シベリウス,ジャン  〔フィンランド〕
(1865.12.08 〜 1957.09.20) 91歳  脳出血

              【 クレルヴォ交響曲 作品7 】
              【 交響曲 第1番 ホ短調 作品39 】
              【 交響曲 第2番 ニ長調 作品43 】
              【 交響曲 第3番 ハ長調 作品52 】
              【 交響曲 第4番 イ短調 作品63 】
              【 交響曲 第5番 変ホ長調 作品82 】
              【 交響曲 第7番 ハ長調 作品105 】
              【 バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47 】
              【 交響詩「伝説」作品9 】
              【 カレリア組曲 作品11 】
              【「トゥオネラの白鳥」作品22 第3 】
              【「レミンカイネンの帰郷」作品22 第4 】
              【 交響詩「フィンランディア」作品26の7 】
              【 交響詩「タピオラ」 作品112 】





《 民間伝承 》

【 クレルヴォ交響曲 ホ短調 作品7 】

若き日のシベリウスはバイオリン奏者を志しながらも
ヘルシンキ大学で法律を学びつつ、作曲の勉強もした。
ベルリンやウィーンなど、国外での生活を経験したが、
サンクトペテルブルクやライプツィヒなどを訪れて見聞を深めた。

そのことは、次第にフィンランド人としての自覚と、自国の文化的な遺産に
目覚めさせるチェンスを与えることになり、1892年27歳のときに
完成させたのが「クレルヴォ交響曲」だった。

シベリウスが祖国に帰りついたのはその前年で、秋にはカレリア地方を訪れて、
老大家から民間伝承「カレリアの歌」の吟唱を聞くことができ、
それが元となって民間伝承の主要な登場人物の英雄クレルヴォに
焦点をあてた大作をまとめあげた。

交響曲とカンタータを同居させたような作品で、全5楽章からなり
第3楽章と第5楽章には声楽が加えられている。

第1楽章 導入歌       
第2楽章 クレルヴォの青春  
第3楽章 クレルヴォと彼の妹 
第4楽章 戦いに赴くクレルヴォ
第5楽章 クレルヴォの死   

1892年4月にシベリウスの指揮で初演され、ロシアの圧制に不満を抱いていた
フィンランド国民を厚い感動を導き、空前の成功をおさめた。

しかし、シベリウスは初演の後、作品を仕舞いこみ、外国からの再演要請にも
許可をせず、楽譜の出版も彼の生前には行なわれなかった。





《 交響詩風 》

【 交響曲 第1番 ホ短調 作品39 】

シベリウスは、外科医の父と優しい女性的な母の間に生まれた。
両親はフィンランド人だが、どちらもスウェデン人の血が交じっている。

3人きょうだいで、 姉と弟がいた。
父はシベリウスが2歳半のときに世を去っている。
幼少時代から自然を愛し、夢想的な性格をもっていて
森や湖に遊びに行くことが好きで、植物や虫を採取することに熱心だった。

5歳ごろからピアノに親しみはじめ、作曲の真似事もするようになり、
15歳になったときにヴァイオリンを習いはじめ、姉のピアノ、
弟のチェロで室内楽を楽しんだりした。
シベリウスは91歳まで生きたが、姉は69歳で、
ヘルシンキで精神科医をしていた弟のグスタフは、53歳で世を去った。

34歳のときの作品である交響曲第1番は、シベリウスの個性は
まだ十分に発揮されてなくて、特にチィコフスキーの影響がいちじるしい。
この年には有名な交響詩「フィンランディア」も作曲している。

曲の主題にスラブ的な色彩が強く、副主題にはフィンランド的色彩がいちじるしい。
幻想曲風で、抒情味にみちた旋律が流れる中に、
ティンパニーの力強い響きは帝政時代のロシア支配下のフィンランドの、
暴政に対する反抗の意志の音楽であるという人もいる。

