2−2
プロコフィエフ,セルゲイ 〔ロシア〕
(1891.04.23 〜 1953.03.04)  61歳  脳溢血

         2−1
          【 古典交響曲 ニ長調 作品25 】
          【 交響曲 第5番 作品100 】
          【 交響曲 第6番 変ホ短調 作品111 】
          【 交響曲 第7番 嬰ハ短調 作品131 】
          【 ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品16 】
          【 ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26 】
          【 ピアノ協奏曲 第5番 ト長調 作品55 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調 作品63 】
          【 チェロと管弦楽のための交響的協奏曲 ホ短調 作品125 】
         2−2
          【 オペラ「3つのオレンジへの恋」作品33 】
          【 スキタイ組曲(アラとロリー)作品20 】
          【 交響組曲「キージェ中尉」作品60 】
          【 バレー組曲「ロメオとジュリエット」作品64 】
          【 子供のための音楽物語「ピーターと狼」作品67 】
          【 ピアノ・ソナタ 第6番 作品82 】
          【 ピアノ・ソナタ 第7番 作品83 】
          【 ピアノ・ソナタ 第8番 作品84 】
          【 チェロ・ソナタ ハ長調 作品 119 】






《 現代的感覚 》


【 オペラ「3つのオレンジへの恋」作品33 】

プロコフィエフは、管弦楽や器楽曲の作品が知られている作曲家だが、
歌劇を13曲書いている。
その中で、もっとも有名なのが「3つのオレンジへの恋」で、亡命時代の作品である。

第4幕からなる歌劇で、イタリアの劇作家カルロ・ゴッツィが書いた
童話劇「3つのオレンジへの恋のお伽話」をもとに、プロコフィエフ自身が
台本を書き、1921年12月30日にシカゴ歌劇場で初演された。

物語は、憂鬱な気分で決して笑わないある王子が、魔女の呪いにかけられ、
3つのオレンジを求めて砂漠へ旅に出る。

やがて、探し当てたオレンジの中から出てきた王女に恋をし、
魔女の呪いもうまくとかれて、めでたく二人は結ばれるというストーリー。

ただし、こうした筋書きの合間にも道化やエキストラが登場しては
舞台を引っかき回す、というプロコフィエフならではのひねりの効いた内容で、
音楽も現代的な感覚で彩られている。

この曲は1924年に、作曲家自身の手で6曲からなる
「管弦楽組曲作品33bis」として編曲されている。

道化たちー地獄のシーン ー 行進曲ースケルツォー王子と王女ー逃走




《スキタイの古譚》


【 スキタイ組曲(アラとロリー)作品20 】

ソ連の代表的な作曲家のプロコフィエフの音楽は、次の3つに分けられる。

1、帝政ロシア時代
  ドビュッシー、スクリャービン、ストラヴィンスキーの
  影響を強く示し、ロシア・モダニズムの傾向のもの。

2、革命により亡命してパリで活躍した時代
  新古典的作風が加わる。

3、1933年にソ連に帰還してからの時代
  社会主義リアリズムの線に沿った音楽。

しかし全ての時期にわたって、彼独特の機知に富んだリズム感と、
斬新なハーモニー、それにロシア的要素につちかわれた
豊かな旋律性が流れている。

プロコフィエフは、ペテルブルグ音楽院在学中から鬼才を認められていて、
卒業の年にロンドンでディアギレフに会った際、
彼のロシア・バレエ団のためのバレエ音楽を作曲するよう依頼された。

早速「アラとロリー」を書き上げディアギレフに示したが、
音楽に対しては高い評価をしたものの、物語がバレエとしては
不適当という理由で上演しなかった。

そこで、プロコフィエフは原曲の中から4つの部分を選び、
1915年に大規模な管弦楽編成の曲に改編して「スキタイ組曲」と名付けた。
翌年の1月29日、プロコフィエフの指揮によりペテルブルグで初演された。

スキタイは紀元前七世紀から四世紀にかけて、黒海・カスピ海北岸地方、
中央アジア一帯に活動したイラン系の遊牧騎馬民族で、ロシア民謡の
源流の一つと思われるものである。

