2−1
プロコフィエフ,セルゲイ 〔ロシア〕
(1891.04.23 〜 1953.03.04)  61歳  脳溢血

         2−1
          【 古典交響曲 ニ長調 作品25 】
          【 交響曲 第5番 作品100 】
          【 交響曲 第6番 変ホ短調 作品111 】
          【 交響曲 第7番 嬰ハ短調 作品131 】
          【 ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品16 】
          【 ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26 】
          【 ピアノ協奏曲 第5番 ト長調 作品55 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調 作品63 】
          【 チェロと管弦楽のための交響的協奏曲 ホ短調 作品125 】
         2−2
          【 オペラ「3つのオレンジへの恋」作品33 】
          【 スキタイ組曲(アラとロリー)作品20 】
          【 交響組曲「キージェ中尉」作品60 】
          【 バレー組曲「ロメオとジュリエット」作品64 】
          【 子供のための音楽物語「ピーターと狼」作品67 】
          【 ピアノ・ソナタ 第6番 作品82 】
          【 ピアノ・ソナタ 第7番 作品83 】
          【 ピアノ・ソナタ 第8番 作品84 】   
          【 チェロ・ソナタ ハ長調 作品 119 】





 
《 古典的 》

【 古典交響曲 ニ長調 作品25 】

プロコフィエフは、帝政末期のペテルブルグ音楽院を優秀な成績で卒業し、
有能なピアニスト、作曲家としての地位をきずきつつあった。

 ソヴィエト革命が起った1917年の夏、プロコフィエフは
 ペテルブルク近郊の田舎でたった一人で暮らしていた。
 このころ第一次世界大戦はすでに始まっていたが、
 彼は寡婦の一人息子のため召集を免除されていた。

 彼は、意識的にピアノなしで作曲をしようと試み、ハイドンの技法をもとに、
 「ハイドンが現代に生きていたら書いたであろうような作品」
 を書こうとした。

 この経験は、「ピアノなしで考えた主題のほうが、ピアノの上で
 考えた主題より、たとえ一見奇妙なものでも、一層良質のものが得られる」と
 確信するようになり、そして出来たものが「古典交響曲」だった。
 「現代人が住んでいる古い町」と評されたりもしたようだ。

 1918年4月、レニングラードでプロコフィエフの亡命に先立ち、
 彼の指揮で初演されている。
 その後、彼はシベリア経由で日本に渡り、東京帝国劇場で演奏会の後
 アメリカに亡命、シカゴその他で演奏活動をした。

               第1楽章 Allegro          
               第2楽章 Larghetto         
               第3楽章 Gavotta-Non troppo allegro
               第4楽章 Molto vivace       

第3楽章では、古典時代の「メヌエット」のかわりに
「古典組曲」に由来する「ガヴォット」が書かれている。




《 記念的な100番 》

【 交響曲 第5番 変ロ長調 作品100 】

プロコフィエフは1891年4月23日、ロシア帝国領のソンツォフカ村の
領地管理人をしていた父と、ピアノの上手な母との間に生まれ、
幼児からピアノに親しみ、5歳のときに「インドふうガロップ」という
ピアノ曲を作曲している。

プロコフィエフは、7つの交響曲を書いた。
第1番を除けば第2番、第3番、第4番は成功作とはいえず、あまり演奏されない。

しかし、1944年に作曲した「第5番」は「ソヴィエト・リアリズム」の
最高傑作の一つとしてばかりでなく、抒情的、叙事的交響曲として現代音楽中の
傑作ともされ、偉大な交響曲作家として認められた。

作品番号が記念的な100ということもあって、意欲的に取り組んだ作品で、
当時彼は、「戦争が始まって、誰もかれもが祖国のために全力を尽くして
戦っているとき、自分も何か偉大な仕事と取り組まなくてはならないと感じた」
と述べている。

1945年1月13日、モスクワ国立音楽院の大奏楽堂で、作曲者自身の
指揮のもと、ソヴィエト全国にラジオ中継された。
(この演奏が、プロコフィエフ最後の指揮となった)

               第1楽章 Andante    
               第2楽章 Allegro marcato
               第3楽章 Adagio     
               第4楽章 Allegro giocoso

 ロシア第2の都市で「水の都」として知られるサンクトペテルブルク市は、
 ピョートル大帝が自ら命名し、1712年に
 モスクワに代わって首都となった。

 1917年の革命の翌年まで国の中心だったが、第一次世界大戦では
 ペトログラードと改名、革命の指導をしたレーニンの名にちなんで
 24年にレニングラードとなり、ソ連消滅後の91年に
 サンクトペテルブルクの名に戻った。

 世界三大美術館の一つのロシア国立エルミタージュ美術館の
 公式オーケストラである
 サンクトペテルブルク室内管弦楽団の来日公演を聴いた。
 オープニングで演奏されたプロコフィエフの
 「古典的交響曲」は圧巻だった。

 そして、教育テレビの【芸術劇場】で放送された
 「サンクトペテルブルク建都300年記念ガラコンサート」は
 ゲルギエフの指揮でマリインスキー劇場を彩るロシアオペラと
 バレエの名場面は華やかだった。