最終楽章では、「幻想風に」の指示通り、非常に自由な楽想で書かれていて、
幻想曲や交響詩のようである。

              第1楽章 Andante ma non troppo-Allgro energico 
              第2楽章 Andante ma non toropo lento      
              第3楽章 Scherzo Allgro             
              第4楽章 Quasi una fantasia Andante-Allgro molto

作曲をした年の4月26日にフィンランドの首都ヘルシンキで
作曲者自身の指揮で初演された。




《 愛国心 》

【 交響曲 第2番 ニ長調 作品43 】

シベリウスは、1892年に作曲した「クレルヴォ交響曲 作品7」を除いて、
1899年から1924年の25年間に7曲の交響曲を作曲したが、
2番が最もよく演奏される。

              交響曲 第1番 ホ短調 作品39 (1899年) 
              交響曲 第2番 ニ長調 作品43 (1901年) 
              交響曲 第3番 ハ長調 作品52 (1907年) 
              交響曲 第4番 イ短調 作品63 (1911年) 
              交響曲 第5番 変ホ長調 作品82 (1915年)
              交響曲 第6番 ニ短調 作品104 (1923年  
              交響曲 第7番 ハ長調 作品105 (1924年)

1900年は新しい世紀の開始の年として、パリで大博覧会が開かれ、
シベリウスはヘルシンキのオーケストラと同行して自作を指揮し、大喝采をあびた。
これが契機となって、シベリウスは国際的な活躍をするようになった。

その後、交響曲第2番の作曲に取りかかったが、
ドイツでのフェスティバル出演があり、作曲は中断した。

シベリウスの個性がはっきりきざみこまれた作品が完成したのは
1901年の年末で、翌年の3月8日にヘルシンキで彼自身の指揮で
初演されたが、直ちに追加公演が行なわれるほどの大成功だった。

陰鬱な第1交響曲と違い田園的な明るさを持っていて、
北欧フィンランドの特異な風土的感覚が示されていることから
「田園交響曲」と呼ばれることもある。

主題に北欧の民謡的な色彩が強いが、シベリウスは民謡を
そのままに用いることはなかった。

第2楽章では暗く重く鬱積した感情が幻想的に表現され、
第3楽章から第4楽章のフィナーレにかけては、情熱の高揚、
爆発があって、雄大に曲は結ばれ、フィンランドの愛国心に訴えるものがある。

当時フィンランドはロシアの圧政下にあり、支配国の愛国独立運動に
神経をとがらせていたロシア官権筋は、この作品の演奏に対して、
難色を示したこともあった。

                 第1楽章 Allegretto   
                 第2楽章 Andante    
                 第3楽章 Vivacissimo  
                 第4楽章 Allgro moderato




《 耳疾の苦しみのなかで 》

【 交響曲 第3番 ハ長調 作品52 】

シベリウスは1908年に喉の腫瘍の手術を受けていて、
死を身近に感じるようになっていたので、この時期の作品は
暗闇からかすかな光りを探し求めるような感覚がつきまとっている。
34歳のときの作品である交響曲第1番は、シベリウスの個性は
まだ十分に発揮されてなくて、特にチィコフスキーの影響がいちじるしい。
この年には有名な交響詩「フィンランディア」も作曲している。

1901年に交響曲第2番を完成してからの約4年間は、ヘルシンキから
20マイルほど離れたヤルヴェンバーで、半ば隠遁的な生活を送った。
耳疾の苦しみのためである。

しかし、この間に有名なバイオリン協奏曲をはじめとする、
数々の代表作を作曲した。
この交響曲第3番もこの時期の1907年の夏に完成し、
9月25日にヘルシンキでシベリウス自身の指揮で初演された。

壮麗な第2番と、内省的な美しさをたたえた第7番とともに、
彼の交響曲の中で最高傑作とされている。
第4番との間にあって、とかく目立たない存在となっているが、
形式も、楽器編成も小さいながら、捨て難い美しさをもっている。

              第1楽章 Allgro moderato         
              第2楽章 Antdante con moto,quasi allegretto
              第3楽章 Moderato-Allegro ma non tanto  




