ラフマニノフ,セルゲイ・ヴァシリエヴィチ 〔ロシア〕
(1873.04.01〜 1943.03.28) 70歳

              【 交響曲 第2番 ホ短調 作品27 】
              【 交響曲 第3番 イ短調 作品44】
              【 ピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品1 】
              【 ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18 】
              【 ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30 】
              【 ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 作品40 】
              【 パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 】
              【 交響詩「死の鳥」作品29 】
              【 交響的舞曲 作品45 】
              【 チェロ・ソナタ ト短調 作品19 】
              【 悲しみの三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」作品9 】





《 亡命 》


【 交響曲 第2番 ホ短調 作品27 】

 ラフマニノフの家は、由緒あるロシア貴族で、近衛の隊長だった父と
教養高い母との間に、ノヴゴロト州のオネグで生まれた。
4歳のときから母についてピアノを学び始めた。

農奴解放以後の社会的変動の中で、父は次第に領地を失い、
ラフマニノフが9歳のときに両親は別居し、母と共に
ペテルブルクに移り、その地の音楽院でピアノを学んだ。

ラフマニノフは3曲の交響曲を作曲しているが、
22歳のときに作られた第1番は初演で痛烈な酷評をあび、
楽譜は出版されないままにうずもれてしまった。

このときの精神的打撃は、後に彼を悩ませた強度の
神経衰弱の一因ともなり、性格的に人と打ち解けられない
彼一流の殻を作り上げたといわれる。

63歳の作品の第3番イ短調よりも、34歳の作品第2番のほうが
演奏される機会が多い。
しかし、いくぶん冗長のきらいがあるので、曲中カットしてよい
個所が裁定してあり、指揮者の判断に任されている。

         第1楽章 静かに、幾分陰鬱な気分で始まる。  
         第2楽章 野性味をもったスケルツォ風。    
         第3楽章 スラブ風のはかない美しさでうたわれ、
              流れるような旋律で始まる。     
         第4楽章 エネルギッシュな第1主題ではなやかに曲を閉じる




《 祖国への思い 》

【 交響曲 第3番 イ短調 作品44 】

ラフマニノフが作曲した交響曲と名のつく曲は3曲あるが、
3曲とも短調である。

             交響曲第1番 ニ短調 作品13 (1895年)  
             交響曲第2番 ホ短調 作品27 (1906-08年)
             交響曲第3番 イ短調 作品44 (1936年)  

最後の番号つき交響曲は第3番だが、1940年に最後の
作品となった「交響的舞曲作品45」を書いている。

「交響曲第3番」スイスのルツェルン湖のほとりの別荘「ナセル」で、
1935年6月に着手し、1年後の6月6日に完成した。

祖国を失った作曲家の甘美な憂鬱、切ないまでに甘く、
暗く心をえぐる美しさがあふれている。

完成の年の11月6日にストコフスキーの指揮、
フィラデルフィア管弦楽団の演奏で初演された。

ラフマニノフの指揮、フィラデルフィア管弦楽団の共演での
録音も残している。

第3楽章では、お気に入りのグレオリオ聖歌の
「怒りの日」のモチィーフが現れる。

             第1楽章 Lento-Allegro moderato      
             第2楽章 Adagio ma non troppo-Allegro vivace
             第3楽章 Allegro              




《 ピアノの巨匠 》

【 ピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品1 】

4曲のピアノ協奏曲においては、華やかなピアニスティックな効果の上に、
旋律の豊かさと、思索的な深みが加えられ、それらをつらぬく濃厚な
ロシア国民的色彩によって、独自な音楽性が築かれている。

            ピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品1(1891年)
            ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18 (1901年)
            ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30 (1909年)
            ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 作品40 (1926年)

ピアノ協奏曲第1番は、モスクワ音楽院の学生の時代に書かれたが、
8年後のロシアの十月革命のさなかに改作が行なわれた。
やがてソヴィエト政権が確立した同年の暮に、ラフマニノフは
家族とともにフィンランドに亡命した。
その後、アメリカを定住の地とし、再びロシアには帰らなかったので、
この曲は彼が母国で作曲した最後の作品ということになった。

1900年12月2日にラフマニノフ自身のピアノと、
この曲を献呈した師のジロティの指揮で初演された。

                第1楽章 vivace    
                第2楽章 Andante   
                第3楽章 Allegro vivace




《 屈指の名作 》

【 ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調作品18 】

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのピアノのヴィルトゥオーゾの
1人に数えられるラフマニニフは、作曲家としてもロシア音楽史上に
名をとどめるほどの業績を残した。

