Chopin
   ショパン, フレデリック・フランソア 〔ポーランド〕
(1810.03.01 〜 1849.10.17) 39歳 ( 結核)

         【 ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 】
         【 ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21 】
         【 アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品 22 】
         【 バレエ音楽「レ・シルフィード 】
         【 チェロ・ソナタ ト短調 作品65 】
         【 マズルカ 第6番 イ短調 作品7の2 】
         【 ノクターン 第2番 変ホ長調 作品9の2 】
         【 ノクターン 第5番 嬰ヘ長調 作品15の2 】
         【 バラード第1番ト短調作品23 】
         【 ピアノソナタ 第2番 変ロ短調 作品35 】
         【 スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31 】
         【 子守歌 変ニ長調 作品57 】
         【 ワルツ 変ニ長調 作品64-1 】
         【 別れのワルツ 作品69-1 】






  《 ピアノの詩人 》

【 ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 】

 「ピアノの詩人」と呼ばれたショパンは、1810年3月1日に
ポーランドの首都ワルシャワ近郊のスカルベック伯爵夫人の
所有地であるジェラゾーヴァ・ヴォラで生まれた。

フランス人の父が、伯爵家のフランス語の家庭教師として
住み込んでいたためである。
母は伯爵夫人の遠縁にあたり、古いポーランドの貴族出で、
家政婦として働いていた。

2人の間には、4人の子どもが生まれたが、ショパンは
姉と妹2人の間の長男だった。
父はその後伯爵家を出て、学校のフランス語教師として一生を終えた。


ショパンが生まれた翌年、リストは生まれている。
二人とも、ピアノ協奏曲は2曲のみ。
どちらも、最初に作曲したのは「第2番」

リストの第1番は、円熟期の作品で3度改定されている。
20歳のころのショパンの作品は古典的。
45歳のころのリストの作品は革命的。
ショパンは39歳でこの世を去ったが、リストは74歳。

ショパンはピアノ協奏曲を2曲書いた。
「第1番ホ短調」は1830年に作曲したが、
出版されたのは1833年だった。
「第2番ヘ短調」は前年の作曲だが、出版が
1836年だったため、番号が逆になってしまった。

この2曲は、青年時代を過ごした故国ポーランドで創作したものだが、
後年の円熟期の作品にみられる内容の深さと、作曲技巧の変化や
完璧性に乏しく、後に管弦楽のパートに手を加えられたりもした。

しかし、最初のほうがピアノパートをよりよく生かすため、
元のままで演奏されることが通例になっている。

第1番は、ポーランドを去り、パリに居を移す直前に
作曲されたもので、10月11日にワルシャワで
開催されたショパンの告別演奏会で、
彼自身のピアノソロで初演された。

モーツアルトが確立した古典協奏曲の第1楽章形式を
追う第1楽章、ノクターン風の性格を持った優雅な
音楽の第2楽章、溌剌とした、典雅で高貴なロンドの
第3楽章はモーツアルトの再来を思わせる。

               第1楽章 Allegro maestoso 
               第2楽章 Romanze: Larghetto
               第3楽章 Rondo: Vivace  





《 ピアニストとしてのデビュー 》

【 ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21 】

 1830年3月17日は、ショパンがワルシャワで独奏会を開き、
ピアニストとしてデビューした日とされている。

その年、ショパンはワルシャワ音楽学校を卒業し、学友3人とウィーンに
旅行しているが、その折にも演奏会を開き注目された。

ウィーン訪問よりの帰朝第1回演奏会が、デビューの日となり、
作曲者自身がピアノ独奏を担当してピアノ協奏曲第2番を演奏した。
このとき、前売り切符が全部売り切れ、非常な盛況をみせている。

「僕は悲しいかな、僕の理想を発見したようだ。
この半年というもの、毎晩彼女の夢を見るが、まだ彼女に
一言も口をきいていない。あの人のことを思っている間に、
僕は僕の協奏曲のアダージョを書いた」
彼女とは、初恋の女性コンスタンティア・グラドコフスカ。

これは、友人のティトゥス・ウォイチェコフスキー宛ての
手紙にしたためている。
アダージョは、第2楽章のラルゲットにあたる。

コンスタンティアへの思慕がこの曲を作らせたといわれるが、
彼女はワルシャワ音楽学校の同級生で、声楽を勉強していた。
「ピアノ協奏曲へ短調」の情熱的な第2楽章は
初恋の彼女から、創作への霊感を与えられた。

