リムスキー・コルサコフ,ニコライ・アンドレイ・ヴィチ  〔露〕
(1844.03.18 〜 1908.06.21)  62歳 心臓病

             【 交響曲 第1番 作品1 】 
             【 ピアノ協奏曲 嬰ハ短調 作品30 】
             【 交響的幻想曲「イタリアから」 作品16 】
             【 スペイン綺想曲 作品34 】
             【 交響組曲「シェエラザード」作品35 】
             【 序曲「ロシアの復活祭」作品36 】
             【 組曲「金鶏」】
             【 歌劇「雪娘」】
             【 歌劇「皇帝サルタンの物語 】
             【 東方のロマンス 】






《 管弦楽法の大家 》

【 交響曲 第1番 作品1 】

ロシア国民楽派「5人組」の最年少者のリムスキー=コルサコフは
貴族系の父の領地で生まれた。

幼児から音楽の才を示し、6歳からピアノの稽古を始め、
9歳で作曲をしている。
両親は彼の楽才は認めていたが、特別の教育をする考えはなかった。

父は官吏だったが、一族には海軍の軍人が多かった関係から、
12歳で海軍兵学校に入学し、士官候補生として、
6年間ここで過ごした折、本格的な芸術音楽に接した。

遠洋航海の生活を3年間経験しているが、彼の作品に
東洋的な情緒感が漂うのはそのときに東洋の国々の港に
寄港したときの体験によるものだ。

後に、海軍軍楽隊の指揮者をした経験から、管弦楽の使用について
様々な知識をもったことは、オーケストレーションの
完成のうえに非常に役立った。
彼の管弦楽は、色彩的であると同時に清明な輪郭をもっており、
彼が本領とした標題音楽において、極めて効果的なものとなった。

ロシア初の交響曲と呼ばれている「交響曲 第1番」は、
1861年から1865年にかけて、バラキレフの指導のもとに作曲された。

1884年になってこの曲は改訂され、大幅な書き換えや追加が行なわれた。

調性も変ホ短調からホ短調に移調し、演奏しやすくした。

                第1楽章 Largo assai-Allegro 
                第2楽章 Andante tranquillo 
                第3楽章 Scherzo:Vivace-Trio
                第4楽章 Allegro assai    




《 管弦楽法の大家 》

【 ピアノ協奏曲 嬰ハ短調 作品30 】

ロシア国民音楽の樹立と推進に力をそそいだ、いわゆる
「5人組」の中の1人のR.コルサコフは、12歳のときに
海軍兵学校に入学して以来、29歳まで海軍に籍をおいた。

その間作曲活動は続けていたが、27歳のときに、
ペテルブルク音楽院の教授として招請を受けた。
しかし、音楽の基礎的知識はほとんどもってなかった彼は
おおいに迷ったが、それを引き受け、それ以後、音楽の
一般的理論を身につけるために苦労した。
2年後に、海軍の軍籍は辞した。

その後、音楽院の教授を勤めながら、海軍軍楽隊の
指揮者として、宮廷礼拝堂の副指揮者として活躍した。
音楽院教授としての34年間の在職中に数えきれないほど
多数の弟子を養成したが、ペテルブルクで62歳の生涯を閉じた。

1882年から翌年にかけて作られた「ピアノ協奏曲 嬰ハ短調」は、
「ロシア5人組」の統率者だったバラキレフのロシア民謡集の中の
旋律が用いられている。




 《標題交響曲》

【 交響的幻想曲「イタリアから」ト長調 作品16 】

交響詩や標題交響曲の第1作で、管弦楽曲の最初の
代表作となったのが交響的幻想曲「イタリアから」で、
22歳のときにブラームスの勧めもあってイタリアを旅行し、
印象をまとめて作られたものである。

冬が大嫌いで、作品に対する霊感は暖かい光の中で得られると
主張していたシュトラウスにとって、イタリアの輝かしい太陽の光は、
絶好の条件下だった。

曲は4つの楽章でできていて、最終楽章では当時ナポリで
大流行していた「フニクリ・フニクラ」が出てくるが、
この曲は作曲の前年にヴェスヴィアス火山に登山電車が
できたときの歌で、ナポリ民謡として知られている。

