《 フランス的 》
【 交響曲 第3番 ハ短調 作品78 】
フランスのルアンの近くにはサン=サーンスという小さな町がある。
彼が生まれたのはパリで、サン=サーンスの父親の家系は、
ノルマンディの農家の出身だった。
サン=サーンスの父親は彼の生後間もなく亡くなり、教育を
母と大伯母から受けた。
大伯母はかなり優れたピアニストで、サン=サーンスが
3歳未満のころに最初の音楽の手ほどきを行い、3歳のころには
すでにかなり正確にピアノを弾いたといわれ、5歳で作曲を
始めるという神童ぶりを示した。
サン=サーンスは、名ピアニストとして名声を保ち続けたが、
ピアニストとして楽壇にデビューしたのは10歳、そのとき早くも
成熟した演奏をしたといわれる。
17歳のときに、41歳のリストに会ったことは、若いサンサーンスに
とって大きな事件であった。
このときから2人の間には厚い友情が生まれ、ピアノの巨匠
リストから多くの影響を受けることになるのである。
サン=サーンスは、交響曲を3曲書いているが、第1番は
18歳のときの野心的な作品。
第2番は4年後、第3番は30年後に発表されている。
彼の数多くの作品の中でも最大傑作の第3番は、最もフランス的で
完璧な音の建築として、永遠に残る曲だといわれている。
《 サムソン物語 》
【 歌劇「サムソンとデリラ」】
生涯に13曲のオペラを作曲したが、3幕からなる「サムソンとデリラ」は
代表作で、メゾ・ソプラノを主役とした数少ないオペラの一つとして
広く知られている。
紀元前、パレスチナの都ガザを舞台に、イスラエルの英雄サムソンと
異教徒ペリシテ人の美姫デリラとの愛と憎しみの物語りである。
このオペラの全曲初演は1877年12月2日にヴァイマル宮廷歌劇場で
行なわれが、1892年11月23日にはオペラ座で、
エドゥアール・コロンヌの指揮により上演されている。
《 代表作 》
【 ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品22 】
サン=サーンスは、長生きをしたこともあって、全てのジャンルにわたり
数多くの作品を書いたことで、一作一作の密度を薄めたとの評価もある。
「あたかも林檎の木に林檎がなるように」作曲したのだから、
まずい林檎が混じるのは当然のことともいえるのかも。
サン=サーンスは5曲のピアノ協奏曲を作曲した。
ピアノ協奏曲 第1番 ニ長調 作品17 (1858年)
ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品22 (1868年)
ピアノ協奏曲 第3番 変ホ長調 作品29 (1869年)
ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調 作品44 (1875年)
ピアノ協奏曲 第5番 ヘ長調 作品103 (1896年)
「第2番ト短調」は、1868年の春、ロシアの大ピアニストの
ルービンシティンがパリ訪問の際に演奏するために依頼され、
わずか17日間で書き上げたといわれている。
5月13日にプレイエル楽堂で、ルービンシティンの
ピアノ独奏により初演された。
サン=サーンス33歳のときの作品だが、彼の全ピアノ曲中でも
最も流麗な名作だといわれている。
独奏ピアノが、華麗な技巧を繰り広げ、幻想的で優雅な気分に
させてくれる。
第1楽章 Andante sostenuto
第2楽章 Allgro scherzando
第3楽章 Presto
《 循環形式 》
【 ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調 作品 44 】
サンサーンスはピアノ協奏曲を5曲作曲した。
第1番から第3番は、1860年代後半に作曲している。
1870年代は、サン=サーンスの管弦楽曲の作曲のクライマックスの
時期で、1874年にサンサーンスは、ベートーベンの主題に基づく
「2台のピアノのための変奏曲を」を書きあげたが、
この変奏曲によって、再びピアノ曲に対する情熱をかきたてられ、
翌年に「ピアノ協奏曲 第4番」を完成した。
楽曲全体の構成が2楽章に分かれていて、それぞれ楽章が
また2つの部分に分かれているので、内容的には
通常の4楽章と変わらない。
冒頭の主題は曲全体にわたってひんぱんに現れるが、当時、
フランスではフランクやダンディが、他の国ではドヴォルザークや
チャイコフスキーらの曲に使われた循環形式が用いられている。
全体を楽想的に統一するために、彼も循環主題法を用いていて、
3つの循環主題は、それぞれの楽章の主題材料として活用されている。
胸をさすような希望のない悲しみに始まり、熱情的な諦めの
情感を経て、かすかな希望の光りが・・・
最後は気高い精神状態に高められて曲は終わる。
このピアノ協奏曲は、86歳と長寿だったサン=サーンスが
