ラヴェル,モリス・ジョセフ  〔仏〕
(1875.03.07 〜 1937.12.28)  62歳

              【 ピアノ協奏曲 ト長調 】
              【 左手のためのピアノ協奏曲 】
              【 スペイン狂詩曲 】
              【 組曲[逝ける王女のためのパヴァーヌ]】
              【 バレエ音楽「ボレロ」】
              【 バレエ音楽「ダフニスとクローエ」】
              【 バレエ音楽「ラ・ヴァルス」】
              【 弦楽四重奏曲 ヘ長調 】
              【 ピアノ三重奏曲 イ短調 】
              【 高貴にして感傷的なワルツ 】
              【 シェーラザード 】





《 管弦楽法の妙味 》

【 ピアノ協奏曲ト長調 】

「管弦楽の魔術師」「オーケストレーションの天才」と言われたラベルは、
鉄道技師の父と、バスク人の母との長男として、スペイン国境に近い
ピレネー山麓のシブールで生まれたが、3ヶ月後にはパリに移り定住した。

3年後に弟が生まれ、若いころから音楽を愛好していた父は
2人の息子を音楽家に育てたいと望んだ。
しかし、音楽の道に進んだのは兄のラヴェルだけだった。

33歳のときに父が病死したとき、しばらくは仕事も
手につかなかったが、42歳で母を失ったときの打撃は、もっと
大きかったようで、友人たちは慰めるすべもなかったといわれる。

その友人たちから「おまえの妻には母上より他にはいまい」と
言われていたし、彼にとって人生の伴侶といえる存在だった。

その後、立ち直ったラベルは作曲家として数々の作品を作曲
したが、1932年10月、自動車事故に遭い頭部を負傷した。
はじめはたいしたことはないと考えていたが、この事故が
もとで脳の疾患をおこし、心身の活動が次第のむしばまれていった。

知人や弟が、スペイン、モロッコに転地療養に連れ歩いたが、
病状は悪化する一方で、その後は自分のサインも
困難なほどになり、廃人同様に近い不幸な生活を送った。

1937年12月28日に、最後の脳の手術の効もなく
62歳でこの世を去った。

スペインの民族音楽の色彩的官能美にひかれたことも
ラヴェルの創作の土台となっていて、彼の作品は
色彩豊かな表現の世界を作り上げている。

フランス二十世紀の大作曲家のラヴェルは、作曲家生活の終わり近く、
2つのピアノ協奏曲をほぼ同時に書き上げた。

当時アメリカに演奏旅行をし、その成功に気をよくして
「ピアノ協奏曲ト長調」の楽想をねり始めたそのころ、
ピアニストのウィットゲンシュタインが第一次対戦中に右腕を失い、
残った左手のための協奏曲の作曲依頼があり、
「左手にためのピアノ協奏曲」を作曲している。

「ピアノ協奏曲ト長調」について、彼は「モーツァルトとサン=サーンスの
精神で書かれた、厳密な意味の協奏曲」であると言っているが、
ジャズも取り入れている。

明朗で華麗さに満ちた第1楽章。
モーツァルトの五重奏を思わせる優しく詩的な第2楽章。
才気に満ちたカプリッチョ風の輝くような第3楽章のフィナーレは、
プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」を思わせる。
ジャズも取り入れられ、管弦楽法の妙味を十分発揮している。

ラベルより23年後に生まれたアメリカのガーシュインが
パリ旅行の印象から作曲した 「パリのアメリカ人」は、
この作品の3年前に書かれたが、どこか似た雰囲気が・・・

ラヴェルはト短調を書いた翌年、自動車事故に遭い
脳疾患で作曲も出来なくなり、1937年に62歳で世を去っているが、
ガーシュインも脳腫瘍で同じ年に39歳の短い生涯を終えている。




《 左手のみの超絶技巧 》

【 左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調 】

この曲は、フランス人が好む言葉の1つの
「われわれの豊かさは、われわれが課する制限の中にある」
をよく示す傑作といわれる作品である。

第一次世界大戦中に右腕を失ったオーストリアの
ピアニストのパウル・ウィットゲンシュタインが、
ラヴェルに依頼して作られたものだが、
作曲にあたりラヴェルは、左手だけという制約を、
かえって個性を大胆に集約できる手段として活用し、成功をおさめた。

1931年に着手したが、ラヴェルは1927年頃から
軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていた。
1932年にパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、
症状は徐々に進行していった。