 《 病から癒えて 》

【 交響曲 第4番 イ短調 作品63 】

第1番と第2番は、ロマン的な交響曲だが、第3番は新たな転換へと
向かっての探究を感じさせる。

第4番では様式が一変し、非常に新しい、大胆な手法に進んでいる。

1908年に喉の腫瘍の手術を受けていて、彼は、死を身近に
感じるようになっていたので、この時期の作品は暗闇からかすかな
光りを探し求めるような感覚がつきまとっている。

翌年、病から癒えたシベリウスは、義兄のエーロ・ヤルネフェルトと、
旅行をしているが、「生涯で最も素晴らしい経験の一つ」と記している。

1910年に着手された第4番は、翌年完成した。
イギリスの音楽研究家のセシル・グレイは「この曲には
最初から最後まで余分な音符は一つもない」と絶賛している。

1911年4月3日に作曲者自身の指揮により初演され、
義兄のエーロ・ヤルネフェルトに捧げられた。

              第1楽章 Tempo molto moderato-quasi adagio
              第2楽章 Allgro molto vivace        
              第3楽章 In tempo Largo          
              第4楽章 Allgro               




《 生誕50年記念に 》

【 交響曲 第5番 変ホ長調 作品82 】

1915年の作品「交響曲 第5番」は3楽章からなり、シベリウスの
生誕50年年記念演奏会のために 作られ、誕生日の12月8日に
作曲者自身の指揮により、ヘルシンキで初演され大成功をおさめた。

しかし、シベリウスは満足できず4年後の1919年に改訂稿が完成し、
その年の11月24日にシベリウスの指揮により演奏され、この稿が決定稿となった。

北欧の自然の雰囲気を描いた、標題音楽に近い感じの曲で、
美しい自然と生き生きとした生命を歌い上げたお祝い気分の作品となっている。




《別荘「アイノラ」》

【 交響曲 第7番 ハ長調 作品105 】

シベリウスは32歳のときに、民族的発想による作品の意義と
価値によって、政府から終身年金をおくられることになり、
91歳で亡くなるまでの59年間は、経済的な苦労はなかった。

1921年に最後の訪英をし、1924年に最後の交響曲である第7番を書いたが、
60歳を過ぎると創作活動はにわかに鈍り、1929年でとだえた。

その後は謎の空白を続け、脳出血で91歳の生涯を閉じ、
ヘルシンキの大聖堂で国葬が営まれた。

シベリウスは39歳のときに、ヘルシンキ郊外のヤンヴェルバーに
別荘「アイノラ」を建て、そこを住まいとし、田舎暮しをしていたが、
棺は「アイノラ」の庭に葬られた。

交響曲第7番は、ハ長調による単一楽章の形で書かれていて、
一種の交響詩のような性格がみられるが、交響曲というジャンルの
様々な要素が盛り込まれている。

おのおのの主題、動機、楽節は綿密に統合し統一され、短い一つの楽章の中に
AndanteからPrestまで含んでいて、あらゆる表現の限りをつくしている。

優れた楽想、魅力ある旋律と和音法、比較的小さな編成だが、
極めて充実し効果ある楽器法、そしてこの斬新な楽曲構成と全てにおいて、
間然するところのない珠玉のような交響曲を形成している。

シベリウスの音楽は、イギリスで高く評価されていて、
新作が出来る毎に渡英して作品を発表していた。
この交響曲もイギリスでの音楽祭に自ら指揮をするつもりで作られたが、
完成後に病をえ、それは不可能となり、完成の翌年にヘルシンキで
彼自身の指揮で初演された。




