2−2
リヒャルト・シュトラウス,ゲオルク 〔独〕
(1864.06.11 〜 1949. 09.08)  85歳  心臓病

             2−1
           【 家庭交響曲 作品53 】
           【 アルプス交響曲 】
           【 オペラ「サロメ」】
           【 オペラ「エレクトラ」】
           【 歌劇「ばらの騎士」】
           【 交響詩「ドン・ファン」作品20 】
           【 交響詩「マクベス」作品23 】 
           【 交響詩「死と変容」作品24 】
           【 交響詩「ティル・オイレンシュピール・」作品28 】
           【 交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」作品30 】
           【 交響詩「ドン・キホーテ」】
           【 交響詩「英雄の生涯」作品40 】
             2−2
           【 ピアノと管弦楽のための「ブルレスケ」ニ短調 】
           【 ホルン協奏曲 第1番 変ホ長調 作品11 】
           【 ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 作品86 】
           【 オーボエ協奏曲 ニ長調 】
           【 組曲「にわか貴族」】
           【 日本建国2600年祝典曲 作品84 】 
           【 バイオリン・ソナタ 変ホ長調 作品18 】
           【 4つの最後の歌 】






《 おどけもの 》

【 ピアノと管弦楽のための「ブルレスケ」ニ短調 】

R.シュトラウスは、交響詩と音楽劇の大家であるが、
ピアノ協奏曲は1曲も作らなかった。
しかし、その不足は、ピアノと管弦楽のための「ブルレスケ」と
「家庭交響曲へのパレルゴーネン」「パンアテナイン行列」で補うことができた。

その3つの協奏曲風な作品の中で、最もひろく知られているのは
「ブルレスケ」で、21歳で書き始めて翌年完成したもので、
ブラームス的なロマン主義の影響を示している。

ブルレスケは、フランス語のピュルレスクで「おどけたもの」だが、
おどけた楽しい感じを出しつつ、美しく叙情的な旋律も豊かに流れる
充実した音楽である。

カデンツァをもったスケルツォ風な様式で、ただ1つの楽章からできている。

1891年1月12日にベルリンのフィルハーモニーで、ビューローの指揮と
オイゲン・ダルベールのピアノ独奏で演奏された。




《 父に献呈 》

【 ホルン協奏曲 第1番 変ホ長調 作品11 】 

父は音楽家として相当の実力のあった人で、ミュンヘン音楽院の教授、
王立バイエルン室内楽奏者、ミュンヘン国立歌劇場の
首席ホルン奏者として活躍し、ホルンのヨアヒムと呼ばれていた。
彼の祖先にも、室内楽奏者になった人がいる。

彼の父がホルン奏者として腕達者であったこともあって、
R.シュトラウスは早くからホルンに対してかなりの造詣をもち、
変ホ長調のホルン協奏曲を2曲残している。
父に捧げられた第1番は18歳の1882年に、
第2番は60年を隔てた78歳の1942年に作られた。

12歳のときには「祝典行進曲作品1」を書いたが、さらに、室内楽曲、
歌曲、管弦楽用セレナード、協奏曲などを作曲している。

第1番を作曲したころは、ミュンヘン大学で哲学、美学、
文化史の講義を聞き、ショーペンハウアーに傾倒していた。

原題は「ヴァルトホルンと管弦楽のための協奏曲ホ長調」で、
モーツアルト、メンデルスゾーン、シューマンの影響が感じられる。

高齢の父は公開の場では演奏しなかったので、
1885年3月4日にマイニンゲンの宮廷劇場で初演された。
この1番は父に捧げられている。

3楽章からなるが、それぞれ続けて演奏される。

                 第1楽章 Allegro   
                 第2楽章 Andante   
                 第3楽章 Rondo Allegro




《 モーツァルトを範例に 》

【 ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 作品86 】

第2番はモーツァルトを想わせる旋律と、独特のきめの細かい
均斉のとれた作品で、社交音楽的性格、擬古典主義的な旋律法など、
モーツァルトのホルン協奏曲との類似点がみられる。

狩りのホルンのシグナルを想わせるような主題を持つ終曲のロンドは、
モーツァルトを模した生気あふれる「狩猟のロンド」である。

初演は1943年8月11日、ザルツブルクでベームの指揮、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行なわれた。




《 オーボエの幻想曲 》 《 木管楽器 》

【 オーボエ協奏曲 ニ長調 】

晩年のシュトラウスは、特に木管楽器を好んで取り上げ、その繊細な
技巧を活用する多くの作品を書いた。

敗戦後、シュトラウスはチューリッヒ近郊のバーデンに滞在していた。
この時期に、スイスの美しい風光に憩いつつ書かれたのが
この「オーボエ協奏曲」で、オーボエの幻想曲ともいえる第1楽章は、
モーツァルトの音楽をも想わせる。

ショパンのピアノ協奏曲において、全てを語るのがピアノであるのと
同じくらい、この曲はオーボエが全てで、どの主題にもオーボエの
独自性が刻み込まれ、形式そのものさえ、オーボエでなくては
得られぬ自由な息吹きが与えられている。
オーボエ奏者にとって、貴重なレパートリーとなる一曲といえる。




《 モリエールの代表作 》

【 組曲「にわか貴族」作品60 】

リヒャルト・シュトラウスは多くの交響詩を書いたが、オペラも16曲残している。

モリエール(1622?1673)の代表作の「にわか貴族」をもとにして、
ホフマンスタール(1874?1929)が台本を書いた劇の附随音楽を
R・シュトラウスが作曲した。

1912年10月25日に、この劇の後に劇中劇として
オペラ「ナクソス島のアリアドネ」を含む独特の構成で作られて、
シュトゥットガルトで初演されたが、失敗に終わった。

