〔 別れ 〕
 
その日は突然やってきた。
パパはお昼前、東京に居る息子にmailを送っていた。
それが親子の別れのメッセージになるなんて・・・

夕方送られてきた、その返信をみることなく逝ってしまった。
病院で、冷たくなったパパにすがりつき号泣したnaoの
ことを思い出すと、胸が締め付けられる。
半年前から2人は時々、mailを交わしていたものの
7ヶ月ぶりの対面だった。

私のPCの調子が悪くて、mailを送った後2人で修理に
持って行き、帰宅をしたのは5時を過ぎていた。
疲れた様子もなく、夕食の支度に取りかかったので、

(定年後はパパが食事係りだった)
私はお風呂のお湯を入れようとしたとき、
台所で大きな物音が・・・
何か落としたのとはちょっと違う音だった。
「どうしたの?」
パパは流しの前に倒れていた。

「滑ったの?」
返事がない・・・息づかいに異常を感じた。

救急車を呼ばなくてと思うが番号が分からない・・・
知人の家にお電話をし、すぐに来ていただいた。
119番にかけたが、到着が随分と遅く感じられた。
後は、救急隊の方にお任せするしかない。
 
naoに電話をいれたら、丁度出かける前で自宅にいた。
「ダメかもしれない・・・覚悟をして帰ってね」
数時間前に、元気な様子のmailを受け取っているのに・・・
 
救急車がかかりつけの病院に到着したとき、主治医は
待っていてくださり、状態を説明しパパは治療室に運ばれた。

1時間くらいして、主治医から相談があった。
「意識が戻ることはありません・・・どうされますか?」
「先生にお任せします」
「それは困ります」
少し間をおいて、私はお返事をした。
「お世話になりました。よろしくお願いいたします」

私たちは日頃から、延命治療について話し合っていた。
倒れる寸前まで元気で、苦しむこともなく意識を
失ったのだから、そのまま眠らせてあげたいと思った。

平成14年1月10日(木曜日)18時ごろ
パパは心筋梗塞で力尽きた。
翌月2月28日が61歳の誕生日だったのに・・・



 残されたmail

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
10月1日から大村へ行き、看病リハビリ等して
やっと一人で食事風呂トイレ等出来るようになり、
昨日帰宅したところです。
仕事をしない自由な身で、心ゆくまで看病が出来て
満足しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

パパが11月1日に友人に送ったmailが送信簿に残っている。

定年後、再就職をしなかったのは、妹家族と同居している
母親(89歳)のためだった。
だから入院の連絡があって、すぐに駆け付けることができた。
一度、自分の病院の検診日に帰宅したが、それが終わると
またお母さんのもとに急いだ。

結局、1ヶ月近くお母さんと過ごしたことになる。
その間、毎日自分の携帯から私に電話をすることも
忘れなかった。
死の三ヶ月前の出来事だ。

             

      

     (1970年)               (1972年)  


〔 心臓病 〕

パパが心臓の「カテーテル検査」をしたのは、
亡くなる前年の夏のことだった


不整脈があったためだったが、気軽な入院患者だった。
とはいっても、入院前に「カテーテル検査」を検索して
調べたりしていたので、平気だったわけではない。

退院のときに、主治医からきちんとお薬を飲むようにと

言われたときもいやがって、
「死にたかったら飲まなくていいですよ〜」と笑われた。

退院後は主治医の指示通りの真面目な生活だった。
しかし、最期のときは容赦なくやって来た。

「もっと大きな病院で名医にかかっていたら、
こんなことにはならなかったのに・・・」

と、亡くなった後いろいろと言う人もいたが、
私は黙って聞きながした。

決められていた寿命は、あの日までだったのだから・・・
信頼していた主治医に最期を看取っていただいたのだから・・・
あれで良かったのだと思わなくては・・・

私は、一度もパパが苦しむ姿を見ることはなかった。
元気なままで、あっという間に逝ってしまったパパ。
「お上手」としかいいようのない見事な最期だった。