《 病とのたたかい 》

【 交響曲 第6番 変ホ短調 作品111 】

1944年に作曲した「ソヴィエト・リアリズム」の
最高傑作の一つの「第5番」に引き続いて作曲された「第6番」は、
次第に重くなる病とたたかいながら1947年に完成した。

3楽章からなり、第2楽章ではロシア的な旋律を使用し、暗く哀愁を
含んでいるのに対し、フィナーレはハイドンを思わせる快速調となっている。

各楽章では、プロコフィエフ一流のやり方で、
調性はめまぐるしく変えられている。

作曲した年の10月11日にレニングラードでムラヴィンスキーの
指揮により初演された。

                第1楽章 Allegro marcato 
                第2楽章 Largo      
                第3楽章 Vivace      




《 わかりやすい音楽 》

【 交響曲 第7番 嬰ハ短調 作品131 】

プロコフィエフは明快で力強い音楽を好み、ショパンやリストなどの
ロマン派の音楽を毛嫌いした。
ピアニストとしての彼は、「ピアノは打楽器だから、打楽器のように
演奏しなくてはいけない」と主張し、強烈なピアノ曲を書き、演奏した。

しかし、後期のプロコフィエフの作風は、平明な抒情的ものになっていった。
48年に〔プラウダ〕紙上にプロコフィエフ、ショスターコーヴィチ、
ハチャトゥリアンらのソ連指導的作曲家を〔西欧追随の形式主義者〕と
糾弾され、ソ連当局によりするどく非難されてからは、
いっそう「わかりやすい音楽」を書こうと努力した。

亡くなる前年の作品である交響曲第7番を、彼は「青春交響曲」とよび、
「これは、わが青年の前途の喜びという思想によって生まれたものである」と
述べたと伝えられ、また彼は「自分にとっては複雑に書くほうが
簡単に書くよりもやさしい。しかし自分はあえて簡単に書く」とか、

「音楽の高い思想や内容を誰にでもわかるように書くのは
最も難しいことだが、自分はそれをやらなければならないと
思うし、また当然やるつもりだ」
という意味のことを表明したといわれている。

感傷的といってもいいくらい、甘美でわかりやすい作品で
「過去の音楽」という印象をあたえる。
1952年10月18日にモスクワで初演されたが、
その後のアメリカの初演共に熱狂的な大成功だった。

                第1楽章 Moderato     
                第2楽章 Allegretto     
                第3楽章 Andante espressivo
                第4楽章 Vivace      




《 改訂版 》

【 ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品16 】

有能なピアニストだったプロコフィエフは、生涯に多くのピアノ作品を
残したが、ピアノ協奏曲は5曲作曲している。

             第1番 変ニ長調 作品10 (1911年)    
             第2番 ト短調 作品16 (1913年)     
             第3番 ハ長調 作品26 (1921年)     
             第4番 「左手のための」作品53 (1931年)
             第5番 ト長調 作品55 (1932年)     

サンクトペテルブルク音楽院を卒業する前年に完成した
「ピアノ協奏曲 第2番 ト短調」は、パヴロフスクの夏の演奏会で、
プロコフィエフのピアノ、アスラーノフの指揮で初演され、
モダニズムに満ちたこの曲は、賛否両論を巻き起こした。

ロシア革命の混乱で、初演時の版は失われたため、
10年後に総譜を復元・改訂している。
その翌年に、パリでプロコフィエフのピアノ、
クーセヴィツキーの指揮で演奏された。
現在演奏されているのは、この改訂版である。

              第1楽章 Andantino-Allegretto    
              第2楽章 Scherzo: Vivace       
              第3楽章 Intermezzo: Allegro moderato
              第4楽章 Finale: Allegro tempestoso 




《 生命感 》

【 ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26 】

現代ピアノ協奏曲の中で、最も有名なのが第3番で、対位法的な技法を
中心としたメカニックな構成をとっていて、土俗的なロシアの国民性と
あふれるような生命感とに結び合わされている。

カスタネットが効果的にあらわれ、エネルギッシュな盛り上げを作って、
力強く結ばれる第1楽章。
第5変奏からなり、プロコフィエフの抒情性が十分発揮された美しい第2楽章。
突進するような勢いで華麗に終わる第3楽章でできている。

ロシア革命の年の1917年にペトログラードで着手されたが、
翌年ソヴェート政権の安定によって、地主階級出身のプロコフィエフは、
祖国における生活に希望がもてず、シベリア、日本を経由して
アメリカに亡命したため、作曲は放置された。

