ワーグナー,リヒャルト  〔ドイツ〕
(1813.05.22 〜 1883.02.13) 69歳 (心臓障害)

              【 楽劇「ニュールンベルクの名歌手」】
              【 楽劇「ニーベルングの指環」】
              【 歌劇「ローエングリン」】
              【 楽劇「パルジファル」】
              【 歌劇「タンホイザー」序曲 】
              【 序曲「ファウスト」】
              【 「ジークフリート牧歌」】

                 その他の曲はこちら





 《 幸福な死 》

【 楽劇「ニュルンベルクの名歌手」より第1幕への前奏曲 】

 57歳でリストの娘のコジマと再婚したヴァーグナーの最期は、
 心臓の障害だったようだが「ヴェネツィアに療養中幸福に死んだ」
 と書かれている。
 ヴァーグナーは少年時代、文学、特に演劇を好み、脚本の創作などを
 していたが、14歳のときににベートーベンの作品を聴いて非常に
 感銘をうけ、音楽の勉強に志した。

 彼は、一生の仕事として文学、音楽、舞踊の3芸術の統合された“楽劇”を
 作ることに努力し、さまざまな苦難と戦いながら遂にこれらを完成した。

 ヴァ−グナ−自身の台本による、3幕の喜劇的要素をもつ
 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、日本では
 「ニュルンベルクの名歌手」と訳されているが、名人の歌手という
 意味ではなく、本職を別にもっていて歌が上手い人で、その頃職人の
 親方は、歌の道でもすぐれていることが条件となっていたようだ。

 演奏会のアンコールなどでよく取上げられる第1幕の前奏曲の始まりは、
 全管弦楽が力強く堂々と奏し、覚えやすい旋律である。




《 ルードヴィヒ二世 》

【 楽劇「ニーベルングの指環」より「ジークフリート」】

 序夜  楽劇「ラインの黄金」 
 第1日 楽劇「ワルキューレ」 
 第2日 楽劇「ジークフリート」
 第3日 楽劇「神々のたそがれ」

 ワーグナーは「3日と1晩の序夜のための舞台祝典劇」と書いているが、
 「ジークフリート」だけでも4時間くらいかかる大作だ。
 「ジークフリート」は、3幕9場からなり全体を通じて最も英雄的で力強く、
 しかも牧歌的な美しさと管弦楽の豊かな色彩とを加え、
 ワーグナーの天才はこの作品に遺憾なく発揮されている。
 
 楽劇「ニーベルングの指環」の初演は、4日間にわたって
 バイロイト祝祭劇場で、ワーグナー自身の指揮と演出によって、
 この劇場の落成記念としておこなわれた。

 当時、バイエルンの王ルードヴィヒ二世が皇太子時代の16歳のころ、
 ワーグナーの「ローエングリン」や「タンホイザー」を観て
 感動に打ち震えたと言われ、18歳で国王に即位した後、
ワーグナーは謁見した。

 ワーグナーは、借金を負ったまま国外に逃亡したり、
 負債のために刑務所に入ったこともある。
 そのころも窮乏した生活の中、行方不明になっていたが、発見されると
 ルードヴィヒ二世は、ワーグナーの債務を精算し、住まいを与え、
 作曲に集中できる環境を整えた。

 若き国王のワーグナーへの入れ込みようは病的なほどだったと言われ、
 ワーグナーの作品を上演するための祝祭劇場は、
 国王などの援助により完成した。

 ルードヴィヒ二世は22歳のとき、幽閉先の湖畔で入水自殺をし、
 短い生涯を終えている。

 


 《 ロマン的オペラ 》

【 歌劇「ローエングリン」】

 ワーグナーが「タンホイザー」に続いて作曲した「ローエングリン」は、
 彼自身が「3幕からなるロマン的オペラ」と呼んでいる。

 作曲者自身の台本で、世界初演は1850年ワイマール宮廷劇場で、
 リストの総指揮のもとに上演された。
 日本初演は1942年歌舞伎座で、藤原歌劇団によって行われている。

