2ー2
    バッハ,ヨハン・セバスティアン 〔ドイツ
1685.03.21 〜 1750.07.28 (65歳)

         2ー1
         【 カンタータ BWV212 】
         【 マタイ受難曲 BWV244 】
         【「クリスマス・オラトリオ」 BWV248 】
         【 前奏曲とフーガ イ短調 BWV543 】
         【 トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 】
         【 フーガ ト短調 BWV578 】
         【 パッサカリアとフーガハ短調BWV582 】
         【 平均率クラヴィーア曲集 BWV846-893 】
         【 無伴奏バイオリン・ソナタ 第4番 BWV1004(シャコンヌ ニ短調)】
         【 無伴奏バイオリン・ソナタ 第6番 BWV1006 】
         2ー2
         【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 BWV1041 】
         【 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV1042 】
         【 ブランデンブルク協奏曲 第5番 ニ長調 BWV1050 】
         【 管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV.1067 】
         【 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV1068 】【 G線上のアリア 】
         【 フーガの技法 BWV1080 】






《 イタリア風 》

【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 BWV1041 】

「バイオリン協奏曲イ短調」は、30代に書かれた作品で、
イタリア風の甘美なものだが、複音楽の巧緻を極めた手法が
いたるところにみられ、厳しさをも感じさせる。

バッハがバイオリン協奏曲を作曲したこの頃は、古典派に
みられるような協奏曲形式が、まだ確立されてなくて、
合奏協奏曲が作られていた時代だったためイタリアの
ヴィヴァルディなどの協奏曲の作風が強く残っている。

スターン,アイザック (露)
(1920.07.21〜2001.09.22) 81歳

二十世紀最高のバイオリニストの一人のアイザック・スターンは、
ユダヤ系の子としてウクライナのクレメネツで生まれた。

1歳のときにサンフランシスコに移住し、母から音楽の
早期教育を受け、16歳でデビューをした。
演奏活動を続けながら、多くの新進演奏家を擁護し、育てた。

バッハ、ベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームスなどの
古典的な協奏曲作品を演奏し、録音をした。
そればかりでなく、二十世紀の協奏曲や室内楽の
作品の演奏、録音も遺している。

1996年から行なわれている宮崎国際音楽祭では、
初代音楽監督に就任している。
アメリカ同時多発テロ事件が発生した11日後の
2001年9月22日にニューヨークで世を去った。

翌年、宮崎県より県民栄誉賞を遺贈され、
宮崎県立芸術劇場コンサートホールは、
宮崎県立芸術劇場アイザックスターンホールと改称された。




《 音楽の父 》

【 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 】

バッハの3曲(イ短調、ホ長調、二つのヴァイオリンのためのニ短調)の
ヴァイオリン協奏曲は、息子のエマヌエルによって保存され、
現在でもベルリンの国立図書館に所蔵されている。

他にも数曲のバイオリン協奏曲があると推定されているが、
これらの協奏曲が作られたのは、32歳から38歳の間の
バッハが主に器楽曲を書いたケーテン時代である。

そのころ、仕えていたレオポルト公は自らヴァイオリンやチェロ、
クラブサンを演奏できたし、イタリアへの旅行で南ヨーロッパの
器楽曲を愛好するようになっていたため、バッハも協奏曲を
作る際、イタリア風のものを念頭においていた。

バッハの作品で、存命中に出版されたものは非常に少なくて、
数多くの傑作はほとんど演奏されることはなかった。
しかしホ長調協奏曲は例外でバッハの存命中も、彼の作品が
全然かえりみられなかった時代にも演奏されていたし、
現在でも、バッハの作品中最も愛好されているものの一つである。