2年後、彼女は地方の豪族に嫁いだが、ショパンが憧れた
星のように輝いていた青い目は、次第に見えなくなってゆき、
ついに失明してしまったといわれる。

ショパンはあまりにも夢想家で、はにかみやの女々しい性格のため、
燃ゆる想いを彼女に直接訴えることができないままに、
彼女の住むワルシャワに居ることが堪えられず、世界遍歴の旅に出、
再び故国に帰ることはなかった。

二人の恋は実ることはなく、この曲はコンスタンティアには
贈られず、1831年に再会した美貌の才女ダルフィーヌ・ポトツカ
伯爵夫人に捧呈された。
歌手で、美しさに加え教養も高い彼女とは、パリの社交界で
知り合い、後年パリで親交を結び、臨終の際にもショパンの
ために歌を歌ったとされる。

ショパンは、ピアノ協奏曲を2曲書いたが、
それらは作曲の年代とは逆に出版されてしまった。
「第1番ホ短調」は、1830年に作られたが1833年に出版され、
「第2番ヘ短調」は1829年に作曲されたが1836年に出版された。

第2番協奏曲は19歳から20歳の作品なので、後年の
円熟期の作品にみられる内容の深さ、作曲技巧の変化や
完璧性に乏しいともいわれるが、青年期特有の情緒の繊細さ、
感覚の新鮮味、表現の絢爛さからは、希有の天分が輝いている。




《 儀式用から舞踏用に 》

【 アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品 22 】

 ポロネーズは、フランスのアンリー三世がポーランドの
王位についた後、貴族たちが行列行進する際の儀式用に、
そしてその後、政治的な舞踏用として使われた。

最初のポロネーズは歌詞つきで作曲されたが、次第に
民族風な表現が行なわれるようになり、気質や愛国心、
任侠の精神まで示した舞踏として隆盛をみたが、
その時代はショパン以前に終わっていた。

壮大さを誇示するような3拍子の独特のリズムのポロネーズを、
ショパンはポーランドの過去の光栄と、現在の悲哀と憤怒と、
未来への憂鬱な予感を現わすことに成功した。

ショパンは20歳のときに祖国を離れ、翌年の秋に
フランスのパリに行った。
大勢の優れた芸術家たちが集まっていたパリで作曲家、
ピアニストとして認められ、人気を博した。

リストやメンデルスゾーン、ベルリオーズなど才能豊かな
仲間たちと出会い、音楽について語り合ったり、
共に演奏会に出演したりする日々を送るようになった。

1831年に完成した「華麗なる大ポロネーズ」は、
ピアノと管弦楽合奏用に作曲した力強い音楽だが、後に
この曲の序奏として、アンダンテ・スピアナートを作曲し、
優雅で華やかな作品として1834年に出版された。

管弦楽伴奏付きに作曲した6曲の作品中最後のもので、
ショパンはそれ以後、全精力をピアノのためだけに
集中する決心をした。




 《 バレエ化 》
 

【 バレエ音楽「レ・シルフィード」 】

 優美な音楽と、幻想的な振付けによる「レ・シルフィード」は、
一定した筋もなく、使われる音楽もまちまちである。
このバレエは1幕で、ただ月光の冴える森の湖畔を舞台に、
シルフィード(風の精)たちが飛び回る姿を中心としている。

ショパンの死の60年後に数人の編曲者によって作られ、
10曲を組み合わせたものである。

             第1曲  前奏曲 第7番 作品28-7         
             第2曲  夜想曲 第10番 作品32-2       
             第3曲  ワルツ 第11番 作品70-1       
             第4曲  マズルカ 第23番 作品33-2      
             第5曲  マズルカ 第44番 作品67-3      
             第6曲  前奏曲 第7番 作品28-7        
             第7曲  ワルツ 第9番 作品69-1「別れのワルツ」
             第8曲  前奏曲 第7番 作品28-7        
             第9曲  ワルツ 第7番 作品64-2        
             第10曲 ワルツ 第1番 作品18「華やかなワルツ」

初演は1909年6月2日にパリのシャトレ座で
「バレエ・リュス」によっての公演だった。



 


《 最後の出版曲 》

【 チェロ・ソナタ ト短調 作品65 】

  ショパンの全作品のほとんどがピアノ曲だが、彼は4曲の
室内楽曲を残している。
「ピアノ三重奏曲ト短調」以外の3曲は、チェロとピアノのために
書かれている。

ワルシャワで「最も尊敬するチェリスト」と言って親しくしていた
ヨゼフ・メルクと、ショパンが死の床に横たわるまで、
深い理解をもって交際したフランスのチェリストのフランコムなど、
身辺に優れたチェロ奏者がいたことが、チェロの作品を
書いた原因のひとつだろうといわれている。