第1曲 太陽の神ヴェレスと娘アラへの讃仰 
第2曲 暗黒の魔神チュジボーグと悪魔の踊り
第3曲 夜                
第4曲 ロリーの出発と行進        




《映画音楽》


【 交響組曲「キージェ中尉」作品60 】

1922年から1991年まで存在していた世界最初の社会主義国の
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の政権を嫌って、プロコフィエフは
1918年に、日本を経由してアメリカに渡った。

1922年までアメリカを中心に活躍し、1年くらいドイツに滞在してから、
1923年にパリに定住した。

1927年に招かれてソ連に行き、モスクワなどでピアノ演奏会を開いた。
その2年後にも訪れているが、1932年11月にソ連に帰国した。

翌年にソ連的立場で手がけた最初の成功作が、明るさと平明さ、
ロシア民謡風旋律にあふれた 映画「「キージェ中尉」」の音楽で、
世界的に愛好されている。

プロコフィエフは「アレクサンドル・ネフスキー」など数作の映画音楽を
書いているが、1934年に封切られた「キージェ中尉」は、
ユー・トゥイニャノフの同名の小説に基づいて作られたもので、
帝政ロシアの貴族社会の無能無知を諷刺した喜劇的内容である。

多少神経衰弱にかかっている皇帝ニコライ一世が、昼寝中に女官の悲鳴で
起こされるが、見回りの責任者がキージェ中尉だと思い込み、
架空の人物が生まれてしまう。

監督不行届きで、彼は逮捕されシベリア流刑に処せられる。
しかし、キージェ中尉は暗殺者から自分を守るために侍女に悲鳴を
あげさせたのかもしれないと憶測をし、シベリアから呼び戻され、
美しい女官と盛大な結婚式を挙げさせられる。

実在しない人物に振り回される侍従は、キージェ中尉は死んだことにし、
厳かな葬儀を行なう。
皇帝ニコライ一世は、葬列を見送りながら冥福を祈るという筋になっている。

映画が封切られた年に、映画「キージェ中尉」の音楽の中から、
プロコフィエフは5曲を選んで交響組曲「キージェ中尉」を作り、
同じ年の7月8日にモスクワで初演された。

第1曲 キージェの誕生
第2曲 ロマンス   
第3曲 キージェの結婚
第4曲 トロイカ   
第5曲 キージェの葬送




《 ロメオとジュリエット 》

【 バレー組曲「ロメオとジュリエット」op.64 】

  プロコフィエフが生まれた327年前の4月26日に生まれたのが、
 イギリス最高の劇作家のウィリアム・シェークスピアで、1616年に
 プロコフィエフが生まれた日と同じ4月23日に52歳で世を去っている。

シェークスピア,ウィリアム 〔英〕
(1564.04.26〜1616.04.23)  52歳 

 シェークスピアは他人との合作を含め、36編の戯曲を残した。
 その作品は多くの作家により音楽家され、プロコフィエフも
 5番目のバレエ曲として《ロメオとジュリエット》を作曲した。

 しかし、バレエ音楽としての初演の前に、第1組曲はモスクワで、
 第2組曲はその翌年にレニングラードで初演されている。

 各7曲からなる2つの組曲は、バレエの筋の順序にしたがうことなく、
 組曲として良い構成をもつように編まれていて、
 どちらも劇的効果の強い挿話で結ばれている。

シェークスピアの作品をもとに作曲した、他の作曲家の作品の主なものである。

《ロメオとジュリエット》

(1) ベルリオーズ〔仏〕      (1839年作曲)
    【 劇的交響曲「ロメオとジュリエット」op.17 】 

(2) チャイコフスキ−〔露〕    (1869年作曲)
   【 幻想的序曲「ロメオとジュリエット」】   

(3) プロコフィエフ〔露〕    (1935年作曲)
    【 バレー組曲「ロメオとジュリエット」op.64 】 

 
(4) ニーノ・ロータ〔伊〕    (1968年作曲) 
【「ロミオとジュリエット」愛のテーマ 】

 (1) タイトルには、「シェークスピアの悲劇による合唱、独唱および
   合唱によるレシタティーブのプロローグつき劇的交響曲」とある。
   約1時間33分の作品。

