《 秋の夜半 》
【 歌劇「魔弾の射手」】
ロマン派初期の作曲家・指揮者・ピアニストのウェーバーは
近年まで誕生日は12月18日とされていたが、現在は洗礼の記録
その他により、ちょうど1ヶ月前の11月18日が正確な月日とされている。
幼少時代、座骨を患い4歳になるまで歩行ができなかった。
ウェーバー家は貴族の家柄で、父親は男爵の爵位を持っていた。
1人、兄のフリードリンがいたが、彼は襲爵しなかった。
モーツァルトの妻は、フリードリンの娘コンスタンツェである。
軍人、音楽家、役人として不安定な生涯を送っていたウェーバーの父の
夢はモーツアルトの父のように息子たちを神童に仕上げることだった。
最初の結婚で生まれた2人の息子には、期待した成果は得られなかったが、
50歳を過ぎてからの再婚で生まれた息子によって、年来の夢は達成した。
父親は劇場の舞台監督兼楽長のような仕事をしていたので、
ウェーバーも一緒に各地を転々としながら父から音楽教育を受けた。
13歳でオペラの処女作を作曲し、ピアノ奏者としても活躍した。
彼は天才にはつきものの、現状には満足できない理想主義、若さ、
投機的な父の思惑についていけず、不安定な生活を送ったが、
ドレスデン歌劇場の指揮者に迎えられた31歳のとき、
オペラ歌手のカロリーネと結婚した。
しかし、二人の生活は豊かなものではなかった。
ウェーバーの晩年は、胸と喉頭の結核に冒されて、医師から静養を
命じられていたものの、長年貧乏を味わってきた彼の家族に対する
思いやりから、無理を承知でロンドンでの演奏会の指揮をし、
その後病状は悪化、異郷で不帰の客となり39年の生涯を閉じた。
遺骸は18年後に息子マックスに守られ、彼の芸術的な意志を継いだ
ワーグナーの力添えで、祖国に永遠の安らぎを得ることができた。
ウェーバーは、なによりも先ずオペラの作曲家で、幼少のころからの
体験が、彼をそう運命づけた。
長年の放浪によって自国、他国の様々のオペラの様式を体得し、
その時代の風潮であったロマン主義に身を染め、またドイツの
ロマン的な自然と民族芸術に深く接触することができた。
代表作のオペラ「魔弾の射手」は、第3幕(それぞれ第6場)
からなりウェーバー35歳のときの作品である。
1821年6月18日(ウォーターローの戦いの記念日)に、
ベルリン王立劇場で初演され、上演記録を出すほどの大成功だった。
そして彼は「魔弾の射手」を代表作として、ドイツ国民オペラを確立し、
創始者となったと同時にロマン派オペラの先駆者となり、
ワーグナーにいたるドイツ国民歌劇の道を準備した。
「魔弾の射手」は、狩人たちの生活の場であり、
生活の源であったボヘミアの森に囲まれた農村を舞台とした、
アガーテとマックスの物語りである。
ドイツでは讃美歌にも採られ、ひろく親しまれている序曲は、
数多い歌劇の序曲の中でも最も有名なものでこれだけが独立して
演奏されることも多い。
わが国では「秋の夜半の み空澄みて 月の光 清く白く」と歌われる、
佐々木信綱作詞の「秋の夜半」が有名である。
田園的な狩の気分の間奏曲で始まる第3幕の「狩人の合唱」は
合唱曲として、多くの人に親しまれている。
《 最後のオペラ 》
【 歌劇「オベロン」】
「オベロン」(妖精の王の誓い)は、39歳の作品で初演の後、
ウェーバー自身が「私の生涯のうちで最も素晴らしい成功だ。
この勝利の感動は筆舌に尽くし難い」と妻に宛てて書いている。
しかしこの初演後、2ヶ月足らずの6月6日にロンドンで、
不帰の客となってしまった。
「オベロン」はその後、歌劇として通して上演されることは
次第に少なくなり、序曲だけがさかんに演奏されるようになった。
ロマン的な歌劇の筋や内容を暗示するような、妖精たちの
