マーラー,グスターフ  〔オーストリア〕
(1860.07.07〜1911.05.18) 51歳 心臓病

              【 交響曲 第9番 ニ長調 】
              【 交響曲「大地の歌」】
              【 歌曲集「さすらいの若者の歌」】
              【 歌曲「なき子をしのぶ歌」】
              【 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」】
              【 交響曲 第2番 ハ短調「復活」】
              【 交響曲 第3番 ニ短調 】
              【 交響曲 第4番 ト長調 】
              【 交響曲 第5番 嬰ハ短調 】
              【 交響曲 第6番 イ短調 】
              【 交響曲 第7番 ホ短調「夜曲」】
              【 交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」
              【 リュッケルトの詩による5つの歌曲 】





《 青年の感情 》

【 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」 】

マーラーはオーストリアのカリシュトで、裕福なユダヤ人商人の
12人の子どもの2番目として生まれた。(長男は早世している)
幼少からすばらしい音楽的才能を示し2歳のときには、
数百の民謡と兵士の歌などを覚えていたという。
父はその才能を伸ばすため居をイグラウ市に移した。

彼は音楽だけでなく、ウィーン大学で歴史、哲学、音楽史の
講義にも出席し、カント、ショーペンハウアー、ニーチェなどの書から
多くの影響を受けたし、また、自然化学にも大きな興味をいだいた。

マーラーは作曲家としてよりも、オペラ指揮者として評価されていた。
ウィーン音楽院を卒業してすぐに、ヨーロッパ各地の歌劇場の
指揮者として活躍し、37歳の若さで、ヨーロッパ音楽界で
最高の地位ともいえるウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の
音楽監督に就任し、このポストに10年間とどまり、
ウィーンのオペラ上演史上の黄金期を築いた。

多忙な指揮者マーラーにとって、作曲は副業だったともいえ、
彼の作曲活動は指揮者としての活動がオフ・シーズンになる
夏の休暇に、避暑地の別荘で行なわれていた。
夏休みはそこにこもって曲を書き、都会に戻ってから指揮活動の
合間をぬって曲を練り上げ、清書するというのが常だった。

交響曲第1番は「巨人」と呼ばれるが、作曲家自身が
曲の内容を標題的に示そうとしたもので、ドイツ・ロマン派の
作家ジャン・パウルの同名の「巨人」という詩に基づいている。

第1部
「若人、美徳、結実、苦悩のことなどの日々から」
第2部
「人間的な喜劇」
という題をつけて情緒の観念を明確化しようとした。

この作品は20代後半に作曲されたものだが、人生に目覚めた
20歳代の抒情味あふれた青年の一般的な感情を持っていて、
狭い世界のなかで戦い、血気の多い心で人生に
突入してゆく姿をみせている。
名楽器を歌曲風の旋律で巧妙にうたわせている。




《 愛弟子 》

【 交響曲 第2番 ハ短調「復活」】

マーラーのの交響曲は規模が大きくて、声楽を必要とするものがあるが、
この第2番で使われて以後、交響曲でしばしば声楽を用いるようになった。

また、構成的にも伝統的な4楽章制ではなくて、5つの楽章をもっている。
このように、マーラー風の巨大さへの傾向の最初の作品が
この交響曲であるといってもよい。
素朴な叙情性、線的対位法の愛好、民謡風な旋律の使用などは
マーラー的な特徴をもち、野心的で意欲的な作品である。

「復活」は、クロプシュトックの「復活」という讃歌に由来する。

マーラーは32歳のときに、大指揮者ビューローに認められて、
以後多忙で病弱なビューローを助けて、代理指揮者となったり、
補助指揮者となったりして、ビューローから指揮に関して
いろいろと実地の指導を受けた。

ところが、1894年2月12日にビューローはエジプトで死去した。
ビューローの葬儀の時の印象をマーラーは次のように書いている。

「私が味わった気分、死を考えた気分が私の
手をつけていた作品の精神にぴったりとあてはまった。
そのときに、オルガン伴奏のクロプシュトックの
「復活」の合唱が響いてきた。
電光のように私はこれにうたれた。」

30歳のときに書き始められた第2番は、ビューローの葬儀までに
すでに3つの楽章が書き上げられていたが、その年に後の
2つの楽章が書かれ、全曲がハンブルクで完成された。