《幻想的》

【バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47】

シベリウスが最初にならった楽器はピアノだったが、14歳になった時に
バイオリンを買ってもらい、それ以来、バイオリンのとりこになってしまった。

彼はバイオリニストを目指していたのだが、演奏会で
ひどくあがって失敗をしたため、演奏家の道を断念し作曲に転向した。

ベートーベン以来の最大の交響曲作家といわれ、数多くの交響曲や
交響詩を作曲したが、協奏曲は「ニ短調作品47」の1曲しか残さなかった。

この曲を作曲したのは38歳、憂鬱症に悩まされている頃で、
深い心の憂愁や、鬱積した幻想の吐け口を求めていた
シベリウスの気持を感じさせる幻想的な曲だ。

1904年2月8日にヘルシンキで、作曲者自身の指揮で初演が行なわれた。




《 英雄の物語 》

【 交響詩「伝説」作品9 】

シベリウスは民族音楽の作曲家だが、
祖国のフィンランドの民謡を用いた作品は書いてない。

祖国の古い伝説に基づいた交響詩「伝説」は、彼が書いた最初の交響詩で、
シベリウスの出世作ともいうべく、この曲によって、彼の名は広く
フィンランド国外に紹介された。

音楽の性格は、力強い英雄の物語とその悲劇を暗示するかのように、
暗い悲痛な音調に貫かれているが、具体的な物語はない。

この曲は、ウィーン留学から帰国した1892年、
アイノ・ヤーネフェルトと幸せな結婚をした年に作られた。




《 カレリア地方 》

【 カレリア組曲 作品11 】

シベリウスの作品は、北欧的でメランコリックな表情を示す作品が多いが、
「カレリア組曲」は対照的な作品である。

カレリアは、フィンランドの一地方の名前だが、
素朴で明るいこの地方の自然や人情を、簡潔な音楽として描いている。

「カレリア組曲」を作曲した前年に、ウィーン留学から帰国し、
アイノ・ヤルネフェルトと結婚した。
交響詩「伝説」作品9を書いたのもその年である。

首府ヴィボリで催されたある野外劇のための付随音楽として
1883年の秋に作曲された。
「カレリア序曲 作品10」は同じ動機によって作られた作品である。

3つの部分からなり、郷土の風物に対する深い愛情が見事に表現されている。

第1曲 間奏曲 
第2曲 バラード
第3曲 行進曲 




《 黄泉の国 》

【 「トゥオネラの白鳥」作品22 第3 】

シベリウスは、フィンランドの壮大な民族伝承カレワラにもとづく
4つの交響詩を1893年から1899年にかけて作曲し、
これを作品22の「4つの伝説曲」としてまとめた。

  「レミンカイネンの乙女」
  「トゥオネラのレミンカイネン」
  「トゥオネラの白鳥」
  「レミンカイネンの帰郷」

「カレワラ」はフィンランド民族の大叙事詩で、
英雄レミンカイネンの物語りによって作られている。

「トゥオネラ」は黄泉の国のことで、この死の国と現実の世界との
間には、三途の川ともいうべきトゥオネラ河があり、
美しい神聖な白鳥が浮かんで、もの悲しい歌を歌っている。

レミンカイネンは、愛するポホヨラの娘をえるために課せられた
3つの冒険の一つとして、この白鳥を射んとするが、
失敗して命を失ってしまう。
しかし、彼は母親の愛情によって蘇り、無事故郷に帰ってゆく。

フルート、クラリネット、トランペットのような明るい音色の楽器は
全く使われてなくて、白鳥の姿はイングリッシュ・ホルンの
もの淋しい旋律によって美しく描き出している。
全曲通して、幻想的で神秘的な雰囲気をかもしだした静かな曲である。

初めは、フィンランド神話による大規模なオペラを計画したのだが、
シベリウスはオペラ作曲家としての才能に恵まれていないことを悟り、
結局オペラの序曲だけを、「トゥオネラの白鳥」という標題で出版した。




《 カレワラ 》

【「レミンカイネンの帰郷」作品22 第4 】

シベリウスは「4つの伝説曲」の他に「カレワラ」に基ずく
多くの作品を残している。
フィンランド民族は、古来歌を好み、作者の名も知れない
無数の歌が、昔から代々口移しに伝えられてきたが、
1835年にエリアス・リョンロット博士によってまとめられ出版された。