不思議な世界や熱烈な愛などが如実に描かれ、さらに優れた描写的な
手法で、暴風雨や難破の様子などが極めて巧みにしめされている
《 序曲の傑作 》
【 歌劇「オイリアンテ」作品81 】
1823年10月25日にウィーンで初演された「オイリアンテ」 は、
現在では全編が上演されることは少なく、序曲が単独で
演奏されることが多い。
十三世紀のフランスの伝記「ジェラール・ド・ヌエルとその愛人の
美しき貞淑なるオイリアンテ」に基づいて作られた歌劇で、
序曲は古今の歌劇の序曲中の傑作の一つに数えられる。
この序曲は、歌劇の物語と密接に関係していて、華麗で輝かしい
響きをもって、中世紀の騎士の世界の雰囲気を描き出している。
《 旅の途中で 》
【 ピアノ協奏曲 第2番 変ホ長調 作品32 】
ピアノ奏者としても活躍したウェーバーは、
生涯を旅に生きた作曲家だった。
「ピアノ協奏曲 第2番 」は3楽章からなり、仕事探しの旅の途中
訪れたミュンヘンで第3楽章が書かれ、その後、
プラハ、ライプチヒ、ベルリンを経て、1812年の秋から冬にかけて
ドイツ中部のゴータで、第1楽章と第2楽章を書いて完成させ、
その年の12月17日に初演された。
このように、複数の楽章をもつ作品を書く場合、
後の楽章から書き始めるのがウェーバーの習慣だった。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Adagio
第3楽章 Rondo: Presto
《 単一楽章 》
【 ピアノ小協奏曲 ヘ短調 作品79 】
ウェーバーはなによりも先ず、オペラの作曲家だったが、
他にもドイツの国民的感情を力強く表した歌曲やクラリネットのための
作品、標題音楽の萌芽となった「舞踏への勧誘」など、
多くのピアノ曲も作曲した。
豊満な劇的効果と、華麗で多様な色彩美を発揮する声楽、
器楽曲は、ロマン主義音楽の暁の鐘であり、後の多くの
ロマン派の作曲家たちに新しい道を暗示した。
ピアノ奏者としても活躍したが、彼はピアノ協奏曲を
3曲残している。
ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品11
ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調 作品32
ピアノ小協奏曲第3番 ヘ短調 作品79
第3番の「ピアノと管弦楽のためのコンチェルトシュトゥック」は、
標題をもち、楽章間の切れ目のない小規模の協奏曲で
演奏される機会が多い。
4つの部分からなるが、単一楽章の構成になっている。
シュポーアの影響といわれているが、成功作としては、
この協奏曲が最初のものとされている。
ウェーバーの創作の最も脂ののった29歳のころ
プランが立てられ、6年後の1821年に完成した。
その年の6月28日、ベルリンで開かれたウェーバーの
演奏会で初演された。
第1部 Larghetto ma non troppo
第2部 Allegro passionato
第3部 Tempo di Marcia
第4部 Assai presto
明記された標題はないが、中世の姫君と騎士の
別離〜悲歌〜苦悩〜慰安〜再会〜歓喜を描いている。
《 親友のために 》
【 クラリネット・コンチェルティーノ 作品26 ハ短調 】
ウェーバーは、柔らかな甘い音色で表現力に富んでいる
クラリネットを独奏曲とする曲をいくつか書いているが、
これらはどれも優れたクラリネット奏者ベールマンのために作曲した。
ベールマン(1784〜1847)は、ポツダムに生まれ、ベルリンの
軍楽隊に所属し、後にミュンヘンの宮廷管弦楽団に移った人で、
ウェーバーばかりでなく、マイヤベーアやメンデルスゾーンをも
