Brahms
2 - 1
ブラームス,ヨハネス 〔ドイツ〕
(1833.05.07〜1897.04.03)  63歳  (肝臓癌)

           2−1
            【 交響曲 第1番 ハ短調 作品68 】
            【 交響曲 第2番 ニ長調 作品73 】
            【 交響曲 第3番 ヘ長調 作品90 】
            【 交響曲 第4番 ホ短調 作品98 】
            【 ピアノ協奏曲 第1番 ニ長調 作品15 】
            【 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83 】
            【 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 】
            【 ヴァイオリンとチェロの複協奏曲 イ短調 作品102 】
            【 セレナード 第1番 ニ長調 作品11 】
            【 セレナード 第2番 イ長調 作品16 】
            【 ハイドンの主題による変奏曲 作品56a 】
            【 パガニーニの主題による変奏曲 作品35 】
            【 「大学祝典序曲」作品80 】
            【 「悲劇的序曲」作品81 】
            【 管弦楽版 ハンガリー舞曲 】

           2−2

            【 ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34 】
            【 ピアノ三重奏曲 第1番 ロ長調 作品8 】
            【 ピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調 作品101 】
            【 弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 作品18 】
            【 弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 作品36 】
            【 弦楽四重奏曲 第3番 変ロ長調 作品67 】
            【 クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115 】
            【 ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 作品78 】
            【 チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38 】
            【 クラリネット・ソナタ 変ホ長調 】
            【「11のコラール前奏曲」作品122 】
            【 マリアの歌 作品2 】
            【 歌曲「五月の夜」作品43-2】
            【 ドイツ鎮魂歌 作品45 】 
            【「子守歌」作品49-4 】
            【 ラプソディ「冬のハルツの旅」 作品53】
            【 ジプシーの歌 作品103 】
            【 四つの厳粛な歌 作品121 】

          





《 ベートーベン風 》

 【 交響曲 第1番 ハ短調 作品68 】

ブラームス、ベートーベン、バッハの3人をドイツ音楽の「三大B」と呼ばれている。


ブラームスは1833年にハンブルグで生まれたが、
その6年前にバートーベンが世を去っている。

バートーベンが生まれる20年前にバッハは世を去っているので、
3人がいっしょに生きた時はなかった。

バッハ   (1685.03.21〜1750.07.28) 65歳 
ベートーベン(1770.12.17〜1827.03.26) 56歳 

ブラームスは、22歳から52歳の30年間に交響曲を4曲しか
作曲しなかったが、ベートーベン以後の最大の交響曲作者といわれている。

第1番を着手したのは、22歳のときだが完成したのは
21年後で、43歳になっていた。

元々、彼は自己批判に厳格だったが、特に交響曲においては、
偉大な先輩のベートーベンを意識したようだ。
出来上がったものは、たしかにベートーベンと並び立つような
傑作となったのである。

指揮者のハンス・フォン・ビューローは、「交響曲第10番」と
名付けたといわれるが、これはベートーベンが最後に作曲した
「交響曲第9番」に続く名作という意味である。

この曲は多くの点で、ベートーベン風の名曲である。
ベートーベンの交響曲第5番と同じハ短調で、その内容は、
ベートーベン風に「暗黒から光明へ」の精神的闘争となっている。
第4楽章の主要主題は、ベートーベンの交響曲第9番の
終曲「歓喜」の合唱主題と似ているし、その管弦楽法が、
ベートーベン風に地味で全体がベートーベン風にすぐれているのである。

大悲劇の序幕のような第1楽章の序奏は緊張のある強い響きで始まる。

          第1楽章 Un Poco sostenuto-Allegro            
          第2楽章 Andante sostenuto               
          第3楽章 Un Poco allegretto e grazioso          
          第4楽章 Adagio-Piu andante -Allegro non troppo,ma con brio 





《 田園交響曲 》

【 交響曲 第2番 ニ長調 作品73 】

 ブラームスは交響曲を4曲しか作らなかったが、ベートーベン以後の
 最大の交響曲作者といわれている。
 ベートーベンは、南ドイツ人らしく開放的に表出したが、
 ブラームスは北ドイツ人だったので、どこまでもくもった表出をとり、
 おおわれた響きを用い、北国的な暗さと深さをしめしている。

 この第2番は、第1番が出来上がった翌年、オーストリアの
 ヴェルター湖畔の静かな森につつまれたペルチャッハで一気に作曲した。
 その間わずか4ヶ月足らずで、ブラームスにとっては例外的な早さだった。

 第1番とは性格が全く違っていて、ブラームス伝によると、
 ブラームスの「田園交響曲」とみたてられている。

 ベートーベンの交響曲第6番「田園」のように自然描写が
 なあるわけではいが、ただあたたかく喜ばしい気分に富んでいるのだ。
 しかし、この曲はただ喜ばしく楽しいばかりでなく、
 享楽的でもあり、また寂しくもあり、厳粛でもある。

 作品が完成された1877年12月30日に、
 ウィーンにおいて、ハンス・リヒターの指揮で初演された。




《 ブラームスの英雄 》

 【 交響曲 第3番 ヘ長調 作品90 】

ブラームスがこの作品を作曲したのは、
交響曲第2番を書いてから6年後の50歳のときだった。
そのころ彼はウィーンで暮らしていたが、その年の5月の誕生日の
後から10月まで、ウィースバーデンに避暑に出かけていて、
その間の夏から秋にかけて完成させた。

