《 青年の感情 》 【 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」 】 マーラーはオーストリアのカリシュトで、裕福なユダヤ人商人の 12人の子どもの2番目として生まれた。(長男は早世している) 幼少からすばらしい音楽的才能を示し2歳のときには、 数百の民謡と兵士の歌などを覚えていたという。 父はその才能を伸ばすため居をイグラウ市に移した。 彼は音楽だけでなく、ウィーン大学で歴史、哲学、音楽史の 講義にも出席し、カント、ショーペンハウアー、ニーチェなどの書から 多くの影響を受けたし、また、自然化学にも大きな興味をいだいた。 マーラーは作曲家としてよりも、オペラ指揮者として評価されていた。 ウィーン音楽院を卒業してすぐに、ヨーロッパ各地の歌劇場の 指揮者として活躍し、37歳の若さで、ヨーロッパ音楽界で 最高の地位ともいえるウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の 音楽監督に就任し、このポストに10年間とどまり、 ウィーンのオペラ上演史上の黄金期を築いた。 多忙な指揮者マーラーにとって、作曲は副業だったともいえ、 彼の作曲活動は指揮者としての活動がオフ・シーズンになる 夏の休暇に、避暑地の別荘で行なわれていた。 夏休みはそこにこもって曲を書き、都会に戻ってから指揮活動の 合間をぬって曲を練り上げ、清書するというのが常だった。 交響曲第1番は「巨人」と呼ばれるが、作曲家自身が 曲の内容を標題的に示そうとしたもので、ドイツ・ロマン派の 作家ジャン・パウルの同名の「巨人」という詩に基づいている。 第1部 「若人、美徳、結実、苦悩のことなどの日々から」 第2部 「人間的な喜劇」 という題をつけて情緒の観念を明確化しようとした。 この作品は20代後半に作曲されたものだが、人生に目覚めた 20歳代の抒情味あふれた青年の一般的な感情を持っていて、 狭い世界のなかで戦い、血気の多い心で人生に 突入してゆく姿をみせている。 名楽器を歌曲風の旋律で巧妙にうたわせている。 《 愛弟子 》 【 交響曲 第2番 ハ短調「復活」】 マーラーのの交響曲は規模が大きくて、声楽を必要とするものがあるが、 この第2番で使われて以後、交響曲でしばしば声楽を用いるようになった。 また、構成的にも伝統的な4楽章制ではなくて、5つの楽章をもっている。 このように、マーラー風の巨大さへの傾向の最初の作品が この交響曲であるといってもよい。 素朴な叙情性、線的対位法の愛好、民謡風な旋律の使用などは マーラー的な特徴をもち、野心的で意欲的な作品である。 「復活」は、クロプシュトックの「復活」という讃歌に由来する。 マーラーは32歳のときに、大指揮者ビューローに認められて、 以後多忙で病弱なビューローを助けて、代理指揮者となったり、 補助指揮者となったりして、ビューローから指揮に関して いろいろと実地の指導を受けた。 ところが、1894年2月12日にビューローはエジプトで死去した。 ビューローの葬儀の時の印象をマーラーは次のように書いている。 「私が味わった気分、死を考えた気分が私の 手をつけていた作品の精神にぴったりとあてはまった。 そのときに、オルガン伴奏のクロプシュトックの 「復活」の合唱が響いてきた。 電光のように私はこれにうたれた。」 30歳のときに書き始められた第2番は、ビューローの葬儀までに すでに3つの楽章が書き上げられていたが、その年に後の 2つの楽章が書かれ、全曲がハンブルクで完成された。 初めの3楽章までの器楽だけの部分は、1895年の3月にベルリンで リヒャルト・シュトラウスの指揮で初演されている。 R.シュトラウスは、当時のマーラーの数少ない理解者で、 前年に第1交響曲も指揮している。 全曲の初演はその年の12月に、マーラー自身の指揮により ベルリンで行なわれた。 第5楽章のクライマックスは「生きるために死す。汝わが心よ。 汝は瞬時にして復活せん」と復活の主題が歌われ、 力強い崇高な響きの中で、ゆっくりと締めくくられている 《マーラーの自然観》 【 交響曲 第3番 ニ短調 】 交響曲と歌曲の大家のマーラーは、作曲家、指揮者として 活躍したが、交響曲を11曲残している。 初演 交響曲第1番ニ長調「巨人」 (1889年) 交響曲第2番ハ短調「復活」(声楽付) (1895年) 交響曲第3番ニ短調 (声楽付) (1802年) 交響曲第4番ト長調 (声楽付) (1901年) 交響曲第5番ハ短調 (1904年) 交響曲第6番イ短調「悲劇的」 (1906年) 交響曲第7番ホ短調「夜の歌」 (1908年) 交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」(声楽付)(1910年) 交響曲第9番ニ長調 (1910年) 交響曲第10番短調 (1912年) 交響曲「大地の歌」イ短調(声楽付) (1911年) マーラーの交響曲、第2番、第3番、第4番は 「子供の魔法の角笛」の3部作と考えられている。 