初めの3楽章までの器楽だけの部分は、1895年の3月にベルリンで
リヒャルト・シュトラウスの指揮で初演されている。
R.シュトラウスは、当時のマーラーの数少ない理解者で、
前年に第1交響曲も指揮している。

全曲の初演はその年の12月に、マーラー自身の指揮により
ベルリンで行なわれた。

第5楽章のクライマックスは「生きるために死す。汝わが心よ。
汝は瞬時にして復活せん」と復活の主題が歌われ、
力強い崇高な響きの中で、ゆっくりと締めくくられている




《マーラーの自然観》

【 交響曲 第3番 ニ短調 】

交響曲と歌曲の大家のマーラーは、作曲家、指揮者として
活躍したが、交響曲を11曲残している。
                    初演
交響曲第1番ニ長調「巨人」          (1889年)
交響曲第2番ハ短調「復活」(声楽付)     (1895年)
交響曲第3番ニ短調 (声楽付)        (1802年)
交響曲第4番ト長調 (声楽付)        (1901年)
交響曲第5番ハ短調              (1904年)
交響曲第6番イ短調「悲劇的」         (1906年)
交響曲第7番ホ短調「夜の歌」         (1908年)
交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」(声楽付)(1910年)
交響曲第9番ニ長調              (1910年)
交響曲第10番短調              (1912年)
交響曲「大地の歌」イ短調(声楽付)      (1911年)

マーラーの交響曲、第2番、第3番、第4番は
「子供の魔法の角笛」の3部作と考えられている。
35歳の夏に書き始め、翌年の夏に完成した第3番は
交響的カンタータとでもいえる形態のもので、6楽章まで拡大され、
合唱も増大されていて、児童合唱も加わる約100分の交響曲である。

全曲の初演は、1902年6月12日にクレーフェルトの音楽祭で、
マーラー自身の指揮により初演された。

曲は大きくみて2つの部分からなり、第2交響曲と同じく
標題音楽的傾向をもっている。
彼はこの曲を「パン」(牧神)、あるいはニーチェにしたがって
「快楽の科学」あるいは「真夏の夜の夢」と呼ぼうとしたといわれる。

第1楽章 「パン(牧神)が目覚める。夏がすすみくる」
第2楽章 「牧場で花が私に語ること」 
第3楽章 「森の獣たちが私に語ること」
第4楽章 「人が私に語ること」    
   (夜が私に告げること)
第5楽章 「天使が私に語ること」   
     (朝の鐘が私に告げること)
第6楽章 「愛が私に語ること」    
 
それに、第7楽章として「子供が私に語ること」を考えていたが、
これは「天国の生活」として、第4交響曲の基礎となった。




 《 子どもによる天国の生活 》

【 交響曲 第4番 ト長調 】

音楽史上マーラーは、R・シュトラウスと共に後期ロマン派の
最後の大作曲家で、作風としてはブルックナーとともに、
きわめて強くワーグナーの影響を受けているといわれている。

マーラーの交響曲、第2番、第3番、第4番は
「子供の魔法の角笛」の3部作と考えられている。
3曲の中でもっとも簡潔で、明るく楽しい作品の第4番は、
全交響曲中一番規模の小さいものである。

ハイドンやモーツァルトを想わせ、構成的にも
第4楽章を除くと、クラシック交響曲に近い。
第4楽章はソプラノ独唱が加わり、子どもの声で
天国の生活を知らせるものになっている。

第4番を着手した1899年39歳のマーラーは、この年に
南オーストリアのヴェルター湖岸のマイヤーニックに山荘を建てている。

1900年の夏に完成したが、その後かなりの程度に補筆し、
翌年の11月25日にミュンヘンでマーラー自身の指揮により初演された。

「天上の愛を夢見る牧歌である」と指揮者のブルーノ・ワルターは語っている。

第1楽章 ゆっくりと、急がずにーまたゆっくりと 
第2楽章 ゆったりとした動きで、慌てることなく 
第3楽章 平安にみちて             
第4楽章 きわめてなごやかに          
     「我らは天上の喜びを味わう」      




 《 マーラー風 》

【 交響曲 第5番 嬰ハ短調 】

彼の交響曲は規模が大きくて、声楽を伴うものが多いが、
第5番は純器楽曲で、5つの楽章でできている。
第1楽章は「葬送行進曲」で、第2楽章の序と考えることもできるので、
伝統的な4楽章の曲ともいえる。