1031年11月27日にウィーンで、ウィットゲンシュタインのピアノで
初演されたが、彼は楽譜通りに弾けず、勝手に手を加えて演奏した。
その上ピアノが難技巧過ぎて音楽性がないと非難したため、
二人の関係は険悪となった。

その後1933年1月27日に、ジャック・フェヴリエの
ピアノによりパリで再演されたのが、
楽譜通りに演奏された初めての演奏となった。

大規模な三管編成で、多様な打楽器とハープが用いられている。

Lentの単一楽章の3部構成になっているが、
全体的に可憐なイメージの1部。
ピアノがジャズ的な演奏をする2部。
ラヴェル独特の精緻な技巧が、左手のみで超絶的に演奏される。




《 スペイン趣味 》

【 スペイン狂詩曲 】

1907年に作曲され、演奏会で発表された最初の管弦楽曲の
「スペイン狂詩曲」は、大胆な和声の用法、多彩なリズムと
音色などに、ラヴェルの独創的な管弦楽法の冴えがみられる。

ラヴェルの作品にはスペイン風の郷愁が感じられるものが多いが、
彼のスペイン趣味は、母がスペインの血をひくバスク人であったと
いう血の影響力が決定的要素となっているといわれている。

「スペイン狂詩曲」は、最もスペイン色の濃厚な作品で、
この曲が初演されたとき、「聴衆はまず全く新しい響きをもった
オーケストラに驚き、前例のない楽想驚くべきリズムの自由さに
心を奪われ、結局熱狂してしまった」と評論家は書いている。

第1曲 「夜への前奏曲」
   神秘的でエキゾチックな夜の空気を感じさせる。

第2曲 「マラゲーニャ」
   スペイン南部のマラガ地方の民族舞曲で、
   強い情熱と深い憂鬱が交替に現れ、スケルツォ風。

第3曲 「ハバネラ」
   レントによる、ものうげな雰囲気の舞曲。

第4曲 「祭りの日」(フェリア)
   神秘的なものと、野性的なものが交替に現れる。




《 お伽噺の世界 》

【 組曲「マ・メール・ロワイユ」】

「マ・メール・ロワイユ」は、彼のピアノ曲から
オーケストレーションされた作品で、原曲はピアノ連弾用の
子どものための5曲の小曲集であった。

バレエ組曲として成功をして以来、交響楽団の演奏会の
曲目中に加えられるようになった。
作品は5曲からできていて、子供の詩情と彼が憧れた
「偉大な世紀」(ルイ十四世の時代)の優雅な趣味とラヴェル自身の
やや冷たい、しかし洗練された個性とが豊かにもられている。

第1曲 眠れる森の美女のパヴァーヌ  
第2曲 一寸法師           
第3曲 陶器人形の女王レードロンネット
第4曲 美女と野獣との対話      
第5曲 妖精の国           




《 巧妙なオーケストレーション 》

【 組曲逝ける王女のためのパヴァーヌ 】

「逝ける王女のためのパヴァーヌ」は、ラヴェルの9番目の作品で、
1899年に書いたピアノ曲を11年後にオーケストレーションしたものである。

フランス人の趣味に訴える感動的な優しさと感傷と悩ましさを
もっていて、典雅で、荘重なパヴァーヌ舞曲のピアノ曲は、
魅力あるクラシックとして、多くのピアニストのレパートリーに
加えられ、成功した曲だったが、シャブリエの影響が大きく、
ラヴェルは満足してなかった。

しかし、オーケストレーションされたことで、原曲よりも一歩進んだ
純芸術的な価値を示し、オーケストレーションの巧妙さによって、
彼の才能の豊かさを証明することになった。
18年後に作曲した「ボレロ」の組み立てを暗示させるところが多くある。

ルーブル美術館にあるヴェラスケスの「若い姫君」の
肖像画に霊感をえて書かれたといわれるが、
ラヴェルは、フランス語で韻を踏む言葉遊びをしたようだ。

(パヴァーヌ=2拍子の優雅な宮廷舞曲)




《 魔術師 》

【 バレエ音楽「ボレロ」】

「ボレロ」は、ロシアの舞踊家イダ・ルビンシティン夫人に
委嘱されて作曲したもので、 ラヴェルの書いた5つ目の、
そして最後のバレエ曲である。

リズムが初めから終わりまで全部同じで、基本リズムが
一本調子に反復され、拍子もテンポも変わることなく、
主題とその応答との旋律がただ繰り返される。

異国的で、憧憬的で、情熱的な旋律の美しさに魅せられ、
その反復にひっぱられていく・・・終わりまで一瞬も休まず
同じリズムを打ち続けるタンブリン・・・
ラヴェルの魔術にかかったような気分にさせられる。