 (2) 「シェークスピアによる幻想風序曲」として作曲された約18分の管弦楽。

 (3) プロコフィエフの書いた5番目のバレエ曲。
   「私はこの曲がシンプルであって、これを聴くすべての人の心に
   達するように特別に苦心した。
   すべての人がこの曲の中に、旋律もエモーションも
   みいださないとしたならば、私はひじょうに残念に思う。
   けれども彼らは、遅かれ早かれ、それを感じることを確信する。」
   (作曲者の言葉)

 (4) シェークスピアの原作にもっとも忠実に作られたイタリア映画。
   キャブレット家の大パーティで、ロミオとジュリエットが初めて逢い、
   激しく愛し合うようになるシーンで歌われた愛のテーマ。
   “青春とは何かつかの間に燃える炎にも似て・・・”

 他の作曲家の作品の主なものである。

《 あらし 》

チャイコフスキー (1873年作曲)
  【 交響幻想曲「テンペスト」】

《 ウィンザーの陽気な女房たち 》

ヴェルディ (1893年作曲)
  【 オペラ「ファルスタッフ」】

《 ヴェロナの2紳士 》

シューベルト (1826年作曲)
   【 歌曲「シルヴィアはだれ?」】

《 オセロ 》

 ロッシーニ (1816年作曲)
 【 オペラ「オテロ」】

  ヴェルディ (1887年作曲)
  【 オペラ「オテロ」】

ドヴォルザーク (1892年作曲)
 【 序曲「オセロ」】

《 ハムレット 》

 チャイコフスキー (1885年作曲)
 【 幻想的序曲「ハムレット」作品67 】

リスト (1858年作曲)
  【 交響詩「ハムレット」】

《 マクベス 》

ヴェルディ (1847年作曲)
  【 オペラ「マクベス」】

 R・シュトラウス (1890年作曲)
  【 交響詩「マクベス」作品23 】

《 真夏の夜の夢 》

 メンデルスゾーン (1643年作曲)
 【 付随音楽「真夏の夜の夢」】



《 動物の鳴き声 》

【 子供のための音楽物語 組曲「ピーターと狼」作品67 】

 プロコフィエフは、ピアノの上手な母親の影響をうけて
幼児からピアノに親しみ、5歳のころには作曲までしていたという。
子供のための交響的物語「ピーターと狼」は、1936年の作品で、
ソビエトの青少年のために書かれたものの、鉄のカーテンを越えて、
アメリカの子供たちから大歓迎を受けた。

初演はその年の5月2日、モスクワの児童劇場で行なわれた。
アメリカ初演は翌年、日本での初演は、1948年4月に
東京の日比谷公会堂で行われた。

極めて小さい編成で、最大の効果がでるように管弦楽法の
技巧がこらされている。

曲の進行に先立って、各登場者を示す楽器と主題が
ナレーターによって紹介される。

勇敢な少年ピーター は弦楽四重奏、
ピーターのおじいさんはファゴット、
ピーターの親友の小鳥はフルート、
アヒルはオーボエ、
猫はクラリネットと、
狼は3本のホルン、
勇ましい狩人の鉄砲の音はティンパニー
と楽しい構成で作られている。




《 戦争ソナタ 》

【 ピアノ・ソナタ 第6番 作品82 】

有能なピアニストだったプロコフィエフは、生涯に多くの
ピアノ作品を作曲していてピアノ・ソナタは、9曲の作品を残している。
(未完成、習作を除く)

ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 作品1(1909年)     
ピアノ・ソナタ 第2番 ニ短調 作品14(1912年)    
ピアノ・ソナタ 第3番 イ短調 作品28(1917年)    
ピアノ・ソナタ 第4番 ハ短調 作品29(1917年)    
ピアノ・ソナタ 第5番 ハ長調 作品38(1923年)    