ピアノ曲はもちろん、管弦楽曲、室内楽曲、声楽曲の分野にも
数々の優れた作品を書いている。
しかしなんといっても、ラフマニノフの傑作はピアノ曲で、
24の前奏曲とピアノ協奏曲が最も知られた作品である。

ロシアの作曲家のピアノ協奏曲としては、チャイコフスキーの
協奏曲第1番についでよく演奏されるのが、ラフマニノフの
協奏曲第2番で、 4曲書いたピアノ協奏曲の中でも
最高傑作として広く親しまれている。

構造的な完璧さに加えて、持ち前の抒情性とピアニスティックな
効果を十分に発展させ、それらを見事に統一している。

完成の2年前から作曲に取りかかったが、まもなくして強度の
神経衰弱に襲われ、作曲はおろか全ての活動から遠ざかり、
いろいろな治療を行なった。しかし効果はなかった。

たまたま友人の勧めで、N・ダール博士の暗示療法を受け、
病気は快方に向かい、全快してから再び作曲を続けて完成させた。

1901年11月9日にラフマニノフのピアノと、
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団により初演され、
この作品は、N・ダール博士に捧げられた。

ラフマニノフの最高傑作としてひろく親しまれている屈指の名作だが、
ロマンティックな情緒あふれるメロディーは、1945年に製作された、
デビット・リーン監督の映画「逢びき」で、ふんだんに使われている。

               第1楽章 Moderato     
               第2楽章 Adagio sostenuto 
               第3楽章 Allegro scherzando




《 難曲のひとつ 》

【 ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30 】

ピアノ協奏曲の中では難曲といわれる「第3番」は、 ドレスデン
滞在中の1907年に書き始められ、翌年ロシアに帰り、
その翌年はアメリカに演奏旅行をし、その間に書き上げ、
完成させたのは1909年になった。

初演は、作曲の年の11月28日にラフマニノフのピアノ、
ダムロッシュの指揮、ニューヨーク交響楽団によって行なわれた。
作品は、ピアニストのヨーゼフ・ホフマンに献呈されたが、
彼は一度も演奏しなかった。

               第1楽章 Allegro ma non tanto
               第2楽章 Intermezzo:Adagio 
               第3楽章 Finale:Alla brevo  




《 超絶技巧のピアニスト 》

【 ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 作品40 】

1917年の末に、ソヴィエト政権を嫌ってパリに亡命し、
翌年アメリカに移り永住の地と定めた。
毎年、春にはアメリカでの演奏会、夏にはスイスで静養し、
秋にヨーロッパを演奏旅行する、といった生活を繰り返した。

ラフマニノフは1917年から世を去る25年間に6曲しか作品を
書かなかったが、その中の1曲に「ピアノ協奏曲 第4番」も含まれる。

              第1楽章 Allegro vivace (Alla breve)
              第2楽章 Largo           
              第3楽章 Allegro vivace       

初演は、作曲の翌年の3月18日にラフマニノフのピアノ、
ストコフスキーの指揮、フィラデルフィア管弦楽団によって行なわれた。




《 壮麗豪華 》

【 パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 】

 ラフマニノフの作品で、最も重要なのはピアノ曲で、
傑作と認められているものは、ほとんどこの分野である。

作曲家であると同時に、稀にみるヴィルトゥオーゾとして、
壮麗豪華な演奏で巨匠とうたわれたピアニストであった
ラフマニノフにとっては、これは当然のことであった。

独奏楽器と管弦楽のための作品は計5曲あるが、
それはいずれもピアノを独奏楽器としていて、
4曲のピアノ協奏曲と、この狂詩曲がそれに含まれる。

この狂詩曲は、スイスのルツェルン湖畔の別荘に
閉じこもって書かれた。
61歳の彼の創作力はやや峠を越したころだったが、
演奏家としての活動で忙しくしていた。

主題として取り上げられたのは、パガニーニの
「無伴奏カプリース」作品1の第24曲イ短調だが、
それを24回変奏し、短い序奏とコーダがついている。

ピアノの華麗な名人芸と、巧妙な管弦楽法を駆使した
凝った作品である。
この主題に用いられたパガニーニの曲は、他にもリストや、
ブラームスによっても扱われている。





《 変拍子 》

【 交響詩「死の鳥」作品29 】

ラフマニノフは、1905年にドイツの画家の
アーノルド・ベックリンの名画「火の鳥」をパリで観たが、
この名画から霊感を得てこの年の秋に 交響詩の作曲にとりかかった。