この作品は、他の作曲家による同種の作品に比べると
そのピアノ・パートが技巧的に著しく優れているため
チェロ・ソナタとしての評価はかならずしも高くないが、
ロマン的趣味にあふれた美しい曲である。

1845年から46年にかけて書かれたこの曲は、
フランコムのチェロとショパンのピアノによって非公式に初演され、
彼に捧げられた。
この曲はショパンの最後の出版となった曲である。





 《 2人のピアニスト 》

【 マズルカ 第6番 イ短調 作品7の2 】

 リスト(1811〜1886)は「ピアノの巨匠」
ショパンは「ピアノの詩人」といわれている。

1832年にパリで催されたショパンのデビュー演奏会に、
リストとメンデルスゾーンが訪れている。
楽屋で面会したショパンとリストは、それ以後無二の親友となり、
リストは4年後に有名な女流作歌のジョルジュ・サンドを紹介した。

この2人の芸術家は、全く相反する性格をもっていたが、
お互いの長所を認め合い、良い影響を与えていたようだ。

ショパンが作曲したのは、ほとんどがピアノ曲で、

マズルカ(51曲)   練習曲(27曲)   
前奏曲(26曲)    夜想曲(21曲)   
円舞曲(21)     ポロネーズ(15曲) 
バラード(4曲)    即興曲(4曲)    
スケルツォ(4曲)   ピアノソナタ(3曲) 

その他多くの作品が残されている。
マズルカは、ポーランドの郷土色濃厚な舞曲の一つだが、
彼は気持の向くままに自由奔放に作曲した。
「第6番イ短調」は、マズルカの中でも傑作といわれている。




《 マジョルカ島で 》

 【 マズルカ 第27番 ホ短調 作品41の2 】

 マズルカ作品41は4曲からなり、第27番ホ短調は、
憂鬱な情緒を漂わせていて、ハネカーによると
「涙をもよおさせるほど悲しい」と・・・

友人のリストが紹介して知り合った8歳年上の女流小説家の
ジョルジュ・サンドとの恋愛関係は、27歳のときから9年間
続いたが、彼女の先夫との間の2人の子どもの養育に関して
意見が合わなかったことが原因で別れている。
しかしその間、「ピアノ・ソナタ変ロ短調」など円熟期の
名曲を次々と生み出した。

サンドとの交際が始まった1838年に、結核の療養で
滞在していたマジョルカ島のパルマで作曲している。

彼女のもとを去ったショパンは、再びサンドのもとに帰ることはなかった。




《 夜想曲 》

【 ノクターン 第2番 変ホ長調 作品9の2 】

ローマ時代には、「夜の神」という意味に用いられていた。
英語の「ノクターン=Nocturne」は、フランス語の
「ノクテュルヌ=Nocturne」イタリア語の「ノットゥルノ=Notturno」を
訳した語で、語源はラテン語の「Nox」から派生したものである。

「夜想曲」という音楽形式を創始した作曲家は、
イギリスのジョン・フィールドだといわれている。
彼はアイルランドに生まれたピアニスト、作曲家であり、
その後半生をロシアで暮らした。

ショパンは、全生涯を通じて夜想曲を21曲作ったがどの曲も
優雅な旋律に多くの装飾音を加え、アリアのように歌わせ、
甘美で静かで、そしていくぶん神秘的にさえ感じさせる。

夢想的な曲の夜想曲は、ピアノ曲の一様式名だった。
合奏によるものは、「夕べの音楽」「夜曲」と訳される。
ドビュッシーは管弦楽曲の「夜想曲」を1899年に書いているが、
この曲は、自由な命名によるものである。




《鍵盤の巨匠》

【ノクターン 第5番 嬰ヘ長調 作品15の2】

リヒテル,スヴャトスラフ (露)
(1915.03.20〜1997.08.01) 82歳

二十世紀最後の「巨匠」ピアニストと呼ばれたリヒテルは、
1915年の3月20日ウクライナのジトミルで生まれた。

ピアニスト兼オルガニストの父からピアノを教わり、
15歳ごろから歌劇場で練習時の伴奏ピアニストとして働き、
モスクワ音楽院で本格的に勉強をし始めたのは
22歳になってからだった。
そのとき、名教師のネイハウスは「何も教えることはなかった」
との言葉を残している。