第1楽章 カンパーニャにて 
第2楽章 ローマの廃虚にて 
第3楽章 ソレントの海岸にて
第4楽章 ナポリ人の生活  




《 スペイン風 》

【 スペイン綺想曲 作品34 】

リムスキー・コルサコフは、生来の異国情緒好みと
海軍士官として各地に航海したことで、スペイン風な色彩をもつ
音楽に強く心を惹かれ、スペイン綺想曲の計画が生まれた。

彼は初めスペイン風の主題に基づく技巧的な
ヴァイオリンの幻想曲を意図し、スケッチも作りあげたが、
1887年の夏に、このスケッチを基礎にしてこの曲を
管弦楽に書き上げたのだった。

このため、スケッチでの技巧的なヴァイオリンの色彩は、
輝かしい管弦楽の色彩に変化したのである。

チャイコフスキーはこの曲を「作曲家自身が現代一流の
音楽家であると自認してもよいほどのすばらしい
管弦楽法をみせている」と賞賛した。

曲は、5つの楽章で出来ているが、全楽章を続けて演奏するように
指示されているうえに、各楽章の主題が互いに密接に
関係しているので、単一楽章のような印象を与える。

完成の年の10月31日にペテルブルグで作曲者自身の指揮で
初演され、この曲は演奏をした楽員一同に捧げられ、
出版された楽譜には、楽員67名の名前が記された。

第1楽章 アルポラーダ         
第2楽章 変奏曲            
第3楽章 アルポラーダ         
第4楽章 シェーナとジプシーの歌    
第5楽章 ファンダンゴ・アストゥリアーノ




《千一夜物語》

【 交響組曲「シェエラザード」作品35 】

若いころ軍人になることを志していたリムスキー=コルサコフは、
海軍兵学校で士官候補生として、遠洋航海の生活を3年間経験している。

彼の作品に、東洋的な情緒感がただようのは、そのときに
東洋の国々の港に寄港したときの体験によるものだ。

代表的な傑作の一つである「シェエラザード」は、
44歳の円熟期に作曲している。
標題としての「千一夜物語」(アラビアン・ナイト)を取り扱っていて、
作曲者自身が次のように書き記している。

「シャーリアール皇帝は、女性たちが信じられず、いかなる
女性たちも初夜をすごしたのちに、殺してしまおうと考えていた。
しかし、王妃シェラザードは、王に興味ある物語を話し、
千一夜の間生命をながらえた。
その話のおもしろさにひきずられて、彼女を殺すのを一日一日と
のばし、ついに皇帝は残酷な考えを完全に捨ててしまった。
王妃シェラザードがシャーリアール皇帝に語った物語は、
不思議な魅力があった。
その物語のために、王妃は詩人たちから詩を、民謡から
歌詞を借り、そういうものを織りまぜて語った。」

第1楽章・・・海とシンドダットの船         
第2楽章・・・カランダール王子の物語        
第3楽章・・・若き王子と王女            
第4楽章・・・バグダットの祭〜海〜青銅の騎士のある 
岩での難破〜終曲。   




《 ロシア正教会の聖歌集 》

【 序曲「ロシアの復活祭」作品36 】

序曲「ロシアの復活祭」は「スペイン綺想曲」
「シェエラザード」と並ぶ管弦楽曲の傑作で、
3曲とも彼の管弦楽法が円熟した時期の作品である。

原題は、日曜日序曲「輝く祝日」で、曲はロシア正教会の
聖歌集「オビホッド」の中のいくつかの旋律をもとにしている。

彼は、自叙伝の中で「受難土曜日の夕方の陰鬱で神秘的な気分から、
復活祭日曜日の朝の思いきり楽しい集いの気分への移り変わり」
であると述べている。




《 諷刺劇 》

【 組曲「金鶏」】

リムスキー=コルサコフの最後の作品の歌劇「金鶏」は、
プーシキンの夢幻的な物語により、3幕物として作られ、
大成された彼の和声・管弦楽法の効果のうえに、
ある種の近代的手法が加味されて、プーシキンの原作のもつ
風刺的な性格と巧みに一致した音楽となっている。

ドードン王の宮廷で敵の侵入に対して、年老いた星占いが献上した、
危険が迫ったときに鳴いて知らせるという「金鶏」を頼りにし、救われる。

戦場の夜、美しいシュマハの女王に誘惑され、
すっかり魅せられた王は、彼女を後妻にした。
しかし、褒美に望みのものを与えると約束していた星占いから、
シュマハの女王をもらいたいと言われ、怒り狂った王は
星占いを杖で打ち殺してしまった。
すると、金鶏がくちばしで王の頭を突いて、王も殺されるという
物語で、歌劇では幕が下りた後、幕の前に星占いが現われて、
「ただ今のはほんの冗談にすぎません」と言って退場する。