人生半ばの40歳のとき、1874年に作られて、名ピアニストだった
サン=サーンスのピアノ独奏により、その年にパリで初演された。
《 エジプト風 》
【 ピアノ協奏曲 第5番 ヘ長調 作品103 】
晩年のサン=サーンスは、生来の旅行好みから広く海外に旅行し、
その足跡はアメリカ、北アフリカ、セイロン、南米、東南アジアにまで
及び、それら各地で演奏をし、名ピアニストとしての名声を保ち続けた。
1921年12月16日何度目かの旅行の途中、アルジェのホテルで客死した。
1871年にフランス音楽振興のため、国民音楽協会を設立するなど、
多方面にわたって活動を続け、多くの名誉と勲章を受けた、
86年の生涯だった。
「ピアノ協奏曲 第5番」は、一般に「エジプト風」と呼ばれているが、
ナイル湖畔のエキゾティシズムを漂わせる第2楽章は
ピアノと管弦楽が思うままに砂漠の夜の空気を呼吸するかのようで、
夜のラプソディーである。
長い作曲生活の最後に、名演奏家がもう1度その姿を現わしたのが
この曲だが、彼はこの後の25年間に他の分野で作曲をし、
演奏活動を続けたのであった。
彼がピアニストとしてパリの楽壇にデビューしたのは1846年
11歳のときであった。
1896年はデビュー50年目にあたり、これを記念してその年の
6月2日にプレイエル音楽堂で61歳の作曲家・ピアニストの
楽壇生活を祝う音楽会が行われることになり、この会のために
新しいピアノ協奏曲をひとつ作曲したが、これがサン=サーンスの
最後の「ピアノ協奏曲5番」だった。
第1楽章 Allegro animato
第2楽章 Andante
第3楽章 Molto Allegro
《 サラサーテ 》
【 バイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 作品61 】
フランクとならんで近代フランス音楽の父と呼ばれている
サン=サーンスは、あらゆるジャンルにわたり、おびただしい作品を
作曲しているが、バイオリン協奏曲も3曲残している。
第1番(イ短調・作品20)は27歳、第2番(ハ長調・作品58)は44歳、
そしてこの第3番は45歳のときの作品である。
サン=サーンスのバイオリン協奏曲といえば第3番が
広く愛好されている。
彼の作風の特徴は、彼超一流の美しい旋律をもって、軽妙洒脱な
フランス風スタイルとドイツ的構成を結び付けようとしたところにある。
第3番も随所に美しい旋律が溢れ、古典の協奏曲に近い
がっちりとした構成で、彼の代表的な器楽作品の1つとなっている。
この曲は1881年1月2日に、19世紀における最も優れた
バイオリニストの1人にあげられるサラサーテによってパリで初演され、
第1番と同様彼に捧げられた。
サラサーテは、「チゴイネルワイゼン」などのヴァイオリンの作品を
残しているが、作曲家としてよりも、演奏家として各地を
演奏旅行し活躍した。
ラロやブルッフのヴァイオリン協奏曲など、多くの作曲家が、
サラサーテのために、作曲している。
サラサーテは、サンサーンが生まれた9年後の1844年3月10日、
スペインのパンプローナーで誕生し、64歳で世を去ったが、
サン=サーンスは86歳と長寿だった。
《 バイオリンの魅力 》
【 序奏とロンド・カプリッチョーソ作品28 】
「序奏とロンド・カプリッチョーソ」は、サン=サーンスの25歳の時の
作品で、ヴィルトゥオーソ(技巧的に卓越した演奏家)たちが
名人芸的演奏の黄金時代を築き上げた十九世紀に、最も優れた
バイオリニストの1人にあげられる、当時16歳のサラサーテに
捧げるために作曲したものである。
原曲はオーケストラの伴奏だが、後にビゼーがピアノ伴奏に
編曲したり、ドヴュッシーもまたそれをピアノ連弾に編曲している。
バイオリンの技巧を最もよく発揮し、演奏効果の大きなこの曲は、
小品的魅力に富んだ「ハバネラ」と共に多くの演奏家、
特にヴィルトゥオーゾ型の演奏家によって
演奏会の曲目に加えられ、親しまれている。
高度の技巧を必要とするが、序奏の抒情的な美しい旋律と、
ロンド・カプリッチョーソでの華やかで情熱的な音楽は、
豊かなサン=サーンスの創造力が示されている名曲である。
《 弓の王 》
【 チェロ協奏曲 第1番 イ短調 作品33 】
カザルス,パブロ 〔カタロニア〕
(1876.12.29〜1973.10.22) 96歳 心臓病
スペインの偉大なチェリストのカザルスは、スペインの
カタロニア地方の町ベンドレルで生まれた。
オルガン奏者だった父親から音楽の手ほどきを受け、
いろいろな楽器の勉強をしているうち、チェロに一番惹かれ、
11歳で本格的にチェロを志した。
13歳のとき、サン=サーンスの伴奏で「チェロ協奏曲イ短調」を弾き、
「これまで聴いた中で最高のものだ」と、感動させたといわれている。
サン=サーンスはチェリストとしてだけではなく、指揮者としても