30代に入ってからの遅いデビューは“鉄のカーテンの向こうに
恐ろしいほどのピアニストがいる”と、すぐ西側に伝わったほど
強烈なものだった。
ロシア音楽やドイツ音楽から、哲学的なものと抒情的なものを
導き出し、それを多彩な音色で描き分けて、圧倒的な感銘を与えた。

リヒテルは、演劇、映画、絵画、文学などにも深い造詣を持っていて、
特に絵画の腕前は、印象に残った風景を、後で寸分の狂いもなく
キャンバスに再現できるほどだったといわれている。

心臓発作のためモスクワで亡くなったとき、
『彼は数十年にわたって百万人以上の聴衆を魅了してきた』と
当時のロシア大統領エリツィンが、未亡人へ弔電を打っている。

照明を暗く落としたホールで、ピアノの側にランプを置き、
楽譜を見ながら演奏することでも有名だった。

ショパンのノクターン第5番は、リヒテルが 音楽家になろうと
決心した曲で、父の演奏を聴いて深く感動した
ことからだといわれている。

ショパンの夜想曲中もっとも美しい曲の一つで、
彼の21歳のときの作品である。




《 ショパンのバラード 》

【 バラード 第1番 ト短調 作品23 】

「ピアノの詩人」といわれたショパンは、2つのピアノ協奏曲と
4つのピアノとオーケストラのための作品を残しているが、
大部分がピアノ曲である。

ショパンは4歳のときにピアノの手ほどきをうけ、
12歳からワルシャワ音楽学校校長のエルスナーから学んだが、
この優れた教師は「若い天才を勝手にさせておけ」と、
彼の才能を自由に伸長するよう仕向けたといわれる。
それ以後は誰からも正規なピアノ・レッスンは受けず
作曲に集中した。

自由な形式のバラードは4曲書いているが、
4曲とも3拍子系を使用している。
ポーランドの詩人のミッキエヴィッツの詩を読んだときに受けた
主観的情緒を、曲の中に抽象的に吐露しているが、
「標題音楽」のように事物が写実的に描写されているわけではない。

シューマンは「ショパンの全楽曲中で一番好きな曲は、
第1番のト短調だ」とショパンに言い、ショパンもまた
「私も一番好きな一つです」と答えたという。




《 葬送行進曲つき 》

【 ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35 】

「僕は次第にピアノを弾かなくなるし、なんにも書けない!」

「なよやかな茎の上に青い花をのせた昼顔のようだ。
そのあまりにももろいかすかな花びらは、そっと手に触れるだけでも、
たちまち散ってしまいそうである」
友人のリストが言っているが、虚弱な体質に生まれたショパンの
晩年は、病める日々だった。
パリに移って19年後の8月、結核の病状が悪化したが、
看病をしたのはジョルジュ・サンドではなくて、
姉のルドヴィカだった。
10月17日午前2時に、肺結核と咽頭結核で39年の生涯を閉じた。

マドレーヌ寺院で葬儀が行われ、遺骸は10月30日に
ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
棺の上には、ポーランドの土がまかれ、心臓は遺言通り、
ワルシャワに持ち帰られ、聖十字架協会内に安置された。

ショパンは、ピアノ・ソナタを3曲作曲している。
第1番は18歳のころ、作曲練習用に書いたもので
陽の目をみたのは、死の2年後のことだった。
今日では、滅多に演奏されることはない。

            ピアノ・ソナタ第1番 ハ短調 作品4 (1828年)
            ピアノ・ソナタ第2番 ロ短調 作品35(1839年)
            ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58(1844年)

第2番と第3番は、ショパンの最円熟期のもので、
彼の全作品中傑作とされている。

第2番は、第3楽章に有名な葬送行進曲が用いられていて、
「葬送」または「葬送行進曲つき」の副題がついている。

2曲の作曲の間には、5年の経過があるが、そのときは
ジョルジュ・サンドとの恋愛中で、彼女のノアンの自宅で作られた。
ただ「葬送行進曲」は、1837年に書いていた。
出版されたのは、作曲の翌年の5月のことだった。

             第1楽章 Grave-Doppio movimento 
             第2楽章 Scherzo        
             第3楽章 葬送行進曲 Lent-attacca
             第4楽章 Finare.Presto      