主要人物は、ワイナモンネン、イルマリネン、レミンカイネンの3人が活躍する。
「カレワラ」は、音楽の他にも絵画などの他の芸術にも大きな影響を及ぼしている。

シベリウスの他にも、多くの作曲家が交響曲や歌劇、管弦楽曲などの
作品を書いているが、最もすぐれた音楽を書いたのが
フィンランド最大の作曲家シベリウスである。

北方の地のポホヨラの娘に恋したレミンカイネンは、その母ロウヒによって
3つの冒険を課せられ、それを成し遂げたら娘を与えようと約束する。
彼はトゥオネラ河の白鳥を射るという第3の冒険に失敗して毒蛇に殺され、
黄泉の国のトゥオニの子によってその身体は切り刻まれて、
トゥオネラ河に投げ込まれた。
レミンカイネンの母は、大きな熊手をもってその河をかきまわして
息子の肉片を拾い集め、呪文の力により彼を蘇生させる。
蘇ったレミンカイネンは、なおもポホヨラの娘に心ひかれて恋情を
歌うが、母の大きな愛情に説得されて故郷に帰ってゆくという物語。

「レミンカイネンの帰郷」は「トゥオネラの白鳥」とは対照的に、
終始息もつかせぬ緊張にみち、短調の悲痛な音調から、
喜ばしい帰郷を描いた最後へと見事な盛り上がりをみせている。
主題的な素材の扱い方は、ボロディンから借用しているが、
後にシベリウスの特徴として昇華されていく。




《 長寿 》

【 交響詩「フィンランディア」作品26の7 】

フィンランド最大の音楽家のシベリウスは、幼少時代から自然を愛し、
夢想的な性格をもっていた。
森や湖に遊びに行くことを好み、植物や虫を採取することに熱心だった。

1899年、34歳のときに作曲したこの曲は、祖国愛をうたった
民族色ゆたかな曲で、シベリウスの全作品の中でも、
最もひろく親しまれている曲である。

深い霧に閉ざされた無数の湖沼と森林、雪凍る原野で 知られる
美しい祖国の自然に対する讃歌として作られたが、烈しい民族の
叫びにも似た序奏、過去の苦難を想起させるかのような
重苦しい主題、そして金管の雄大な行進曲の響きは
圧倒的な迫力をもって全国民の愛国心をあおりたてたようだ。

当時はロシアの治下で、フィンランドの独立心をあおるという理由で、
異なったタイトルで演奏されたり、演奏を禁止されたこともあったようだ。

シベリウスは1902年前後から、耳疾にかかり、約4年間悩まされた。
1957年に脳出血で91歳の生涯を閉じたが、1929年ころからの
作品はなく、謎の空白期間といわれている。




《 神話の神 》

【 交響詩「タピオラ」 作品112 】

「第7交響曲」が交響曲作家シベリウスの総決算だとすると、翌年に作られた
「タピオラ」は、シベリウスの一連の交響詩の頂点をなす傑作といわれる。

あらゆる無駄を排して簡潔な素材を用い、緊張感に溢れた力強さや
詩的な雰囲気の表現をなし遂げた。
この曲以後、シベリウスはほとんど重要な作品を発表しなかった。

祖国の偉大な民族伝承「カレワラ」を愛し、多くの物語りを
曲に描いたが、「タピオラ」は神話の神タピオラを標題としていて、
フィンランドの森の神秘に満ちた自然体験を普遍化しながら描き、
叙情詩的な作品である。

この曲は、60歳の誕生日を迎えた1925年に、
ニューヨーク交響楽団から作品の委嘱を受けて作られたが、
その年にアメリカで初演された。
そして、その時に指揮をしたウォルター・ダムロッシュに捧げられた。

総譜には、「カレワラ」の一節が記されている。



かなたには北国の暗い森がひろがっている
太古の、神秘な原始の夢をえがきつつ、
そこには森の大神が住み、
森の精がひそかに闇の中でうごめいている。