作品は、亡くなる前の年の1907年に完成したが、物語の筋が
当時日露戦争に敗北し、腐敗堕落をさらけだしていた
帝政ロシアを諷刺したものであるとして当局から上演を禁じられ、
作曲者の生前には陽の目をみることはなく、翌年になって初演された。
組曲「金鶏」は、歌劇「金鶏」から編曲されたものである。




《 ロシアの自然 》

【 歌劇「雪娘」】

歌劇「雪娘」は、リムスキー=コルサコフが36歳の年から
翌年にかけて作曲された。
台本はアレクサンドル・オストロフスキーの「春の物語」を
もとにして彼自身が書いた。

古いロシアの太陽神崇拝時代の邪教的風俗と、ロシアの
自然に対する彼の愛着とが、この歌劇の作曲の動機となった。

恋をすれば死んでしまう運命の雪娘が、羊飼いの彼の恋を得て、
夏の太陽の神ヤリーラの光を受け消え去ってしまうという、
寒い北の国ペレンディの冬の王の娘の雪娘の物語である。
プロローグと4幕で構成されている。

全曲を通じて、R=コルサコフが採譜したロシア民謡から
意識的に借用された民謡調が顕著で、楽器編成もそれまでの
彼の歌劇にはみられない、大規模なものとなっていて、
色彩的効果に富んでいる。

第3幕の中頃、森の中で人々が夏の到来を祝って踊る場面の
「道化師の踊り」(軽業師の踊り)は、ロシア舞曲のリズムをもった
音楽で、単独で演奏されることが多い。

この歌劇の初演は、1882年2月10日に
ペテルブルクのマリンスキー劇場で行なわれた。




《熊蜂と熊ん蜂》

【 歌劇「皇帝サルタンの物語 】

「皇帝サルタンの物語」は、プーシキンの原作による4幕の歌劇で、
1899年から1900年にかけて作曲された幻想的なおとぎ話である。

サルタンは、ある豪商の3人姉妹の末娘をお妃にしたが、
2人の姉はこれを妬み、サルタンが戦いに出た留守中の妹のことを
中傷したため、サルタンはお妃と生まれたばかりの王子を
樽に入れて海に捨てさせた。

しかし、お妃と王子は魔の島に漂着し、王子は健やかに育った。
ある日、熊ん蜂の襲撃から白鳥を救い、その代償として
金とエメラルドの木の実を運んでくる栗鼠と、33人の
護衛の武士と、白鳥から美しい姫になったお妃の3つの奇跡を
あたえられるという物語りである。

「熊ん蜂の飛行」は、第2幕、第1場で、海を越えて飛来した
熊ん蜂の群れが、白鳥の周りを飛び回る場面で奏される曲で、
終始熊ん蜂のブンブンという羽音を模倣した楽想で貫かれる
無窮動的な曲である。

熊蜂= ミツバチ科の昆虫。性質は温和。
熊ん蜂=スズメバチの俗称。性質は攻撃的で針に猛毒がある。




《 うぐいすとばら 》

【 東方のロマンス 】

リムスキー・コルサコフは、「東方のロマンス」を1866年の
春に作曲している。
このころ、彼は海軍に籍をおいていた。

遠洋航海の生活を3年間経験しているが、彼の作品に東洋的な
情緒感が漂うのは、そのときに東洋の国々の港に寄港したときの
体験によるものである。

A・コルツォフの詩による「東方のロマンス」は、
「うぐいすとばら」などと訳されているものもある。
全部で50曲くらいしかないリムスキー・コルサコフの歌曲の中では、
最も親しまれているものである。

彼の音楽の主要な特色をなすイスラム系音楽でアラビア風音階を
中心に、しみじみとうたわれる愛の歌で、ピアノの前奏に現れる、
うぐいすの鳴き声を模倣した東洋的主題が、歌の最後で
ハミングで使われるのは効果的である。



バラを愛して、鶯は昼も夜もうたうが、
バラは黙っている。
同じように恋い慕う人に夢中になった男は、
胸の内をうたうが、可憐な娘は、
夜にたかめられる悩みと悲しみが、
いかにうたわれているか知りもしない。

(歌詞大意)