憂愁さ、悲痛さ、諦観、解放と浄化への憧れを持った作品で、
管弦楽の色彩はマーラー風に鮮明である。

第4楽章は、映画「ヴェニスに死す」で使われている。




《 悲劇的 》

【 交響曲 第6番 イ短調 】

彼の交響曲は規模が大きくて、声楽を伴うものが多いが、
第6番は管弦楽の編成はかなり大きく、特に管楽器と
打楽器を重視していて、声楽は置かれてない。

4楽章からなるこの曲は、抒情的だが、暗く厭世的な感情が
みなぎっていて、初演のときに「悲劇的」という題名をつけられた。

しかし、この曲を作曲した前年には19歳年下のアルマと結婚し、
その年に長女が、翌年には次女が生まれて、
家庭的には幸せな時期だった。

1906年5月27日にエッセンの一般ドイツ音楽組合の
音楽芸術祭で、マーラーの指揮により初演された。

第4楽章の展開部で「短く力強く、しかし金属的でなくて
こもって響くように」ハンマーが叩かれる。
このハンマーについて、妻のアルマに「英雄は敵から3回攻撃を受け、
3回目に木のように倒れてしまう」と語ったといわれている。

            第1楽章 Allegro energico, ma non troppo
            第2楽章 Scherzo-Wuchtig       
            第3楽章 Andante moderato      
            第4楽章 Finale : Allgro moderato?Allegro energico




《 ロマン的 》

【 交響曲 第7番 ホ短調「夜曲」】

マーラーの交響曲では、第5番から第7番までを1つのグループとして
考えられるが、このグループの頂点に立つものが第7番の交響曲である。

第5楽章からなり、第2と第4楽章に「夜曲」あるいは「夜の歌」と
記されたものを置いているので、この副題で呼ばれることも多い。

第2楽章の「夜曲」は、夜の行進曲ともいえるものだが、
第4楽章の「夜曲」は、ギターとマンドリンを加えて、憧憬に満ちた
愛のセレナードともいうべきもので、大きな音のする
金管楽器や打楽器は用いない。

厭世的な第6番と比較して、楽天的でロマン的であるので
「ロマン的」とも呼ばれている。

この曲の初演は1908年9月19日、マーラー自身の
指揮により、ウィーンでおこなわれた。




《 千人の交響曲 》

【 交響曲 第8番 変ホ長調 】

第5番から第7番までの交響曲は、純器楽だけの古典的な
様式だが「第8交響曲」で再びカンタータ風の交響曲に立ち戻った。

オーケストラの常識を超えた、巨大スケールの「第8交響曲」は、
「千人の交響曲」と呼ばれるが、彼自身が『これまでの
私の作品の中で、一番大きなものであって、それを
表現することはできません。
大宇宙が響き始める様子を想像してください。
それは、もはや人間の声ではなくて太陽の運行の声です』と語っている。

また、『今までの私の交響曲は、全てこの曲に対する
序曲にすぎなかった。
これまでの作品は、いずれも主観的な悲劇を扱っていたが、
この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えるものである』とも書いている。

この曲にとりかかったころのマーラーは、ウィーン国立歌劇場の
音楽監督と、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を
つとめていて、作曲家としてよりも指揮者として名声を得ていた。
しかし1906年、作曲家としての地位を確立すべく、どちらも退任していた。

次々と新しい構想が浮かび、フル・サイズのオーケストラに
様々な打楽器、ピアノ、ハーミニウム、オルガン、マンドリン、
2台のハープ、8人の独唱者と2組の混声合唱、そして
少年合唱団を用いた、前代未聞の巨大な交響曲が完成した。

その歌詞としては、第1部にマインツの大僧正
フラバヌス・マウルスの作といわれるラテン語の讃歌
「きたれ創造主たる霊よ」を用い、第2部には、「ファウスト」
第2部終幕のファウスト救済の場の台詞を置いている。

初演は、1910年9月12日、マーラー自身の指揮により
ミュンヘンで行なわれた。




《 死に絶えるように 》

【 交響曲 第9番 ニ長調 】

1908年に狭心症の発作におそわれたマーラーは、
生来の憂鬱症をいっそう高じさせ、死を恐れ、絶望感に
さいなまれ続けた晩年だったが、その年に9番目の交饗曲
「大地の歌」を作曲し、翌年には交饗曲第9番を完成させた。
しかし、第10番は未完成のままだった、

