲンシュタイ侯爵夫人と知り合う
演奏家を引退。 |
1857
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コジマ、リストの愛弟子のハンス・フォン・ビューロと結婚 |
1861
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カロリーネとの結婚を断念 |
1862
|
ブランディーヌがサン・トロペで死亡 |
1865
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カトリックの聖職者となる |
1866
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母アンナ、パリで死去ブランディーヌの夫オリヴィエが最後の瞬間まで
心をこめて介抱したが、74歳で天に召される |
1867
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コジマ、ワーグナーのもとに走った |
1883
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ワーグナー、ヴェネツィアで客死 |
1886
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バイロイトの音楽祭に向かう途中、風邪をひき、バイロイトに着くと
急性肺炎を併発して、7月31日午後11時15分愛する神に召された。
その7ヶ月後、カロリーネは執筆中の宗教書を完成させて息を引き取った。
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