特に第2楽章の表情豊かな美しさと、甘美な情緒が
バッハの偉大さを感じさせる。

この曲は、「チェンバロ協奏曲第3番ニ長調」として、
後にバッハによって書き直されている。

バッハについて書かれている面白い文章がある。
「バッハの生涯はまことに平凡である。
同年のヘンデルがヨーロッパを股にかけて活躍し、その生涯が波瀾に富んで
いるのに対して、バッハは一生の間ドイツ以外に足を踏み出したことがなく、
その生活は典型的な中流市民のそれであった。
モーツアルトのように彼の神童ぶりを伝える逸話一つなく、ベートーベンの
生涯を貫く、劇的な精神の葛藤もない。
ショパンやリストの生涯を彩る華やかな女性関係もない。
あるのはただ、ひたすらに自らの職務を全うし、つつましい家庭生活を愛した
平凡な職業音楽家の姿なのである。
そのような平凡な生活から、あのような非凡な音楽が生まれたことこそが、
むしろ奇跡のようにさえ思える。」

その時代のドイツの音楽家は、都市、宮廷、教会という、
そのいずれかに雇われて、それぞれの職場が要求する音楽を
提供する以外には生活ができなかった。

彼は、22歳のときに又従姉妹のマリーア・バルバラと結婚し、7人の
子ども(3人は死亡)に恵まれ、長男と次男は優れた作曲家となった。
マリーアは良妻賢母であったが、長男が12歳のときに病死してしまう。

しかし、翌年16歳年下のソプラノ歌手アンナ・マグダレーナと再婚し、
彼女は13人の子どもを生んだ。
夫を心から敬愛し、良き伴侶として平和な家庭を築いた。
バッハは愛する妻や子どももために、数多くの家庭音楽を作曲している。




《 ドイツの3大B 》

【 ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV.1050 】

            Bach(1685?1750)ーバロック音楽  
            Beethoven(1770〜1827)ー古典派音楽
            Brahms (1833?1897)ーロマン派音楽 

3人は、ドイツの3大Bといわれている。
共に生きた時代はないのだが、ベートーベンはバッハの
影響を受け、ロマン主義音楽を開拓した。
ブラームスはバロック音楽・古典派音楽を研究し、バッハと
ベートーベンの影響を大いに受けた作曲をしているので、
新古典派」ともよばれている。

ブランデンブルク協奏曲は全6曲からなっているが、
楽器編成はそれぞれ違っている。
この時代はまだピアノはなく、この第5番の独奏部分は、
チェンバロ、ヴァイオリン、フルートが演奏している。

1721年に完成したこの曲は、ブランデンブルク公の
依頼のより作曲され、献呈された。




《 フルートの調べ 》

【 管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV.1067 】

 バッハは管弦楽組曲を4曲書いているが、その作曲年代に
ついては、他の器楽曲と同様、正確なことは分かってない。

この時代の「古典組曲」は、前奏曲または序曲で始まる、
いくつかの舞曲の集合であった。
その舞曲の数や種類は、曲によって一定してなかったが
“アルマンド”“クーラント”“ジーグ”“サラバンド”の4つの
舞曲からなるものだった。

しかし、これら主要舞曲の間に適宜に、他の舞曲を入れても
さしつかえなかったので“ガヴォット”“メヌエット”“ブーレー”
“パスピエ”“ルール”などの他に、舞曲的性格をもたない
アリアなども取り入れられるようになった。
これは組曲が次第に本来の舞踏音楽的性格から、
純粋器楽に移行していったためである。

「第2番ロ短調」は、フルート協奏曲風の作品で、4曲中
最も親しまれている。
バッハ時代の器楽曲は、あらかじめ演奏者を念頭において
作曲されているので、あるフルーティストのために作曲したのだろう。

そのころは、木管楽器の中でフルートが最も珍重されていたし、
その名手も多かった。
この作品が当時においても今日においても、バッハの管弦楽曲の
代表作であるかのように演奏されるのも、フルートの華やかな
技巧と音色の美しさとが十分に発揮されるように書かれ、
演奏効果がいちじるしい作品だからである。

第1曲ー序曲         第2曲ーロンド 
  
第3曲ーサラバンド      第4曲ーブーレー  
第5曲ーポロネーズ      第6曲ーメヌエッ
第7曲ーパディヌリ              

フランス風序曲で始まり、最後の「冗談」とか「からかい」の
意味のパディヌリは、フルートの溌溂とした軽快な演奏で、
楽しい気分にさせてくれる。




 《 バッハの最期 》

【 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV1068 】【 G線上のアリア 】

 バッハは、1749年に卒中の発作をおこしている。
衰えていた視力が急速に減退し、2度にわたって眼の手術をしたが、
不成功に終わり完全に失明しただけでなく、併用した薬が
害となって体が急速に衰弱した。