「大地の歌」は、ブルックナーとベートーベンが、
ともに交響曲第9番を書いた後に世を去っているので、
宿命的な数を避け、番号をつけなかったのだが、
その後作曲した作品を第9番とした。
しかし、マーラーの場合もその交響曲が最後の
作品となってしまった。

マーラーが42歳のときに結婚した、マーラーの夫人
アルマは次のように書いている。
「ベートーヴェンもブルックナーも「第10番」を作れなかったことから、
「第9番」の番号を恐れたマーラーは、それを避けようとした。
最初彼は「大地の歌」を「第9番」として書いたのだが、
後でその番号を消してしまった。
その後、「第9番」と呼ばれる交響曲に取りかかっているとき、私にこう言った。
これは本当は「第10番」なのだ。
「大地の歌」が実際には「第9番」だからな」
そして最後に「第10番」を書いているときにこう言った。
「やれやれ危機は去ったぞ」と・・・

しかし、彼は「第9番」の初演を聴くこともなく、
「第10番」を完成させることも出来ず、世を去った。

「第9番」の初演は、マーラーの死の翌年の6月12日(一説では23日)
ウィーンで、弟子のブルーノ・ワルターの指揮で行なわれた。

マーラーの交響曲第9番は、声楽のない純器楽用のもので、
4つの楽章からなるが、伝統を離れて最初と最後の楽章を
緩やかなものとしている。

この作品を書いたころは、体力的にも疲労し、死をしばしば考えていた。
第4楽章の最後を「死ぬように・・・」と終わらせている。

全ての交響曲の中で、最も美しく深みをたたえた曲である。

             第1楽章 Andante comodo          
             第2楽章 Im Tempo eines gemachichen Landlers,
                  etwas tappisch und sehr derb            
             第3楽章 Rondo,burleske assai,sehr trotzig  
             第4楽章 Adagio               

ワルター,ブルーノ 〔独→米〕
(1876.09.15?1962.02.18) 85歳

マーラーの愛弟子で、マーラー演奏の第一人者でもある名指揮者の
ワルターは、1876年9月15日にユダヤ人の子としてベルリンで生まれた。

ベルリンの音楽院で学んだ後、各有名な歌劇場の指揮者として
活躍したが、ナチスの台頭後はフランスを経てアメリカに亡命した。

戦争終結後、大陸に戻ることはせず、日本には一度も来日することなく、
カリフォルニアのビバリー・ヒルズで85年の生涯を閉じた。

温厚で優雅なワルターの演奏は、自然の息吹を感じさせながら、
人生の哀しみやはかなさも失わない、奥の深いものだった。




《 ペシミスト 》

【 交響曲「大地の歌」】

1908年に狭心症の発作におそわれたマーラーは、生来の憂鬱症を
いっそう高じさせ、死を恐れ、絶望感にさいなまれ続けた晩年だった。
そんなときに友人から見せられた漢詩「シナの笛」の独訳が、
「大地の歌」を書く直接の動機となった。

この詩集から7つの詩を選び、それをある程度自由に取り扱って
楽想をわきたたせて、独唱者2名とオーケストラからなる
6楽章の交響曲を作り上げた。

第1楽章 「地上の悲愁を詠える酒席のうた」 
第2楽章 「秋に独りいて寂しきもの」    
第3楽章 「青春にふれて」         
第4楽章 「美しさについて」        
第5楽章 「春にありて酔えるもの」     
第6楽章 「告別」             

この作品は、もともと第9番の交響曲になるべきものなのだが、
ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナーといった作曲家たちが、
第9番を作曲して死んだことにこだわって、番号をつけずに「大地の歌」とした。

マーラーが42歳のときに結婚した、マーラーの夫人アルマは
下記のように書いている。
「ベートーヴェンもブルックナーも「第10番」を作れなかったことから、
「第9番」の番号を恐れたマーラーは、それを避けようとした。
最初彼は「大地の歌」を「第9番」として書いたのだが、
後でその番号を消してしまった。

その後、「第9番」と呼ばれる交響曲に取りかかっているとき、私にこう言った。
これは本当は「第10番」なのだ。
「大地の歌」が実際には「第9番」だからな」
そして最後に「第10番」を書いているときにこう言った。
「やれやれ危機は去ったぞ」と・・・

