
《 後期ロマン派風 》
【 室内交響曲 第2番 変ロ長調 作品38 】
現代音楽における最大の作曲家の1人のシェーンベルクは、
1874年9月13日にユダヤ人の両親のもとウィーンで生まれ、
キリスト教徒として育てられた。
15歳で父親を失い、家計が豊かでなかったために十分な音楽教育を
受けることが出来ず、独学で多くのことを勉強し、20歳のときに
2歳年長のツェムリンスキーについて数カ月間、対位法を学んだのが
唯一の正規の音楽教育だった。
その後、アルバン・ベルク(1885?1935)と共に「無調の音楽」
「12音音楽」の手法を生み出し、二十世紀の音楽に大きな影響を与えた
26歳のときに音楽の師であるツェムリンスキーの妹のマティルデと
結婚したが、49歳のときにマティルデは亡くなり、翌年、バイオリニストの
ルドルフ・コーリッシュの妹のゲルトルートと再婚した。
ユダヤ人であるシェーンベルクは、ドイツで活躍していたが、ヒットラーが
政権を執り、ユダヤ人迫害政策を始めると、それを逃れ1933年に
アメリカに亡命した。
やがて、1939年から第二次世界大戦が開始され、戦局は年を追って拡大し、
次第に深刻化していった。
それ以後もシェーンベルクはヨーロッパには帰らず、アメリカの市民権を得、
ヨーロッパに帰ることなく、喘息発作のためロサンゼルスで76年の生涯を閉じた。
シェーンベルクは、ユダヤ人としてナチスに迫害されたときに、公然と
ユダヤ教に改宗して自己の立場を明らかにしたが、このような性格は
彼の一生を貫いていて、作曲上でもそれがよく感じられる。
また、彼は音楽ばかりでなく絵の才能にも優れていて、
表現派の画家として、自画像も残している。
2楽章しかない「室内交響曲第2番」は、第1番が完成した
1906年に構想されたが、途中放棄し完成したのは33年後だった。
純粋に12音によるものではなく、調的な曲になっていて、
後期ロマン派風の作風になっている。
楽譜は貸譜があるのみで、名曲解説全集にも掲載されてない。
第1楽章 Adagio
第2楽章 Con fuoco

《 単一楽章形式 》
【ピアノ協奏曲 作品42】
無調の音楽、12音技法の創始によって現代音楽の進路に
決定的な方向を示し、ヴェーベルンやベルクなど多く優れた弟子を育て、
二十世紀の音楽に大きな影響を与えた。
ベルクと共に無調の音楽、12音音楽の技法を完成させた。
協奏曲は1936年に作曲した「ヴァイオリン協奏曲作品36」と、
1942年に書かれたこの「ピアノ協奏曲」の2曲だけで、
どちらも渡米後の作品である。
純粋に12音の技法で作られたこの作品のスケッチに記された言葉に
「穏やかな人生に、突如憎しみがわき起こり、暗い状況が作りだされるが、
しかし人生はなにもなく過ぎてゆく」とある。
1944年2月6日にニューヨークで初演された。
内容的には4つの部分に分かれているが、全曲通奏される
単一楽章形式をとっている。
1、Andante
2、molto Allegro
3、Adagio
4、Giocoso moderato
《厳格な12音技法》
【 バイオリン協奏曲 作品36 】
アメリカに亡命した翌年に書いた「弦楽のための組曲」に続く
渡米後の第2作目が「バイオリン協奏曲」で、1934年から
1936年にかけて作曲された。
純粋に12音の技法で作られたこの作品のスケッチに記された言葉に
「穏やかな人生に、突如憎しみがわき起こり、暗い状況が作りだされるが、
しかし人生はなにもなく過ぎてゆく」とある。
1940年12月6日にルイス・クラスナーと、ストコフスキー指揮の
フィラデルフィア交響楽団によって初演され、
アントン・ウェーベルンに献呈された。
3楽章からなり、全楽章とも同一の音列(セリー)の上にきずかれている。
第1楽章 Poco Allegro-VIvace ma non toroppo
第2楽章 Andante grazioso
第3楽章 Finale Allegro

《 メーテルリンク 》
【 交響詩「ペレアスとメリザンド」作品5 】
1892年に出版されたメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」は、
1902年にドビュッシーがオペラに、
1905年にはシベリウスが付随音楽として、
1898年にもフォーレが管弦楽組曲として作曲している。
シェーンベルクの唯一の交響詩である「ペレアスとメリザンド」は、
1902から1903年にかけて作曲した作品で、
ワーグナー、R.シュトラウス、マーラーの影響の濃い
ロマン派風な大編成の交響詩である。
1905年1月25日に、シェーンベルクの指揮により
ウィーンで初演された。
メーテルリンク,モリス 〔ベルギー〕
(1862.08.29〜1949.05.06) 86歳
象徴主義の詩人・劇作家のメーテルリンクは、
1862年8月29日にベルギーのヘントで裕福な家に生まれた。
彼はベルギー人として初めて、1911年49歳のときに
ノーベル文学賞を受賞している。
ベルギーでは、北はオランダ語圏、南はフランス語圏で、
少数の裕福階級は二十世紀前半までフランス語を主に使っていた。
メーテルリンクはフランス語を話し、仏語で作品を創作していたので、
彼の著作は「フランス文学」に分類される。
彼は35歳のときにフランスに完全に居を移し、
ニースで86年の生涯を閉じた。