踊り手がカスタネットでリズムをとりながら踊る、
スペインの民族舞踊の曲種としてのボレロではなくて、
「ボレロ」という名をもった曲である。
テンポが非常にゆるく、本来のボレロのリズムとは少し違っている。



パリにはオペラ座と呼ばれる建物が2つある。
一つはフランス革命200年を記念して1989年に作られた
「オペラ・バスチーユ」、そしてもう一つが歴史的な
「パリ・オペラ座」(=オペラ・ガルニエ)である。

フランスでオペラが上演され始めたのは1671年のことで、
様々な劇場に場所を移しながらパリのオペラは花開いていった。
ところが、1858年にナポレオン三世とその皇后がオペラ
観劇後の帰り道で暗殺未遂に遭った。

1860年、皇帝は「かつて建てられたどれよりも立派な劇場」を
建てるための設計コンクールを行ない、優勝したのは、当時全く
無名の建築家シャルル・ガルニエだった。

翌年から工事はスタートしたが、途中普仏戦争が勃発したり、
地盤が悪いことが発覚して基礎のやり直しをしたこともあって、
すべてが完成したのは15年後の1875年1月5日のことだった。

フランス文化の粋を集めて建てられたこの劇場は、皇帝の期待を
はるかに越えたもので、紳士淑女を迎え入れる大階段、美術館と
図書館が併設された大ロビー、鏡ばりのサロン、全てが赤い
ビロードでおおわれた座席など、それはまさしく「かつて
建てられたどれよりも立派な劇場」だった。

現在では、オペラの上演はほとんど近代的設備の整った「バスチーユ」で
行なわれ、「ガルニエ」では主にバレエの公演が行なわれている。

ラヴェルは「パリ・オペラ座」の完成の年に生まれた。




《 音楽的壁画 》

【 バレエ組曲「ダフニスとクローエ」第2番 】

ラヴェルが37歳のときに作曲した「ダフニスとクローエ」は、
バレエ曲として書いた最初の作品である。

当時、欧州のバレエ界を支配していたイタリア・バレエにとって代わって
新しいロシア・バレエを生み出し、欧米のバレエ界に大きな刺激と
影響を与えた、「バレエ・リュス」の座長ディアギレフの委嘱によって
作曲されたもので、完成されたバレエは、
ニジンスキーとカルサヴィチを主役として上演されて、好評を博した。


古代ギリシャの田園詩に基づき、第3場で構成されているが、
第2組曲はその第3場の音楽でラヴェルの管弦楽曲中
「ボレロ」とともに最も多く演奏されている。

羊飼いの息子と娘であるダフニスとクローエの無邪気で
牧歌的な恋物語で、第1部「日の出」第2部「パントマイム」
第3部「全員の踊り」で構成されている。

ラヴェルは、この曲を書くにあたり音楽的壁画を作曲することを
意図としたと言っているが、「日の出」は古今の夜明けを描いた
音楽の中でも、最も見事なものの一つにあげられる。




《 舞踊詩 》

【 バレエ音楽「ラ・ヴァルス」】

ラ・バルス(La Valse)はフランス語でワルツの意味だが、
この曲は曲種のワルツではなくて、「ラ・ヴァルス」という
曲名をもった舞踊詩である。

彼自身が「この曲はウィンナ・ワルツの讃美・・・その中に幻想的な、
果てしない渦巻きの印象がとけ混じっている・・・
ともいうべきものとして構想した」と説明している。

「雲の切れ目を通して、バルスを踊る人々がちらちらと見える。
雲は次第に晴れてゆき、旋回しながら踊る大勢の
人々であふれる大広間がはっきりと見えてくる。
場面はだんだん明るくなり、シャンデリアの光がこうこうと輝く。
1855年頃の宮廷である。」
総譜のはじめにラヴェルが書いている言葉だ。
過去の華やかな舞踏会を、回想しているような作品である。

曲は、ワルツの誕生、ワルツの主要部、ワルツの栄光化の
3つに分かれていて、ヨハン・シュトラウス風のウィンナ・ワルツが、
ファンタスティックな美しさにあふれ、魅力的だ。