 この歌劇から、ワーグナーは序曲形式を排して、前奏曲を
 採用するようになった。
 第1幕の前奏曲は、 「グラールの聖杯」の動機を中心とする曲だが、
 聖杯とは十字架上のキリストの血を受けたと称する器で、
 モンサルヴァートの塔に秘蔵されていて、一生を捧げた騎士たちによって
 守護されていたといわれるものである。

 時代は十世紀、場所はアントワープ付近。
 ドイツや北欧の伝説をもとに、実在のハインリヒ王を加え、
 巧みにまとめられたもので、世界的に最も広く親しまれている。

 前奏曲はじめ劇中にも有名な歌や音楽があるが、中でも第3幕、
 第1場で歌われる「結婚行進曲」は、メンデルスゾーンの
 「結婚行進曲」とならんで、誰でも知っているあまりにも有名な曲である。



《 父から息子へと 》

【 楽劇「パルジファル」】

 ワーグナーは、一生の仕事として文学、音楽、舞踊の3芸術の
 統合された“ 楽劇”を完成させた。

 彼は32歳のころ、ドイツの古い伝説を研究していたが、
 その後「パルジファル」の物語に興味をもち、台本に作ることを決意した。
 だが、その草案が出来たのは61歳のときだった。

 バイエルン国王ルードヴィヒ二世の勧めもあって、この台本が
 完成したときは64歳になっていた。

 作曲はまもなく着手したが、病気になったりしたために、療養地の
 パレルモで全体が完成したのは、亡くなる1年前のことだった。

 十字架上のキリストの血を受けたと称する器「グラールの聖杯」を祀る
 光輝にみちた寺院のあるモンサルヴァート国を統治していたのが
 パルジファルであるが、その聖杯は、一生を捧げた騎士たちによって
 守られていて、聖杯守護の騎士の1人である息子が、
 歌劇「ローエングリン」に登場する。
 ワーグナーは、この楽劇を作るにあたり、主として
 3つの物語から暗示をうけていた。

 完成した「パルジファル」は、その年の夏に初演され好評を得たが、
 病弱となったワーグナーは秋に57歳のときに正式に結婚をした
 妻コジマ(リストの次女)と、子どもたちと共に
 ヴェネツィアに滞在し、療養をしていた。
 コジマはワーグナーの助手だった名指揮者であり名ピアニストの
 ビューローと離婚している

 その地で、義父のリストよりも2年年下のワーグナーは、
 リストが亡くなる3年前の2月13日、69歳で心臓障害のため急逝した。
 遺体はバイロイトに移され、私邸の庭に葬られた。

 その時14歳だった息子のジークフリートは、後に父ワーグナー音楽の
 指揮者兼作曲家となっている。




 《 ドイツオペラ 》
 

【 歌劇「タンホイザー」序曲 】

 1813年はワーグナーがドイツのライプチヒで、
 イタリアのロンコーレでヴェルディが生まれている。
 後に、ワーグナーはドイツオペラを、ヴェルディはイタリアオペラの
 作品を書き、後世に大きな影響を与えた。

 この歌劇の原題は「タンホイザーおよびヴェルトブルクの歌合戦」で
 「3幕からなるロマン的なオペラ」という副題がついている。

 中世の伝説に基づき、ワーグナー自身がで台本を作り総譜は、
 1845年に完成されドレスデンで上演されたが、
 後にワーグナーによって変更された。
 そして、その後にもパリでの公演の際、当時のパリの趣味に従い、
 バレエの場面を取り入れたので、ドレスデン版とパリ版の
 2種の台本がある。

 13世紀初頭のアイゼナッハのワルトブルク城を背景に、
 ミンネゼンガー(吟遊詩人)のタンホイザーは、
 彼を愛する城主の娘のエリザベートと清い愛情を交わしているにも
 かかわらず、官能の愛を求め妖艶なヴァーヌスの虜になる。
 タンホイザーの精神的葛藤を浮きぼりにし、霊と肉との
 激しい闘争を描いた作品である。