ピアノ・ソナタ 第6番 イ長調 作品82(1940年)    
ピアノ・ソナタ 第7番 変ロ調 作品83(1943年)    
ピアノ・ソナタ 第8番 変ロ調 作品84(1944年)    

ピアノ・ソナタ 第9番 ハ長調 作品108(1947年)    
ピアノ・ソナタ 第10番 ホ短調 作品137(1953年、未完)

第1番は10代の作品で、習作の域をでないもの。
第2番、第3番、第4番は青年期の楽天的なダイナリズムとナイーブな
感情的表現を合わせ持った作風の特徴が端的にあらわれている。

第5番は過渡期のパリ時代の作品で、1952年に手を加えられている。

第6番、第7番、第8番の3曲は、独ソ戦の最中に次々と完成されたため、
「戦争ソナタ」の通称で呼ばれることがある。
生涯の中で最も充実した時期の作品となっている。

第9番は戦後の作品で、晩年の作風への移行がみられる。

「ピアノ・ソナタ 第6番」は、3曲の戦争ソナタの中で、唯一4楽章形式で
書かれていて、規模の大きな作品で、作曲の年の1月8日、
モスクワでプロコフィエフ自身のピアノにより、初演された。

               第1楽章 Allgro moderato     
               第2楽章 Allegretto        
               第3楽章 Tempo di valzer lentissimo
               第4楽章 Vivace         


 

《 最高傑作 》

【 ピアノ・ソナタ 第7番 作品83 】

1939年に着手し、1943年に完成した「ピアノ・ソナタ 第7番」は、
現代のピアノ音楽の最高傑作の一つである。

生涯の中で最も充実した時期の作品である
「戦争ソナタ」(第6番、第7番、第8番)のうちの一曲だが、
青年期からのプロコフィエフのダイナミズムが、
ここでは一音の無駄もなく極度に圧縮され、剛鉄のような強靱さと、
とぎすまされた構成美となっている。

1943年1月18日、モスクワでスヴァトスラフ・リヒテルにより、
初演されたが、プロコフィエフが初演を
初めて他のピアニストに託した作品である。

                 第1楽章 Allgro inquieto 
                 第2楽章 Andante caloroso
                 第3楽章 Precipitato   




 《 抒情的 》


【 ピアノ・ソナタ 第8番 作品84 】

1939年から1944年にかけて作曲された3つの「戦争ソナタ」の中の
最後の作品が第8番である。

第7番が厳しい構成美を持ち、かなり無調的でもあるのに比べて
「第8番」は、抒情的でマイルドであり、
晩年にみせたような響きを強くもっている。

1944年12月30日にピアニストの
エミール・ギレリスによってモスクワで初演され、
プロコフィエフの妻のミーラ・メンデルソンに献呈している。

                 第1楽章 Andante dolce  
                 第2楽章 Andante sognendo
                 第3楽章 Vivace     




《 唯一のチェロ・ソナタ 》

【 チェロ・ソナタ ハ長調 作品 119 】

1948年初頭から死去まで5年間のプロコフィエフの晩年は、
ほとんど病床にあった。
ピアノも弾かず、電話にもでず、医師の許可した
1日1時間だけの作曲の日課を守っていた。

そんな中でも、プロコフィエフの創作意欲は衰えず、
十数曲の作品を書いた。
この時期の最初の作品がこの「作品119」で、
彼の唯一の「チェロ・ソナタ」である。

晩年の特徴である、極度の単純さと形式の古典的連続性のなかに、
豊かな旋律による叙述を組み立ててゆく作風があらわれている。

チェロの温かい歌唱、広い音域にわたる豊かな色彩と名人的技巧が
卓越した表現をえていて、それにピアノが対話的に書かれている。

彼はこの曲を書いた後、チェロに対する関心が強まり、
数曲を構想したが、全て未完成に終わった。

名チェリストのロストロポーヴィチの協力をえて作曲した
「チェロ・ソナタ」は、1949年の春に完成し、
暮にはロストロポーヴィチのチェロ、リヒテルのピアノで初演された。

その演奏を聴いたミャスコフスキーの日記には
「第一級の驚くべき作品」と書かれていた。