一時視力が回復したが、すぐまた卒中の発作がおこり
10日後の7月28日に愛する人々の見守るなか、午後8時45分
静かに、65歳で亡くなったと記されている。
遺体は7月31日に、聖ヨハネ教会の墓地に埋葬された。

バッハは管弦楽組曲を4曲書いているが、その作曲年代については、
他の器楽曲と同様、正確なことは分かってない。

この時代の「古典組曲」は、前奏曲または序曲で始まる、
いくつかの舞曲の集合であった。
その舞曲の数や種類は、曲によって一定してなかったが
“アルマンド”“クーラント”“ジーグ”“サラバンド”の
4つの舞曲からなるものだった。

しかし、これら主要舞曲の間に適宜に、他の舞曲を入れても
さしつかえなかったので“ガヴォット”“メヌエット”“ブーレー”
“パスピエ”“ルール”などの他に、舞曲的性格をもたない
“アリア”なども取り入れられるようになった。
これは組曲が次第に本来の舞踏音楽的性格から、
純粋器楽に移行していったためである。

第5曲からなる「管弦楽組曲 第3番 ニ長調」は、
バッハの死後約百年の間、世の中から忘れ去られていたが、
メンデルスゾーンが演奏会で演奏してから有名になった。

荘重な気分に溢れた旋律の美しい「G線上のアリア」は、
「第3番 ニ長調」の第2楽章を、後にウィルヘルミが
ピアノ伴奏つきのヴァイオリン独奏用に、G線だけで
演奏するように、ハ長調に編曲したものである。
優しいメロディーが作られた年代ははっきりわからない。

「G線上のアリア」のアリアは、オペラ風のアリアを
指すのではなくて、「旋律的な小曲」といった意味で、
原曲はフランス語の「エール」(air)である。

第1曲ー序曲  
第2曲ーエア  
第3曲ーガボット
第4曲ーブーレー
第5曲ージーグ 



《 ヴァルヒャ 》

【 フーガの技法 BWV 1080 】

 バッハの対位法芸術の極致を示す曲として、
「音楽の捧げもの」と共に後世高い評価をされているのが、
「フーガの技法」で、バッハ芸術の最高傑作といわれている。

「フーガの技法」は、フーガとカノンからなっている。

           ・14曲のフーガ(4声と3声)        
           ・カノン「反進行による拡大の」(2声)    
           ・カノン「8度の」(2声)          
           ・カノン「10度の」(2声)         
           ・カノン「5度の対位法による12度の」(2声)
           ・2台のピアノフォルテのためのフーガ 第1  
           ・2台のピアノフォルテのためのフーガ 第2  
           ・3つの主題による未完のフーガ        

ヴァルヒャ,ヘルムート 〔独〕    
(1907.10.27〜1991.08.11) 83歳

オランダとドイツのバロック音楽を専門としていたヴァルヒャは、
ライプツィヒで生まれ、フランクフルトで83年の生涯を閉じた。

彼は幼いころ天然痘に罹り、視力を落とし16歳までに
完全に失明している。
その後は母親に、結婚後は夫人によって、左右の手と足鍵盤の
パートをそれぞれに演奏してもらって暗譜をし、演奏していた。

バッハの作品は40歳頃までに全て覚え、演奏できたといわれ、
バッハのオルガン曲を2度、全曲録音している。

フランクフルト音楽大学で自ら模範演奏をし、オルガンと
作曲の教授をつとめ、多くのオルガニストを育成した。

「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。
ひとたびバッハを体験すれば、この世の生にはなにがしかの
意味があることに気づきます」と述べている。

音楽研究上の貢献として、バッハ未完の遺作「フーガの技法」の
「最終フーガ」を補筆・完成させてもいる。