1922年まで彼はアメリカに生活の本拠を置いて
コンサート・ピアニストとして活躍し、度々ヨーロッパにも出かけている。

1921年にパリで完成し、その年の12月16日に
プロコフィエフのピアノとシカゴ交響楽団によって初演された。




《ドイツ指揮界の王者》

【 ピアノ協奏曲 第5番 ト長調 作品55 】

フルトヴェングラー 〔独〕
(1886.01.25〜1954.11.30) 68歳 肺炎

プロコフィエフより5歳年上のフルトヴェングラーは、ベルリンで生まれ、
指揮者として活躍し、ドイツ指揮界の王者として君臨した。

ナチスの天下になると最初は抵抗したが、結局はナチスに屈従した。
第二次世界大戦後戦犯になったが、無罪となった。

1954年11月30日に肺炎のため、バーデン・バーデンで
68年の生涯を閉じた。

現代ピアノ協奏曲の中で、最も有名なのは第3番だが、
プロコフィエフの最後のピアノ協奏曲となったのは
「ピアノ協奏曲 第5番」で、1932年に着手された。

初演はプロコフィエフのピアノと、フルトヴェングラーの指揮、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により行なわれた。

5楽章からなるが、20分余りの短い協奏曲である。

               第1楽章 Allegro con brio     
               第2楽章 Moderato ben accentuat  
               第3楽章 Toccata: Allegro con fuoco
               第4楽章 Larghetto         
               第5楽章 Vivo           




《 恐るべき子 》

【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19 】

 プロコフィエフは、ヴァイオリンという楽器の演奏において、
 正規の教育を受けてなかったが、ヴァイオリン協奏曲を2曲書き、
 そのどちらもが優れた作品として、現在も演奏されている。

 第1番の協奏曲は、ペテルグルグ音楽院に在学していた
 22歳のころに着手したが、完成されたのは4年後のことだった。
 当時のロシア音楽家の「恐るべき子」として、野心的な作風を
 露骨にうかがわせているが、古典的で叙情的な要素を含んだ曲である。

 この曲がひろく認められるようになったのは、7年位先のことで、
 ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティが紹介してからである。
 彼は世界各地の演奏旅行の際にとりあげていたので、
 プロコフィエフはシゲティを「私の協奏曲の最大の演奏者」と呼んで、
 2人の交友はこの曲を通して親密さを深めた。

 1953年3月4日、61歳のプロコフィエフがモスクワで
 亡くなったとき、シゲティは演奏旅行のため、東京にいた。
 そのときの演奏会で、彼は親友の死を悼み、この曲の第2楽章を
 急遽プログラムに組んで演奏している。

 プロコフエフ自身も、1918年にアメリカに亡命する途中、
 シベリア経由で日本に渡り、東京帝国劇場で演奏会を催した。
 第1番の協奏曲の楽譜の出版は4年くらい後になるので、
 もちろんこの曲は演奏されてなかった。




《 祖国への思い 》

【 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調 作品63 】

1918年に革命で揺れるロシアを離れ、亡命生活を送った時期の前後
1017年に第1番を、1935年に第2番を完成させた。

「協奏曲第2番」は亡命中に祖国の大地の香りを胸いっぱいに吸い、
祖国の言葉を耳いっぱいに聴きたい思いにかられていたプロコフィエフが、
祖国に戻って2年を経たころの作品である。

この曲はあるフランスの団体の依頼によるもので、主にパリで作曲が進み、
カスピ海沿岸の町のバクーで完成された。
40歳を越えた成熟したプロコフィエフのロマンティシズムと共に
親しみ易さも合わせ持つ作品となっている。

もの悲しいバイオリン独奏で始まる第1楽章。
優雅な旋律の第2楽章。
スペイン風の主題で始まる第3楽章では、カスタネットが彩りを添える。

              第1楽章 Allegro moderato         
              第2楽章 Andante assai-Allegro-Andante assi
              第3楽章 Allegro,ben marcato       




《 最後のチェロ曲 》

【 チェロと管弦楽のための交響的協奏曲 ホ短調 作品125 】

「チェロ協奏曲 第1番 ホ短調 作品58」を作曲した14年後に完成した
「チェロと管弦楽のための交響的協奏曲ホ短調」は、事実上
「チェロ協奏曲第2番」にあたる曲で、プロコフィエフが完成した
最後のチェロ曲でもある。

この曲を「第2番」と呼ばず「交響的協奏曲」と名付けたのは、
この曲が「チェロ協奏曲 第1番」の改編であることが挙げられる。

楽章構成も、各楽章の主要主題も第1番と同じ素材によるが、
第2番は民族的色彩、ユーモア、幻想的な抒情性が豊富な挿句を加えて、
劇的対照性を保ちつつ見事に統一された、全く別の大曲になっている。

1951年の改作着手にあたり、プロコフィエフは病床中の山荘で、
チェロの名手ロストロポーヴィチの意見を聞き、協力をえて改作をして
独奏チェロパートは、ほとんど全てのチェロの技巧が投入され、
名技性と歌唱性が統一されている。

1952年1月に完成し、翌月の2月18日にロストロポーヴィチのチェロ、
モスクワ青年交響楽団、指揮が名ピアニストの
リヒテル(この日が指揮の初舞台)で初演され、
この曲はロストロポーヴィチに捧げられた。

ロストロポ-ヴィチ,ムスティスラフ (ソ連)
(1927.03.27〜2007.04.27)

その6年後、ロストロポーヴィチのチェロにより、大阪で日本初演された。

                第1楽章 Andante     
                第2楽章 Allegro giusto  
                第3楽章 Andante con moto