《 調性の放棄 》
【5つの管弦楽曲 作品16 】
ベルクと共に「無調の音楽」「12音音楽」の手法を生み出し、
二十世紀の音楽に大きな影響を与えたシェーンベルクが、
調性の放棄の時代の初めにあたる1909年に作曲した
「5つの管弦楽曲作品16」は、純粋な大管弦楽曲としては
唯一のものである。
「管弦楽のための5つの小品」とも呼ばれ、後に
ベルク(1885〜1935)の「管弦楽のために3つの小品」
ヴェーベルン(1883〜1945)の「管弦楽のための6つに小品」
ホルスト(1874〜1934)の「惑星」などに影響を与えている。
楽器編成は曲ごとに多少異なるが、大体4管編成になっていて、
打楽器は比較的少なく、特にティンパニーは
第1曲で用いられるだけである。
各曲には暗示的な標題がつけられている。
第1曲 予感
第2曲 過ぎ去りしもの
第3曲 色彩
第4曲 大団円
第5曲 オブリガート叙唱
1912年9月3日にロンドンで初演されたが、10年後に改訂された。
さらに、1949年には小管弦楽版も作られている。

《 最後の室内楽作品 》
【 ピアノ伴奏を伴ったバイオリンのための幻想曲 作品47 】
シェーンベルク最後の器楽作品となったのが、1949年に作曲した
「バイオリンとピアノのための幻想曲・作品47」で、
この曲を委嘱したアドルフ・コルドフスキーによって、
シェーンベルクの75歳の誕生日に初演された。
バイオリンのために書かれた作品は「バイオリン協奏曲」と
この「幻想曲」の2曲だけしかない。
8歳でバイオリンを習い始め、バイオリンという楽器の特性を
熟知していて、作曲家としてのキャリアの早い段階から、
作品にバイオリン・パートを入れていた。
感情豊かな「幻想曲」は、情熱的で朗々としたメロディで始まる。
ミステリアスなところやユーモラスなところ、甘美な雰囲気から
暗く静寂な雰囲気まで、流れるように移り変わっていく。

《 室内楽版 》
【 皇帝円舞曲(編曲)】
「皇帝円舞曲」は、フランツ・ヨーゼフ一世が1848年に
オーストリア皇帝に就任して40年の祝賀記念舞踏会のために、
ヨハン・シュトラウス二世によって書かれた作品だが、
50年近く後に生まれたシェーンベルクが室内楽版に編曲している。
全く対照的な二人によって書かれた「皇帝円舞曲」だが、
ウィーンの香りがいっぱいで、巧みに洗練された響きは、
シェーンベルクの腕の冴えを聴かせてくれる。

《 リヒャルト・デーメルの詩 》
【 弦楽六重奏曲 作品4「浄められた夜」】
シェーンベルクは25歳のとき、世紀末の苦悩と憂愁を歌った
ドイツの詩人リヒャルト・デーメルの詩に感銘をうけ
その内容と情感を生かして「浄められた夜」を作曲した。
『2人の男女が寒い荒涼とした林の中を歩いている。
月が高いカシの樹の上を渡っている。
雲一つない月明かりのなかに黒々とした樹立ちの
骨ばった枝が手をひろげている。
女が話しだす。
女は寄り添っている男に罪の告白をする。
女は子供を宿している。
だが、それは別の男の子供であって、彼はその子の父親ではない・・・
彼女は自分が祝福されたものと思っていたが、いまは人生が
彼女に報復しようとしているのだ。
彼女がほんとうの愛を捧げたのは彼女と共に月明の
林のなかを歩いている男なのだから。
彼女は自分についてくる月をうつろな眼で見上げながら、
よろめきがちに歩いてゆく。
男が口をきく。
罪の意識で心の重荷にしないでくれ。
世界がどんなに明るく光り輝いているか見てごらん。
すべてのものが光り輝いているではないか・・・・
2人の男女は凍った月明かりのなかをさまよっているが
互の愛の炎が相手の心を温める。
男は言う。
それはまた小さな未知の子を浄めるだろう。
そして、彼女はその子を彼の子として生むのだ。
彼女は彼のなかで光り輝くものをよびさまし、
彼をもまた幼な児にしてしまったのだから・・・
2人の男女はたがいの腕のなかに沈む。
2人の呼吸は風のなかで接吻をかわす。
男と女はいつまでも明るい月光のなかをさまよいつづける。』
二人の男女の対話と、それをはさむ二人の歩みの
描写とからなっているので、曲の構成もそれに従っている。