姉からの電話で、彼の死を知った。
昨年、小学校の校長を定年退職した後に送られてきた挨拶状に、
「退職しました」とだけ書き添えられてあった。
それが彼からの最後の便りとなった。

(2003. 10.15)

《 愛ある別れ 》

同じ中学校の教師をしていて知り合った彼との別れは、

突然やってきた。
同じ高校の先輩、後輩の間柄だったが、そのころはお互いの

存在を知らなかった。
しかし、彼のお父さんはその高校の数学教師で、

私のことはご存知だった。

血液型に興味を持っていた2人は、お互いにないものを
求め会っていたのだろう。
A型の彼とO型の私の性格はあまりにも違っていた。
ぶつかり合うことも度々あったが、少しずつ理解し合えるようになり、
真剣に結婚を考えるようになっていった。
2人の気持が固まり、心の準備ができたところで、

彼はお父さんに打ち明けた。

お父さんは、最初に2人のおつき合いの程度をたずねられ、
深いおつき合いではないことを確かめられた上、
「あの娘はしっかりしたいい子だし、お前のパートナーとしては
ふさわしいと思う。

しかし、我が家の嫁としては認めるわけにはいかない」
と言われたと・・・
そして、以前からお父さんは親戚の娘さんを息子の嫁にと
お考えだったことがわかった。

目に涙をうかべてそのことを報告する彼の気持を考えると、
私の心はなぜか冷静になっていた。
私のことを悪く言われることもなく、認めたうえでの裁断に、
「さすがお父さんだ」と感心さえしていた。
誰よりも私のことを大切に思ってくれる彼の気持は充分に分っていたし、
それ以上に旧家の長男として育てられ、家を大切に考えている

彼の立場が分っている私としては、その場で泣き崩れて
「家を捨ててください」とは言えなかった。
涙をこらえて「私をあきらめてほしい」と言うのがやっとだったのだ。

私の結婚後、彼もお父さんが考えてらした娘さんと
家庭を持ったことを伝え聞いた。

教師仲間の義兄や姉を通して、彼のことは時々耳にする。
彼は教育の傍、蝶の研究に余念がないようだ。
2人がおつき合いしていたとき「いつも何か課題を見つけて
勉強していようね」と話し合ったことがある。

現在、私が文章教室で勉強を続けているのも、心のどこかで
彼との約束を守っていたいと思う気持があるからだろう。
蝶を見ると、彼との悲しい別れを思い出すが、あのころの情熱を
いつまでも失わないでいたいと思う。


(これは、私がNHK学園の文章教室で提出したもので、
↓は添削していただいた講評である)

愛さえあれば、というのが通念になったこの頃ですが、
旧家のご長男であればお父様のご判断には

逆らえなかったのでしょう。
また「彼」のお父様も息子の望み通りにしてやれないことで、
苦しまれたかもしれませんね。
今はそれぞれにお幸せでいらっしゃいましょうが、
家と家、といったことで割かれたことはお辛いことでした。
「彼」との約束を守ろうとなさっていることには感銘を受けました。
そうして示される愛も真実であるのだと思います。
人生を共に歩む中で生まれる愛ではないとしましても・・・
いきさつがとてもよく書けておいでで、まとめもよく出来て

良いと思います。

(1986. 12.5)

《 届かなかったハガキ 》


喪中のハガキが届かない。
ネット上の彼の地方の広報紙で確かめたので、
この世に彼の存在がないことは確かなのだ。
彼の死の詳しいことはわからないが・・・

奥さまが、私のことをどこまで知ってらしたのだろう?
毎年、お年賀状は交わしていたが、もしかしたら名簿に
私の名前はないのかもしれない。
姉から聞いてなければ、私は来年の年賀状も出していた。

そのうちに会えると思っていたから、なにもしなかった。
一度会ってお話をしたかったのに・・・
誰よりも私のことを愛してくれた彼だったから・・・

やっとパパとの別れに、気持ちの整理ができかけたところに
追い討ちをかけるような彼の死だった。

(2003. 12.18)

《 CDを聴きながら・・・ 》

パパが買った「GOLDEN BEST/YOSUI INOUE」のCDを聴くと、
なんだか悲しくなってしまうのだが、つい聴いてしまう。

そして、雰囲気がなんとなく似ているNくんのことを
思い出している自分がいる。
パパが亡くなったことは、誰かから耳に入っていると思うのだが・・・

彼と会ったのはいつだったかしら?
私からお電話をかけることはなかった。
お仕事で福岡に来るときにお電話があって、都合がつけば会っていた。

Nくんは高校時代の先輩で、大分県竹田の「滝廉太郎音楽祭」に、
私の伴奏で出場したとき、級友から「まるで新婚旅行みたいね」と
からかわれた。

もちろん高校生なので、引率の先生と3人の旅だったが、
夜、二人でウロウロしたけど、どこを歩いたのかしら?

彼が卒業するまで、二人は毎日放課後一緒だった。
声楽の勉強していた彼はピアノが得意ではなかったので、
私がつきっきりだったのだ。

そして彼は東京の音大に合格し上京した。
二人の距離はあまりにも遠くなり、私は自分の役目は終わったと思った。
音大で、私に代るピアノ奏者が彼には必要だったのだ。
卒業した後、彼はそのピアノ奏者の彼女と結婚したことを伝え聞いた。

そして、彼と再会したのは25年後のことだった。

(2004. 3.20)