驚嘆させ、彼のためにクラリネットの曲を書いている。
ベールマンとウェーバーは、ミュンヘンで知り合い、親友の交わりをもった。
美しい音色、優れた技巧、深い感受性の持ち主のベールマンの
ために書いた、クラリネット・コンチェルティーノ(小協奏曲)は、
1811年に宮廷管弦楽団で発表したが、この曲を聴いた
バイエルン国王のマキシミリアンは、深く感動し、直ちに
クラリネットのための協奏曲を2曲書くことをウェーバーに命じ、
その年に「ヘ短調 作品73」と、「変ホ長調 作品74」の2曲が生まれた。
「小協奏曲 ニ短調 作品26」は3楽章からなる。
第1楽章 Adagio ma non troppo
第2楽章 Andante(主題と4つの変奏)
第3楽章 Allegro(ロンド風))
柔らかな、甘い音色で表現力に富んでいるクラリネットの響きは、
心を和ませてくれる。。
《 クラリネットの響き 》
【 クラリネット協奏曲 第1番 ヘ短調 作品73 】
「第1番 ヘ短調作品73」は、古今のクラリネット協奏曲の中でも、
光った存在で、最も有名で演奏される機会が多い。
1811年6月13日に、ベールマンのクラリネット独奏と、
ウェーバーの指揮によりミュンヘンで初演された。
ウェーバーは、指揮棒を使って指揮をした最初の1人で、
近代指揮法の発達に寄与している。
第1楽章 Allgro
第2楽章 Adagio ma non troppo
第3楽章 Allegretto
《 標題音楽 》
【「舞踏への勧誘」作品65 】
ウェーバーは多くのピアノ曲も作曲しているが、愛妻のカロリーネに
捧げられた「舞踏への勧誘」は、後にベルリオーズによって
管弦楽用に編曲され、親しまれている。
「舞踏への勧誘」は、1911年4月19日にバレエ「薔薇の精」として、
ニジンスキーが薔薇の精を演じてモンテカルロで初演された。
彼の超人的な跳躍力は有名で「薔薇の精」のラストに窓枠を
飛び越えるシーンでは、そのまま空に飛び立っていったのかと
錯角を覚えさせるほどだったといわれる。
ニジンスキー,ヴァスラフ 〔露〕
(1890.02.28〜1950.04.11) 60歳
ニジンスキーの生年月日は、標準音楽辞典によるものだが、
(1890.3.12〜1950.04.08)とされているものもある。
今世紀最大の天才バレエ・ダンサーであり、伝説的存在である
ニジンスキーは、ポーランド人の両親のもと、キエフで生まれた。
10歳からペテルブルグ帝室舞踊学校で学び、後に
セルゲイ・ディアギレフの前衛的バレエ団「バレエ・リュス」で活躍し、
圧倒的な人気を得たが、10年後には精神異常のため引退した。
その後30数年間精神病院を転々とし、1950年4月11日、
スイスで60年の生涯を閉じた。
《 管弦楽的 》
【 ピアノ・ソナタ 第2番 変イ長調 作品39 】
ウェーバーは、ピアノ・ソナタは4つ残している。
それらは、劇的な迫力にみち、管弦楽的な色彩に富み、
外面的にはきわめて華美である。
ソナタの形の幻想曲のようで、小細工なく、自然のままで、
民族的で、律動は明解で、ときには情熱的、推進的でもあり、
和声は似通った筆法のところが多いが、色彩的に豊かで
全体にロマン的な情熱にあふれている。
「ピアノ・ソナタ 第2番」は、ウェーバーが、プラハの国立歌劇場の
指揮者をしていた最後の年の1816年に作曲した。
このころ彼は恋愛中のためか、陽気で楽しいものや、
劇的で人をひきつける作品が多い。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Andante
第3楽章 Presto assai
第4楽章 Rondo: Moderato e molto grazioso