しかし、彼は「(大地の歌)」の初演を聴くこともなく、
「第10番」を完成させることも出来ず、51歳の誕生日を前にした
5月18日ウィーンで世を去った。

遺志により、葬儀の時は追悼文も読まれず、音楽も奏されなかった。
マーラーは2人の娘をもうけたが、次女は生まれて間もなく死亡し、
長女は5歳の夏に亡くなっていた。
遺骸はウィーン郊外の愛娘の墓の隣に埋葬された。

指揮者として、最後の指揮をしたのは、1910年2月に
ニューヨークでの演奏会だった。




《 ドイツ歌曲 》

【 歌曲集「さすらいの若者の歌」】

マーラーの作品は、9つの交響曲および「大地の歌」に代表されるが、
数からいっても、音楽性の傾向からいっても、歌曲作品は
交響曲に劣らぬ重要な意味をもっている。

彼の作品は歌曲において、伴奏はほとんど全てが大規模で、
精巧化され、歌唱では出し得ない色彩を強めるように書かれている。
伴奏管弦楽部がそれ自身独立し、充実した楽想をもち室内楽的でもある。

「さすらいの若者の歌」は1883年の歌曲集で、その後
「こどものふしぎな角笛」「なき子をしのぶ歌」などを書いたが、
これらはマーラーの傑作というばかりでなく、ドイツ歌曲史に
その特異な存在を誇りにたる、香り高い優れた芸術作品である。

ピアノの代わりに大編成の管弦楽を伴奏に用い、
交響曲的な分厚い楽想と幅広い音楽となっていて、
伴奏というものの地位を高めたと言われている。

自作の詩によって作曲された4編からなる「さすらいの若者の歌」は
青年期の作品にふさわしい甘美な若々しい表現を示している。

第1曲 「彼女の婚礼の日は」
第2曲 「朝の野辺を歩けば」
第3曲 「怒りの剣で」   
第4曲 「彼女の青い目が」 




《 管弦楽の伴奏 》

【歌曲集「なき子をしのぶ歌」】

「なき子をしのぶ歌」は、フリートリヒ・リュッケルトの詩による
マーラーの代表的な歌曲作品で、5つの歌曲からなり、
ドイツ歌曲史においても最も高い地位をしめる偉大な作品の1つである。
この曲もピアノの代わりに大編成の管弦楽を伴奏に用いている。

第1曲「いま太陽は輝き昇る」
第2曲「なぜそのように暗いまなざしで」
第3曲「おまえのお母さんがはいってくるとき」
第4曲「こどもたちはちょっと出かけているだけだ」
第5曲「こんなあらしに」

42歳で結婚したマーラーは2人の娘をもうけた。
次女は生まれて間もなく、長女は5歳の夏に亡くなり、
生涯ぬぐい去りえない深い悲しみを味わい、マーラー自身も
心臓の異常を感じ始める。
この曲が完成したのは結婚の年で、2人はまだ生まれてなかった。




《 室内楽的伴奏 》

【 リュッケルトの詩による5つの歌曲 】
  
ドイツロマン派の詩人フリートリヒ・リュッケルトの詩を好んでいた
マーラーは、「なき子をしのぶ歌」を作曲した後に
「リュッケルトの詩による5つの歌曲」を書いた。

伴奏は室内楽的編成をとり、楽曲の規模もせばめて、
全体的に円熟した作風と繊細な深い表現とを伝えている。
一つ一つの歌曲の間には、内容的な連関はなにもない。

「こどもの魔法の角笛」による「死せる鼓手」「少年鼓手」と共に
「最後の7つの歌曲」として一括されている。

第1曲 私の歌をみないで    
第2曲 ほのかなリンデのかおりを
第3曲 私はこの世に忘れられ  
第4曲 真夜中に        
第5曲 美しさゆえに愛す    

第3曲は、数多いマーラーの歌曲の中でもとくに傑作として知られている。



私はこの世に忘れられた
私はながいこと世にそむいてきたが
もう誰も私のことをいわなくなって久しい
死んだと思っているのだろう
かまわないし、文句もいえない
私はこの世ではもう事実死んでいるのだから
私は世の騒音から逃れ
静かな場所にやすらおう
ただ私の天国と私の愛情と私の歌の中に生きよう