 「音楽は女性であり、詩は男性であり、両者の結婚のよってはじめて
 芸術がなりたつ。女性は男性の意志を受け入れ、これを豊かにする。
 すなわち音楽は詩の意図を尊重し、これに奉仕すべきであって、
 自ら規定的に働きかけることはできない。」 ワーグナーの芸術論より




《 独立した序曲 》

【 序曲「ファウスト」】

 ワーグナーは、警察関係の書記をしていた父とパン職匠の娘だった母との
 間の第9子として、1813年5月22日にライプチヒで生まれた。

 彼が6ヶ月のときに父は亡くなり、母はかねてから
 親交のあった俳優と再婚した。
 後にワーグナーの父親は、この継父ではないかともいわれたが、
 ワーグナー自身も分からなかった。

 序曲「ファウスト」は、歌劇とも演劇とも関係のない独立した序曲である。
 ワーグナーは、ゲーテの「ファウスト」による交響曲を作ろうとして、
 その第1楽章のつもりでこれを書いたが、
 後にこれを独立の序曲としたのだった。

 ここに描かれたのは、孤独のファウストであり、失意のファウストであり・・・
 この作曲当時のワーグナー自身もまた孤独の人、失意の人だった。

 この序曲は、懐疑と苦悩の詩であり、ワーグナーの作品中でも
 自伝的な内容をもつものである。
 
 楽譜の初めにゲーテの「ファウスト」第1部の書斎の場でファウストが
 メフィストフェレスに向かって言う次の言葉が主題句として引用してある。

 「私の心に住む神は、私の思いの深底を振るい立たせることができ、
 私の全ての力の上に君臨するけれど、その神は外界に向かっては
 何物をも動かすことができない。だから、私にとっては生は重荷であり、
 死は願わしく、生は厭わしい」。




《 父と息子 》

【「ジークフリート牧歌」】

 管弦楽の「ジークフリート牧歌」は、楽劇「ニーベリングの指輪」の
 第2日「ジークフリート」とは直接の関係はなく、ワーグナーの長男の
 ジークフリート(後に作曲者・指揮者となりバイロイトの
 ワーグナー祭を主宰した)の名から採っている。

 ワーグナーは、彼の助手だった名指揮者であり名ピアニストであった
 ビューローの妻コジマ(リストの次女)と熱烈な恋に陥った。
 コジマは夫と別居し、ワーグナーと同棲した。
 二人の女児を生んだ後生まれた長男がジークフリートで、
 ワーグナーは56歳の父親だった。

 コジマは、その翌年ビューローとは正式に離婚し、
 ワーグナーと正式に結婚している。
 「ジークフリート牧歌」は、コジマの誕生日(12月25日)の
 妻への贈り物としてつくられた小品で、非常にうつくしく、楽しく、
 愛らしく、家庭的な喜びを感じさせる彼の傑作の一つである。

 その年のコジマの誕生日のクリスマスは日曜日。
 その日の朝、コジマが目覚める前に楽人たちは演奏の準備に取りかかった。
 コジマに内緒で、ひそかに練習をしていた15人の楽人がコジマの寝室の
 傍の階段の上から下までスタンバイした7時30分に演奏は始まった。

 その瞬間まで何も知らずに寝ていたコジマ夫人の
 驚きと喜びはいうまでもなかった。
 子どもたちはこの曲を「はしご段の音楽」と呼んだ。
 義父のリストよりも2年年下のワーグナーは、リストの亡くなる3年前、
 69歳のとき心臓障害で急逝している。
ジークフリートは13歳で父親と別れた。
 
コジマは、ワーグナーの良きアシスタントだったが、彼の死後も
 その遺志を継いでバイロイト音楽祭を続け、今日の隆盛の基礎を築いた。
 その功により、1909年にベルリン大学より名誉博士号を贈られている。