活躍し、死の年の1973年も演奏会で指揮棒を振ったが、
その数日後友人宅で心臓発作をおこした彼は、
22日後の10月22日午前2時、最愛のマルタに看取られて
96年の生涯を閉じた。
81歳で結婚したとき、マルタは20歳だった。
肘を柔らかく使う現在のボーイングを考案したり、
単なる練習曲と思われていたバッハの「無伴奏チェロ組曲」を
豊かな表情と深い共感をもって弾きこなし、名曲の地位に
引き上げたのも彼の功績である。
サンサーンはチェロ協奏曲を2曲作曲したが、
「第2番変ロ長調 作品119」は、第1番より優れた曲ではなくて、
ほとんど演奏されない。
第1番はサンサーンスが35歳のときの作品で、
3部分に分かれているが、全体が1楽章形式で中断なく
続けて演奏され、フランス的な軽快さと明るさで、
小規模にかわいらしくまとめられている。
この曲は、生存中の作曲家の作品を取上げないとの
パリ音楽院管弦楽団の慣例を破って、作曲してから3年後に
パリ音楽院でトルベック教授の独奏によって初演され、
曲は初演者の教授に捧げられた。
《 動物の音楽会 》
【 組曲「動物の謝肉祭」】
サン=サーンスが51歳のときに作曲した有名な作品の
ひとつである「動物の謝肉祭」は、自然科学を好んだ鋭い観察力から
生まれた曲で、様々な動物の生態をユーモラスに、また皮肉に
描きだしていて、誰にでも親しみやすい曲である。
作曲した年の3月9日に初演されたが、彼は生前の全曲の出版を
認めなかったため、遺言に従って死後初めて出版され、
多くの人に演奏されて人気を集めた。
ただ、「白鳥」だけはピアノ伴奏つきチェロ曲として
生前に出版されていた。
第1曲 序奏とライオンの行進
第2曲 雄鶏と雌鳥
第3曲 騾馬
第4曲 亀
第5曲 象
第6曲 カンガルー
第7曲 水族館
第8曲 耳の長い登場人物
第9曲 森の奥に住むかっこう
第10曲 大きな鳥籠
第11曲 ピアニスト
第12曲 化石
第13曲 白鳥
第14曲 終曲
《 絵画的印象 》
【 アルジェリア組曲 作品60 】
サン=サンースの音楽は古典主義的基調をもち、その様式は
あらゆる大家の折衷主義のごときものだっただけに、
大衆性に富み、名演奏家としての数多くの国外旅行の結果、
国際的な大家として知られていた。
しかし、フランクやフォーレのように真にフランス的なユニークな
特性をもたず、その後継者はいない。
「アルジェリア組曲」は45歳の円熟期に書かれたが、
作曲の動機は、アルジェリア旅行の印象を綴ったもので、
作曲者自身「アルジェリアへの航海の絵画的印象」という言葉を
曲頭に書き記している。
彼特有のウィットに富んだ手法でまとめた4つの小品を、
巧みなオーケストレーションのうちに生かした傑作の一つである。
第1曲 前奏曲・アルジェリアの街
第2曲 ムーア風な狂詩曲
第3曲 夕べの幻想
第4曲 フランス軍隊行進曲
十九世紀も半ばを過ぎると、ヨーロッパの楽壇には東洋その他に
題材を求めたエキゾティシズムが流行するようになったが、
サン=サーンスのこの曲はそうした傾向の最も早い表れの一つの曲である。
北アフリカの地中海に面した植民地アルジェリアに、
しばしば訪れていたが、86歳でこの世を去った土地でもあった。
《 母の一言 》
【 チェロ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品32 】
サン=サンースは長生きをしたこともあって、全てのジャンルにわたり
数多くの作品を作曲した。
チェロ・ソナタを2曲書いたが、第2番ソナタは、
チェロ協奏曲第2番と同様にあまりよい作品ではなくて、
現在では演奏されない。
バイオリンの作品を書いて、十分に自信をもったサン=サンースが、
初めてチェロと取り組んだ最初の作品で、続いて書かれた
チェロ協奏曲第1番への準備ともなったと考えられている。
彼はこの時期、母とともにパリに住んでいたが、
新作品が出来上がる度に友人を集めては聞かせていた。
当時のサン=サーンスは、まだ作曲家としては認められず、
聴衆からも批評家からも非難され、わずかに名ピアニスト、
オルガニストとしての彼の才能だけが評価されていた。
彼を理解する少数の友人のグループは、こうした新作の
私的発表を通じて彼を指示していた。
この1番を作った時もこのようにして友人たちに発表したところ、
友人たちはいずれも満足したが、皆が帰ってしまってから
母は、この作品の第3楽章の終曲は非常に悪くて、
他の部分を汚すものだとはっきり言った。
憤慨したサン=サンースはいきなり終曲の楽譜を引き裂き、
日間部屋に閉じこもったきり、食事のときしか現われず、
しかも一言も口をきかなかった。
こうした劇的な8日間の後、現在の終曲が出来上がり、
母も満足したという。
構成の巧みさ、終曲のりっぱな効果から、この曲は
彼の室内楽曲中の傑作とみなされている。