ストラヴィンスキー,イーゴル  〔露→米〕
(1882.06.18 〜 1971.04.06)  88歳

             【 オペラ「エディプス王」】
             【 バイオリン協奏曲 ニ長調 】
             【 協奏曲「ダンバートン・オークス」】
             【 バレエ組曲「火の鳥」】
             【 バレエ音楽「ペトルーシュカ」】
             【 バレエ音楽「春の祭典」】
             【 バレエ組曲「プルチネルラ」】
             【 バレエ組曲「オルフェウス」】
             【 交響的幻想曲「花火」作品4 】
             【 弦楽四重奏のための3小品 】






 《 オペラ・オラトリオ 》

【 オペラ「エディプス王」】

 ストラヴィンスキーは、1882年6月17日にペテルブルク郊外の
オラニェンバウムで、著名なオペラ歌手の父と、音楽の天分に
恵まれていた母との間に生まれた。

家には20万余の蔵書があり、後に作品の素材となる
多くの民間伝承や、オペラのスコアが含まれていた。

9歳のときに両親はピアノの先生につけたが、楽譜を読むことを
たちまち覚え、即興演奏をするようになったものの、
特別の天分は示さなかった。

父の勧めで、大学では法律を勉強したが、学友に
リムスキー・コルサコフの息子がいて、本格的に作曲家になる
決心をしたが、その後も音楽学校には入らず、法律を勉強しながら、
リムスキー・コルサコフから作曲法や管弦楽法を学んだ。

ストラヴィンスキーの代表的な作品であり、現代曲の中の
数少ない名品の一つに数えられるオペラ「エディプス王」は、
1924年に着手され、1927年に完成された。

題材を古代ギリシャ神話からとり、ソフォクレスの
ギリシャ悲劇をもとに、台本をジャン・コクトーが書いた。

副題は「ソフォクレスにもとづく2幕のオペラ・オラトリオ」とあり、
オラトリオのもつ、壮麗な格調を、できるだけ近代的に
生かそうと努め、成功している。

完成の年の5月30日に、ストラヴィンスキーの指揮で、
パリのサラ・ベルナール劇場で初演された。

全2幕だが、語り手が筋の展開を説明する部分をはさみ、
それぞれ3部分に分けられている。




《 最初のバイオリン曲 》
 

【 バイオリン協奏曲 ニ長調 】

 ストラヴィンスキーは、社会的活動を全く好まず、
音楽団体の世話役や会長にも就任したことがなかった。

故国の革命にも無関心だったし、自身の創作を妨げられる
ことを避けた人生で、彼は長いあいだ問題の作家だった。
1930年代頃まで、1作品毎に大胆な実験を行ない、
常に「変貌」を続けていった。

バイオリン協奏曲は49歳の作品だが、
バイオリン曲としては、彼の最初の作品である。
書くきっかけとなったのは、自分の趣味にかなうバイオリニストの
サミュエル・ドッシュキンと知り合いになったことがあげられる。

この曲は、一部の評論家からは、曲芸的で山師的だと
非難を受けたが、その後もドッシュキンの協力で
数々のバイオリン独奏用の編曲を発表した。




《 最後の作品 》
 

【 協奏曲「ダンバートン・オークス」】

 二度の大戦で居住地を変えたが、作風も大きく変わり、
自分にとっての新たな音楽を追い続け、そこから独自のものを
作り続けていった。
その探究心は、死の直前まで衰えず、病床でも作曲を続け、
最愛の妻が見守るなか、1971年4月6日に
ニューヨークで88年の生涯を閉じた。

木管楽器のための協奏曲「ダンバートン・オークス」は、
芸術に理解のあったブリス夫妻の結婚30周年の
お祝いのために書かれた。

夫妻は、ワシントン郊外に美しく広大な庭園を造り、
「ダンバートン・オークス」 と名付け、そこに住居を構えていた。
この作品の題名は、その庭園の名からつけられた。

ストラヴィンスキーがヨーロッパ時代に完成させた
最後の作品となった。

3楽章からなり、全楽章は連続して演奏される。

                 第1楽章 Tempo giusto
                 第2楽章 Allegretto 
                 第3楽章 Con moto 



 


《 ロシアの民話 》

【 バレエ組曲「火の鳥」

 問題の最も多い代表作といわれた「春の祭典」よりも3年前に
作られたバレエ音楽「火の鳥」は、1910年6月23日にパリの
オペラ座で、ディアギレフのロシア・バレエ団によって初演された。