8分の5拍子の変拍子を用いて、死の波の気味悪い静寂な
動きを暗示的に表現しようと試みた。

1909年ラフマニノフは、36歳の誕生日を迎えた。
その丁度一カ月後にあたる5月1日にモスクワで、
自らの指揮により初演された。

バイオリンの苦悩にみちた半音階下降を背景にして、
チェロがグレオリオ聖歌「ディエス・イレ」(怒りの日)を
暗示する部分は、感動的である。




《 白鳥の歌 》

【 交響的舞曲 作品45 】

1917年のロシア革命は、彼の生活を根本から覆した。
由緒あるロシア貴族出身のラフマニノフは、ソヴィエト政権を嫌い、
パリに亡命し翌年アメリカに移って永住の地と定め、
毎年夏にはスイスで静養し、秋にはヨーロッパ
演奏旅行をする生活だった。

1940年ころ、祖国ロシアに復帰する意志があったが、
第二次世界大戦のためそれが実現できずに、
70歳の誕生日を数日後にして、癌のためカリフォルニアの
ビヴァリー・ヒルズで、70年の生涯を閉じた。

プロコフィエフの最後の作品となった「交響的舞曲」は、
1940年にニューヨークのロングアイランドで作曲された。
最初は2台のピアノのための版を書き、その後
オーケストレーションされ、オーマンディの指揮で
フィラデルフィア管弦楽団により、翌年の1月3日に
初演され好評だった。

各楽章に「真昼」、「黄昏」、「夜中」と標題を付すことを
考えていたが、それは破棄された。

             第1楽章 Non allegro           
             第2楽章 Andante con moto-Tempo di valse
             第3楽章 Lento assai-Allegro vivace-   
                  Lento assai come prima            




《 唯一のチェロ・ソナタ 》

【 チェロ・ソナタ ト短調 作品19 】

ラフマニノフは、作曲家であると同時に、稀にみる
ヴィルトゥオーゾとして、壮麗豪華な演奏で
巨匠とうたわれたピアニストだった。
彼の最も重要な作品はピアノ曲だが、室内楽の分野では
「ピアノ三重奏曲」2曲と、「チェロ・ソナタ」1曲を残している。

1901年に作曲された 「チェロ・ソナタ」は、その年の11月24日に、
ラフマニノフのピアノとブランドゥコーフのチェロにより、
モスクワで初演され、ブランドゥコーフに献呈された。

1892年に作曲した「悲しみの三重奏曲 第1番」の
初演者もブランドゥコーフだった。

メランコリックで、華麗なピアニズムもかもし出し、彼のもつ
豊かな旋律性と哀愁をおびた抒情性は、チャイコフスキーを思わせる。

荒々しい第2楽章とロマンティックな雰囲気の第3楽章は、
旋律的な部分と好対照をなしている。

               第1楽章 Lento-Allegro moderato
               第2楽章 Allegro scherzando  
               第3楽章 Andante       
               第4楽章 Allegro mosso     




《 偉大な芸術家の思い出 》

【 悲しみの三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」作品9 】

1893年にチャイコフスキーが世を去ったときは、この偉大な
音楽家を悼んで、ピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲した。

ラフマニノフと同時代のロシアには、急進的手法を追求した
スクリャービンや、アカデミズムな傾向の強いグラズノフがいたが、
彼はあくまでも保守的な一線を固守し、チャイコフスキーの伝統への
復帰こそ、ロシアの音楽の正しい道であると考えていた。

彼は、叙情性とセンチメンタリズムを特徴とする、チャイコフスキーの
伝統を受け継ぐモスクワ学派の1人にあげられる。

ラフマニノフは「悲しみの三重奏曲」を2つ書いている。
1892年の作品の単一楽章のト短調は第1番。
翌年の1893年のニ短調は第2番と呼ばれている。

第1番は1892年1月30日に ラフマニノフのピアノにより初演されたが、
出版されたのは、1947年になってからだった。

チャイコフスキーがモスクワ音楽院の院長ニコライ・ルビンシティンの
死に際して1881年3月に 作曲した「ピアノ三重奏曲」
《偉大な芸術家の想い出のために》の第1楽章を手本にして書いている。

そして、第2番は1893年11月6日に敬愛するチャイコフスキーの
突然の死を悼んで書かれた。
12月には完成し、翌年の1月末日にラフマニノフの
ピアノにより初演された。

20歳のラフマニノフのみずみずしい感性が
生かされている作品である。
ピアニストとしてのラフマニノフは、巨体からくる精力的な演奏と
超人的な技巧とによって、絶大な人気を得ていた。

葬送の鐘を模倣したピアノの荘厳な和音から始まる。
悲しげな旋律が重ねられていく。
主題と6つの変奏曲は、自作の幻想曲からとられている。

               第1楽章 Moderato-Allegro vivace 
               第2楽章 Quasi variazione     
               第3楽章 Allegro risoluto