35歳の夏に書き始め、翌年の夏に完成した第3番は 交響的カンタータとでもいえる形態のもので、6楽章まで拡大され、 合唱も増大されていて、児童合唱も加わる約100分の交響曲である。 全曲の初演は、1902年6月12日にクレーフェルトの音楽祭で、 マーラー自身の指揮により初演された。 曲は大きくみて2つの部分からなり、第2交響曲と同じく 標題音楽的傾向をもっている。 彼はこの曲を「パン」(牧神)、あるいはニーチェにしたがって 「快楽の科学」あるいは「真夏の夜の夢」と呼ぼうとしたといわれる。 第1楽章 「パン(牧神)が目覚める。夏がすすみくる」 第2楽章 「牧場で花が私に語ること」 第3楽章 「森の獣たちが私に語ること」 第4楽章 「人が私に語ること」 (夜が私に告げること) 第5楽章 「天使が私に語ること」 (朝の鐘が私に告げること) 第6楽章 「愛が私に語ること」 それに、第7楽章として「子供が私に語ること」を考えていたが、 これは「天国の生活」として、第4交響曲の基礎となった。 《 子どもによる天国の生活 》 【 交響曲 第4番 ト長調 】 音楽史上マーラーは、R・シュトラウスと共に後期ロマン派の 最後の大作曲家で、作風としてはブルックナーとともに、 きわめて強くワーグナーの影響を受けているといわれている。 マーラーの交響曲、第2番、第3番、第4番は 「子供の魔法の角笛」の3部作と考えられている。 3曲の中でもっとも簡潔で、明るく楽しい作品の第4番は、 全交響曲中一番規模の小さいものである。 ハイドンやモーツァルトを想わせ、構成的にも 第4楽章を除くと、クラシック交響曲に近い。 第4楽章はソプラノ独唱が加わり、子どもの声で 天国の生活を知らせるものになっている。 第4番を着手した1899年39歳のマーラーは、この年に 南オーストリアのヴェルター湖岸のマイヤーニックに山荘を建てている。 1900年の夏に完成したが、その後かなりの程度に補筆し、 翌年の11月25日にミュンヘンでマーラー自身の指揮により初演された。 「天上の愛を夢見る牧歌である」と指揮者のブルーノ・ワルターは語っている。 第1楽章 ゆっくりと、急がずにーまたゆっくりと 第2楽章 ゆったりとした動きで、慌てることなく 第3楽章 平安にみちて 第4楽章 きわめてなごやかに 「我らは天上の喜びを味わう」 《 マーラー風 》 【 交響曲 第5番 嬰ハ短調 】 彼の交響曲は規模が大きくて、声楽を伴うものが多いが、 第5番は純器楽曲で、5つの楽章でできている。 第1楽章は「葬送行進曲」で、第2楽章の序と考えることもできるので、 伝統的な4楽章の曲ともいえる。 憂愁さ、悲痛さ、諦観、解放と浄化への憧れを持った作品で、 管弦楽の色彩はマーラー風に鮮明である。 第4楽章は、映画「ヴェニスに死す」で使われている。 《 悲劇的 》 【 交響曲 第6番 イ短調 】 彼の交響曲は規模が大きくて、声楽を伴うものが多いが、 第6番は管弦楽の編成はかなり大きく、特に管楽器と 打楽器を重視していて、声楽は置かれてない。 4楽章からなるこの曲は、抒情的だが、暗く厭世的な感情が みなぎっていて、初演のときに「悲劇的」という題名をつけられた。 しかし、この曲を作曲した前年には19歳年下のアルマと結婚し、 その年に長女が、翌年には次女が生まれて、 家庭的には幸せな時期だった。 1906年5月27日にエッセンの一般ドイツ音楽組合の 音楽芸術祭で、マーラーの指揮により初演された。 第4楽章の展開部で「短く力強く、しかし金属的でなくて こもって響くように」ハンマーが叩かれる。 このハンマーについて、妻のアルマに「英雄は敵から3回攻撃を受け、 3回目に木のように倒れてしまう」と語ったといわれている。
第1楽章 Allegro energico, ma non troppo 第2楽章 Scherzo-Wuchtig 第3楽章 Andante moderato 第4楽章 Finale : Allgro moderato?Allegro energico
第1楽章 Andante comodo 第2楽章 Im Tempo eines gemachichen Landlers, etwas tappisch und sehr derb 第3楽章 Rondo,burleske assai,sehr trotzig 第4楽章 Adagio