この曲はショパン自身の葬儀でも演奏されたとか・・・




《 ショパンのスケルツォ 》

【スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31】

ショパンはスケルツォを4曲書いた。
スケルツォという言葉は冗談を意味するが、ショパンの曲には
冗談は感じられず、それまでのスケルツォに新しい形式と
内容をもりあげている。

第2番は27歳のときに作曲したが、その前年は一生を通じて
真剣な恋をし、結婚を考えたマリア・ヴォジンスカとの婚約が
破棄され、ジョルジュ・サンドとの出会いがあった年だった。

シューマンは、「このスケルツォの情熱的な性格は以前の
同類を思わせる。非常に魅力ある曲で、優しさと大胆さと、
愛らしさと、憎しみが満ちているので、バイロンの詩と
比較されても不当ではなかろう。このような曲は何人も
楽しませまい」と批評している。

印象的な第1主題の第1楽句で開始されるが、コーダは
素晴らしく力強く、また情熱的で、勝利に輝いて、ショパンの
独創にみちた楽曲は満足すべき終わり方をしている。




《ショパンの子守歌》

【子守歌 変ニ長調 作品57】

ショパンは、子守歌を一曲しか書いてないが、
これはピアノからピアノ独特の驚くべき音の世界を、
空中楼閣のごとく作り上げた希有の作品である。

この曲は、和声的、旋律的に、そして低音部のリズムにおいても、
基礎的に非常に単純である。
その基本和声は、全曲を通じてほとんど全音階的で、
旋律はところどころ対応する対位旋律がそれに加わる
たった一つの簡単な旋律的楽想でしかない。

左手で奏される支配的なリズムは、最初の2小節の序奏で
基礎づけられて、68小節間同じである。
この揺れ動く音型の上に、4小節の基本旋律を静かにおき、
きわめてピアニスティックな16の変奏を間断なく行なうことにより、
驚くべきピアノ音楽の世界を作りだしている。




《小犬のワルツ》

【ワルツ 変ニ長調 作品64-1】

ショパンはワルツ(円舞曲)を21曲作曲しているが、生前に
出版されたものは8曲にすぎなかった。
彼のワルツの作品は2種類に大別されるが、
作品18「華麗な大円舞曲」のように実際の舞踊を
理想化したものと、もう一つは作品69ー1「別れのワルツ」などの
ように、ワルツの形式を借りた叙情詩的、空想的なワルツで、
ワルツのリズムよりもマズルカのリズムに近いものある。

ショパンは、ヨハン・シュトラウスのような、実際の舞踏会向きの
作品は創れなかったが、優美で、高雅なものだった。

「ワルツ 変ニ長調 作品64-1」は「小犬のワルツ」として知られ、
彼のワルツの中では最も短く、かつ最も演奏される機会が多い曲で、
ショパンの在世中公表されたワルツとして最後のものである。

ジョルジュ・サンドが飼っていた小犬が、自分の尻尾を追って
グルグル回る癖があったので、彼女がその様子を音楽にと
勧め作られたとされる。
軽快で滑らかな指先の技巧で、流れるような演奏が求められる。

1847年デルフィーナ・ポトツカ夫人に献呈された。




《別れ》

【別れのワルツ 作品69の1】

1835年9月、ショパンはドイツのカルルスパートに、
当時ポーランドから療養に来ていた両親に会うため、
パリから出かけて行った。
帰途、ドレスデンに立ち寄り、旧知のヴォジンスキー伯爵を訪問した。
伯爵にはマリアという19歳になる娘がいたが、イタリア系の
血をひいた漆黒の髪と、大きな瞳とそして厚ぼったい唇は、
情熱的で魅力的だった。

マリアはピアノも声楽も作曲もよくしたらしい。
ショパンは幼馴染みのマリアが魅力的な乙女に成長した姿に
たちまち心を惹かれ、急速に親しくなり、焼けつくような情熱の
一ヶ月を送り、彼は別れ際にワルツを一曲書いて彼女に贈った。

彼女は、これを後に「別れのワルツ」と名付けたが、
二人の恋愛は結局結ばれずに終わった。
ショパンが一生を通じて真剣な恋をし、そして結婚をしようとまで
思いつめたのは、マリアだけだった。

ショパンは彼の生存中、過去の思い出のためにこの曲を出版せず、
引き出しの底にしまっていた。
自筆の楽譜草稿には「1835年9月、ドレスデンにて」と
書き入れられていた。

この曲は素晴らしく旋律は優雅で、哀愁感を持った
抒情的な作品である。
楽譜が出版されたのはショパンの死の6年後だった。