ロシアの民話にもとづく「火の鳥」のバレエは、
絢爛たる舞台とストラヴィンスキーの色彩豊かな音楽によって、
パリ楽界を魅了し、圧倒的な成功をおさめた。

夜の闇をさまよっていた王子イワンは、銀色のリンゴの木に
実っている黄金の実をついばんでいる火の鳥を捕らえた。
火の鳥は光り輝く羽根を1枚抜いて王子に与え許しを乞う。
王子は火の鳥を放してやった。
やがて夜も白みかけ、古城が見えてきた。
13人の美しい乙女たちがやってきて、リンゴの木を揺さぶり、
黄金の実で遊んでいるところにイワンが現れ、
一番美しい乙女が彼にリンゴの実を贈った。
夜があけると、その城は魔王カスチェイの住み家であることがわかった。
カスチェイが怪物どもを従えて登場し、イワンを魔法に
かけようとするが、王子の手にしている羽根のために効き目がない。
そこへ火の鳥が飛んできて、カスチェイの不死の生命が
秘められている卵を王子に教えた。
イワンがこれを地べたたたきつけると、カスチェイと怪物どもは滅び、
魔の城も消え失せ乙女たちは救われた。
イワンはそのうちの最も美しい乙女(実は王女)とめでたく結ばれる。




《 農民の悲劇 》

【 バレエ音楽「ペトルーシュカ」】

 二十世紀前半のクラシック音楽界を、常にリードした
ストラヴィンスキーは、ディアギレフが主宰する
ロシア・バレエ団のために作曲した「火の鳥」で、
パリ・オペラ座での公演が大成功をおさめた。
そして第2弾として書かれたのが「ペトルーシュカ」である。

舞台は1830年ごろ、ロシアのニコライ一世の統治下にあった、
セント・ペテルブルクの市街にある人形芝居小屋、
賑やかな謝肉祭の真っ最中。

第1場 謝肉祭の市場          
第2場 ペトルーシュカの部屋      
第3場 ムーア人(くろんぼの人形)の部屋
第4場 謝肉祭の市場(夕方)      
ペトルーシュカの死   

このバレエは、人形のペトルーシュカの悲劇を主題とした作品で、
全4場からなり、副題は「4場の道化大場面」とつけられている。

人形使いが3つの人形(ペトリューシュカ、ムーア人バレリーナ)に
命を吹き込むと、それぞれ生き物となって、動き出す。
そのうち、ペトリューシュカとムーア人がバレリーナに恋をし、
2つの人形は奪い合うが、最後にはムーア人に
ペトリューシュカは殺される。

人形使いは、これはただの人形だと観客に説明するが、
ペトリューシュカはの幽霊が現れると、人形使いは
恐ろしくなって逃げ出してしまう。

ペーターの愛称で呼ばれるペトリューシュカは、ロシア農民に
よくある名前で、かなわぬ恋をして惨めに死んでいくピエロ的な
役で、この時代のロシア農民を象徴させたものと思われる。。

ストラヴィンスキーはこうしたストーリーを、多くの打楽器や
チェレスタなどを使い、当時としては非常に斬新な
オーケストレーションによって書き上げた。

中にはたくさんのロシアの民謡のメロディも織り込まれ、
それが親しみやすさとなっている。

1911年6月13日、パリのシャトレ座で初演されたが、
「火の鳥」ほどの成功と評判ではなかった。
しかし、まもなく聴衆の大きな支持を得て、ストラヴィンスキーの
作曲者としての地位は一層しっかりとしたものとなった。




《 現代音楽の古典 》

【 バレエ音楽「春の祭典」】

一つの音楽作品の上演が、社会的なセンセーショナルあるいは
スキャンダルを引き起こすという例は、それ程多くはないだろう。

野性的で生命そのもののようなリズムのめまぐるしい交錯、
原色的な色彩感、荒々しい不協和音の咆哮(ほうこう)といった
特長があげられ、粗野で下品でグロテスクな音楽とうつるかもしれない。

音楽史上の重要な事件は、1913年5月29日の夜に、パリの
シャンゼリゼー劇場でこの「春の祭典」が初演されたときに起った。
劇場にまき起った騒動は、この作品がもつ大胆な独創性と
衝撃力が、いかに凄まじく、人々が安心して座っていた基盤を
揺さぶりくつがえしてしまったか・・・

「現代音楽とよばれている芸術がいつから始まったのかという
事実関係を、はっきりさせようとする人々が言及する、原点の
一つになっているこの作品自体が一つの宣言である」
これはブレーズの言葉だ。

ストラヴィンスキーはある日、突然幻影をみた。
「私は幻影の中で、円になって座っている長老たちが
1人の乙女が死ぬまで踊り続けるのを見守っている、
異教徒たちの祭典を見た。
異教徒たちは、春の神の心を和らげるために
乙女をいけにえにしていたのだ。
そのことを、友人の画家レエリッヒに話すと、その霊感を
創作することを、そしてもう1人の友人、ディアキレフも、
バレエ曲として幻影の音楽化を勧めてくれた。