その後、この演劇としての「にわか貴族」を2つに分け、劇中劇だった
「ナクソス島のアリアドネ」を独立したオペラに改作し、
前作の劇から9曲を選び組曲にした。(「町人貴族」とも呼ばれる)

1670年にルイ十四世の所望によって初演された、
バレエ付きの戯曲「にわか貴族」は、リュリが音楽を担当していたが、
R・シュトラウスはその音楽を利用して、室内オーケストラの構成のための
新古典的な感覚を持った才気走った音楽を作った。

劇の筋
金持ちの町人ジュールダン氏は、貴族ぶりたがり、哲学、剣術、
音楽の勉強に励んでいる。
ただし、その精神を全く理解していない。
そのにわか貴族は侯爵夫人に憧れてラブレターを書き、
貴族のような服を作らせて、喜んでいた。
自分の娘リュスィルには「貴族以外とは結婚させない」
方針で、クレオントとの結婚を認めない。
クレオントは、仕方なくトルコ王子に化けて
リュスィルとの結婚を図った。

組曲は、9曲からなる。
第1曲 第1幕への序曲「町人ジュールダン」
第2曲 メニエット     
第3曲 剣術の先生     
第4曲 仕立屋の登場と踊り 
第5曲 リュリのメムエット 
第6曲 クーラント     
第7曲 クレオントの登場  
第8曲 第2幕への前想曲  
   (間奏曲)「ドラントとドメリーヌ?伯爵と伯爵夫人」 
第9曲 宴会        
   「宴会の音楽(ターフェルムジーク)と若い料理人たちの踊り」




《 奉祝曲 》

【 大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年によせる祝典曲 作品84 】

R・シュトラウスは、12歳のときには「祝典行進曲作品1」を書いているが、
76歳のときに書いた祝典曲が、日本の皇紀2600年を記念する
「大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年によせる祝典曲」で、
「皇紀弐千六百年奉祝曲」と略称される。

1940年(昭和15年)に皇紀2600年
(初代天皇の神武天皇が即位した年からのカウント)を迎える日本のために
大日本帝国政府は、6カ国の作曲家に祝典音楽の創作を委嘱した。

ドイツ政府のゲッペルスは、当時最も有名だったR・シュトラウスに依頼した。
その年の12月14日に東京の歌舞伎座で行なわれた奉祝演奏会で
他の3曲と共に初演された。

〔ドイツ〕
リヒャルト・シュトラウス 「奉祝曲」
〔イタリア〕
イルデブランド・ピツェティ 「交響曲 イ調」
〔ハンガリー〕
ヴェレシュ・シャーンドル 「交響曲 第1番」
〔フランス〕
ジャック・イベール 「祝典序曲」

R・シュトラウスの「奉祝曲」は、5つの部分からなる。

1、海の情景   
2、桜祭り    
3、火山の噴火  
4、サムライの突撃
5、天皇頌歌   




《 初期の作品 》

【 バイオリン・ソナタ 変ホ長調 作品18 】

1887年の夏、リヒャルト・シュトラウス24歳のときに作曲した
「バイオリン・ソナタ 変ホ長調」は、彼のただ一つの「バイオリン・ソナタ」である。

5年前に作曲した「バイオリン協奏曲」よりもはるかに自由で目新しく、
新しい和音を用いた和声は美しい色彩に富み、対位法には心憎いほどの
放胆さがみられる。

3楽章からなり、第2楽章は「即興曲」と題されている。

               第1楽章 Allegro ma non troppo
               第2楽章 Andante cantabile  
               第3楽章 Andante-Allegro   




《 最後の歌曲 》

【 4つの最後の歌 】

1944年6月11日、シュトラウスは満80歳の誕生日をウィーンで迎えた。
高齢に達した彼にとって、周囲の情勢は惨酷なまでに厳しかった。
第二次世界大戦がドイツを最後の線まで追い詰めていたのである。
翌年、ドイツは敗戦を迎え、戦犯に問われたが、無罪となり、
スイスで静かな余生を送った。

青年時代から体が弱かったが、亡くなる2年前のロンドン公演での
指揮を最後に、身体の調子が悪くなり、次第に衰弱していき、
心臓に障害をおこして85歳で世を去った。

妻のパウリーナはバイエルンの将軍の長女で、音楽学校で声楽を
勉強しているときに、R・シュトラウスの門下生だった。

彼に認められて最初の楽劇に出演し、その年に二人は結婚をしている。
その後、シュトラウス夫人として、彼の歌曲の最初のそして最良の歌手となった。

R・シュトラウスの最後の歌曲であり、彼が完成した最後の作品となった
「4つの最後の歌」は、第3曲まではヘルマン・ヘッセの詩、
一番最初に書かれた第4曲はアイヒェンドルフの詩によるものである。

第1曲 春     
第2曲 9月    
第3曲 眠りゆくとき
第4曲 夕映えに  

独唱(ソプラノ)と管弦楽のためのこの作品は、聴く人にきわめて強く迫る
感動的な深刻さを持っている。
最後の作品を書いた1年後の9月8日に85年の生涯を閉じたが、
葬儀ではオペラ「薔薇の騎士」第3幕の三重唱が演奏された。



眠りゆくとき

今や昼は私を疲れさせる。
私の憧れの願いは、疲れた子供のように、
星に輝く夜を親しく迎えることだ。
手はあらゆる行為を止め、額はすべての思考を中止する。
今や私の感覚は、仮眠に落ち込むのを欲する。
そして、霊魂は、無意識に、自由な翼で漂おうとする。
夜の魔法の土地でふかく千倍もながらえるために。