この曲は、ロシアバレエ団のディアギレフの委嘱で作曲されたが、
バレエとしてはきわめて踊りにくい曲だったこともあり、
採用されなかった。

バレエで上演されたのは、8年後に作曲された最後のバレエ曲の
「ボレロ」がロシアの舞踊家イダ・ルビンシティン夫人によって
初演された1928年で、夫人は「ラ・ヴァルス」も踊っている。




《 室内楽曲 》

【 弦楽四重奏曲 ヘ長調 】

ラヴェルの室内楽曲の「弦楽四重奏曲 ヘ長調」は、
1902年から3年にかけて作曲した2曲目の室内楽で、
フランク、ドビュッシーの四重奏曲以来の作品とたたえられ、
作曲家としての地位を不動のものとした曲である。

作品は「敬愛する師フォーレ」に献呈されたが、
フォーレは終楽章に対して厳しい批判をしている。
しかし、ドビュッシーは「音楽の神々と私の名において
きみの四重奏曲の何物をも変更してはならない」と忠告したが、
ラヴェルは出版にあたり、大部分手を加えた。

              第1楽章 Allegro moderato     
              第2楽章 Assez vif.Tres rythme   
                   (十分にいきいきと。きわめてリズム的に)
              第3楽章 Tres lent         
                   (非常に緩やかに)      
              第4楽章  Vif et agite        
                   (いきいきと、はげしく)   




《 民族音楽 》

【 ピアノ三重奏曲 イ短調 】

スペインの民族音楽の色彩的官能美にひかれたことも、
ラヴェルの創作の土台となっていて、彼の作品は色彩豊かな
表現の世界を作り上げている。

二十世紀の偉大なピアノ三重奏曲 といわれる「イ短調」は、
第一次世界大戦の前夜の1914年の夏に書かれた。
その時、ラヴェルは静かな澄んだ風光のピレネー山麓の
サン・ジャン・ド・リュスに住んでいた。

召集令状が届くまでの5週間で完成させが、
前線に出動すれば、再び生きては帰れないことを予想し、
音楽的な遺書となることを考えていたようだ。

数カ月後、一兵士として前線へ出動し自動車輸送部隊で
凄惨な体験をしたことが、数多くの手紙からうかがわれる。

この「三重奏曲 イ短調」は、大戦までの音楽的生涯の一つの
精算として、ラヴェルの反抗的な情熱の片鱗を秘めている。

4楽章からなるが、主題はバスクや中近東の民族音楽に影響されている。
第2楽章は、生き生きとした精巧な和声による美しいスケルツォだが、
「パントゥム」は、二つの独立した句が平行してうたわれる
マラヤ地方の詩の形式。

                第1楽章 Modere        
                第2楽章 「パントゥム」Assez vif 
                第3楽章 「パッサカーユ」Tres large
                第4楽章 「終曲」 Anime    




《 アデライードと花言葉 》

【 高貴にして感傷的なワルツ 】

ラヴェルの「高貴にして感傷的なワルツ」は、1911年に
ピアノ曲として作曲され、この曲の初演者のルイ・オーベールに捧げられた。

1912年3月にオーケスレーションされ、バレエ音楽として
4月22日にシャトレー劇場のトルアノヴァ舞踏会で
「アデライードと花言葉」の標題で、ラヴェルの指揮により初演された。

その後は「高貴にして感傷的なワルツ」の曲名で、
管弦楽曲として演奏されることが多い。

7つのワルツとエピローグからなるが、
ワルツのリズムを主題とする変奏曲ともいえる。

第1曲 モデレ(モデラート)            
第2曲 アッセ・ラン(かなりゆるやかに)      
第3曲 モデレ(モデラート)            
第4曲 アッセ・アニメ(かなりアニマートに)    
第5曲 プレスク・ラン(ほとんどレントの速さで)  
第6曲 アッセ・ヴィフ(かなりヴィヴァーチェに)  
第7曲 モワン・ヴィフ(より少なくヴィヴァーチェに)
エピローグ ラン(レント)             




《 代表的な声楽曲 》

【 シェーラザード 】

ラヴェルは「シェーラザード」を2曲書いている。
1898年に管弦楽作品の「シェーラザードの序曲」を
作曲したが、酷評され失敗作となった。

5年後の1903年に題名と主題を使って、ソプラノ用の3曲からなる
管弦楽伴奏歌曲集を作った。
幻想的、異教徒的な雰囲気をもっていて、ラヴェルの代表的な
声楽曲となっている。

第1曲 アジア  
第2曲 魔法の笛 
第3曲 つれない人