曲は2部に分かれ、小曲で構成され、切れ目なく演奏される。
第1部「大地への讃歌」 8曲 
第2部「いけにえの祭り」 6曲




《 アンセルメ 》

【 バレエ組曲「プルチネルラ」】

アンセルメ,エルネスト 〔スイス〕
(1883.11.11〜1969.02.20) 86歳

スイスの指揮者、数学者のアンセルメは、1883年の
11月11日にレマン湖の町のヴヴェイで生まれた。
父は幾何学の学者で、アンセルメも数学を学び
大学教授となったが、音楽の勉強もしていた。

1910年に指揮者としてデビューし、音楽の道に転向した。
数年後、ストラヴィンスキーと出会い、ディアギレフに紹介した
ことから、ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の指揮者となった。

プロコフィエフやファリャなどの作品の初演を指揮したが、
ストラヴィンスキーの数多くの作品も初演していて、
その中には「プルチネルラ」も含まれる。

アンセルメは、スイス・ロマンド管弦楽団に
半世紀にわたって君臨した。

バレエ音楽の「プルチネルラ」は、1919年から1920年にかけて
作曲したが、1922年ごろオーケストラのための組曲に編曲した。

               1、Sonfonia       
               2、Serenata       
               3、Scherzino       
               4、Tarantella        
               5、Gavotta con due variazione
               6、vivo         
               7、Minuetto       




《 代表的なバレエ音楽 》

【 バレエ組曲「オルフェウス」】

ストラヴィンスキーは、二度の大戦で居住地を変えたが、
作風も大きく変わった。

第一次大戦では、戦火を逃れて母国ロシアを捨て、スイスに移住した。

さらに終戦後は、演奏の場を求めてフランスへ移り、
そこで、画家のピカソや作家のコクトーとの交流を深めたが、
この時期の作風は革新的なものから、古典的な手法に変わった。
指揮者としても活躍し、1959年に初来日している。

1939年にストラヴィンスキーは、母と妻と娘を相次いで病で失った。
第二次世界大戦の戦火をさけ、1940年にハーバード大学の
招きもあり、単身アメリカに移住した。
翌年に再婚し、二人で新たな人生を歩き始めた。

1947年に書いた「オルフェウス」は、渡米後に作曲した
作品の中でも代表的なバレエ音楽で、ギリシャ悲劇
「オルフェオとエウリディーチェ」の物語りにより
全3場からなっている。

第1場 オルフェウスー舞踏曲ー死の天使の踊りー間奏曲
第2場 怒りの踊りー舞踏曲(オルフェウスの踊り)ー 
         間奏曲ーパ・ド・ドゥー間奏曲ーパ・ダクシオ      
第3場 オルフェウスのアポセシオン         




《 天才を発見する天才 》

 【 交響的幻想曲「花火」作品4 】

ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフが死ぬまで
彼の薫陶を受けた。
出世作となった「花火」は26歳のときの作品で、
完成後すぐにリムスキー=コルサコフに楽譜を送ったが、
息を引き取った後だった。

楽譜は「受取人死去のため」と付箋がついて、
ストラヴィンスキーの手もとに戻ってきた。

その年にペテルブルグで初演されたときに、
たまたまディアギレフが聴いていて、その才能を激賞し、
彼の委嘱で「火の鳥」を書くことになった。

ディアギレフ,セルゲイ・パヴロヴィチ〔露〕
(1872.03.19〜1929.08.19) 57歳  

舞踊興業師・マネージャーとして活躍したディアギレフは、
貴族の家庭に生まれ26歳のときに友人たちと
雑誌「芸術世界」を刊行した。
オペラやバレエに興味をもち、パリで監督として圧倒的な
評価を受け、ロシア芸術紹介に自信をもった。

ディアギレフのロシア・バレエ団の歴史的なパリ公演は
37歳のときで、それから20年後の最後のロンドン公演の
一ヶ月後の8月19日、ヴェネツィアで57年の生涯を閉じた。

フォーキン、ニジンスキーなど有能な振付師を揃え、
音楽はストラヴィンスキー、ファリャ、ヒンデミットなど、
美術にはピカソ、マティス、ユトリロなど、天才たちの力を
フルに活用したのだった。




《 話題を呼ぶ男 》

【 弦楽四重奏のための三小品 】

ストラヴィンスキーの初期の原始主義から
「新古典主義時代」へと移っていく中間の客観主義や、
ジャズへの関心を示した新しい方向への過渡期の作品として
あげられるのがこの弦楽四重奏のための三小品である。

1914年、フランスのサルヴァン山中で短時日の間に
書き上げられたが、この曲は、その後の大きな作品の
下準備として書かれている。
      
第1楽章は、印象的なロシア民謡の旋律で始まり、
素朴な民謡調をねらった楽章。

第2楽章の楽想は、後の「結婚」「兵士の話」
「ピアノ・ラグ・ミュージック」の中心的な
前触れとなっていて、 無調的な音の配列をみせている。

第3楽章は「グランド・コラール」を思わすような
不協和なコラールである。