その年の12月2日、ウィーンの音楽協会ホールで初演され、
好評を博して決定的な成功を得た。
ブラームスは、この曲で初めて交響曲作者として
世界的な名声を確保したのだった。

情熱と抒情味にとんで生き生きとした第1楽章。
清浄で愛らしくもある第2楽章。
チェロのロマン的な美しい旋律で始まる第3楽章は、
過去の思い出のようでもあり、夢の憧憬のようでもあって、甘くて美しい。
終曲の第4楽章は、力強く、英雄的だが、結尾は明るく、大きく、
嵐の後の輝かしい虹のようである。

この曲は、ベートーベンの交響曲第3番「英雄」になぞらえて
ブラームスの「英雄」と呼んだのは、初演で指揮をしたリヒターだが、
ブラームスが書いた4つの交響曲のなかで、最も男性的にたくましく、
最も壮大で、最も重々しい。

            第1楽章 Allegro con brio-Un poco sostenuto
            第2楽章 Andante            
            第3楽章 Poco Allegretto         
            第4楽章 Allegro-Un poco sostenuto    

第3楽章は、イングリット・バーグマン主演の映画
「さよならをもう一度」で使われている。




《 秋の気分 》
 

【 交響曲第4番ホ短調作品98 】
 
 ブラームスが作曲した4曲の交響曲は、どの曲も憂愁味をだしているが、
この4番は特別で、作曲したのは52歳のときだった。
人生のさびしさも感じていたただろうし、そのころ読んでいた
「ギリシャ悲劇」などの暗い物語の影響もあったのだろう。
ただうらさびしく秋の気分にさせる。

全体が古めかしい方法で書いている。
しかし、その古めかしさは、人間に永遠に続く過去への追憶として
全ての人に共感される。
人の運命のさびしさ、人の世のはかなさ、全てを達観した者の孤独感・・・
人生の苦しみを味わったものには、心からの慰めでもある。

痛々しい哀愁を感じさせる第1楽章。
長調なのに暗くてしっとりとした第2楽章。
歓楽的ではあるが無気味でもある第3楽章。
シャコンヌ(バスの短い主題を幾度でも繰り返し、その繰り返しの
上に変奏をきずいたもの)の第4楽章。
人の運命のさびしさ、人の世のはかなさ、全てを達観した者の孤独感・・・

            第1楽章 Allegro non troppo     
            第2楽章 Andante moderato     
            第3楽章 Allegro giocoso      
            第4楽章 Allegro energico e oassionato 

チェリビダッケ,セルジュ 〔ルーマニア〕
(1912.07.11〜1996.08.14) 84歳 

ルーマニアのローマンで生まれたチェリビダッケは、指揮者として
ドイツで活躍し、13年前の8月14日にパリで84年の生涯を閉じた。

24歳のときからベルリン大学やベルリン芸術大学で
哲学、数学、作曲、指揮などを学んだ。

ベルリン・フィル管弦楽団の指揮者だったレオ・ボルヒャルトが
事故で亡くなり、その後任指揮者を決めるコンクールで、
審査員全員一致で選ばれたのがチェリビダッケで、そのときに
指揮をした曲がブラームスの「交響曲第4番第1楽章」で、
指揮者デビューを飾るきっかけになった。

常任指揮者だったフルトヴェングラーを尊敬していて、多くのことを学んでいる。


チェリビダッケは世界中で数千人の弟子を教えたといわれ、
彼の音楽論は「音楽は無であって、言葉で語ることはできない。ただ体験のみだ」。

日本にも数度来日していて、禅宗の仏教徒だった。




《 交響曲風 》
 
【 ピアノ協奏曲 第1番 ニ長調 作品15 】

 ブラームスは2曲のピアノ協奏曲を残しているが、25歳のときに作曲した
第1番は、彼の初期の作品に属し、管弦楽を扱った最初の
大規模な作品となっている。

「第1交響曲」を完成したのは、18年後のことなので、
このピアノ協奏曲での管弦楽の技法はまだ円熟したものとはいえず、
青年らしい疾風怒濤的な情熱で、すべてが押しまくられているといった感じである。


この作品は、優れたピアニストだったクララ・シューマンや
名バイオリニストで指揮者でもあったヨアヒムなどに
相談をしながら、4年の歳月をかけて作られた。

独奏ピアノは、管弦楽と対等なものになっていて、
交響曲風な性格をもっている。

1859年1月22日、ハノーヴァーの宮廷劇場の第3回予約演奏会で、
ブラームス自身のピアノ独奏、ヨアヒムの指揮により初演された。

しかし、初演と第2回目は不評を受けた。
思わぬ失敗の打撃と、これより少し前の恋人アガーテとの別離の
苦悩とが重なって、ブラームスはハンブルグに引きこもってしまった。

そのハンブルグで行なわれた第3回目の演奏会で、やっと好評を得て、
それ以後次第にこの作品は認められるようになった。

第2楽章では、ミサの「ベネディクトス」が引用されていて、この楽章の草稿に
「主の御名の下にきたれる者に祝福あれ」という祈祷文が書き記されていた。

1856年に恩人であったシューマンが世を去っているので、
妻のクララへの慰めの気持ちを込めているとも思われ、
静かで落ち着いた、宗教的な気品をももっている。

初演から14年後の1873年に、クララのピアノ独奏で演奏されて、
大絶賛を受けた。
その後は、情熱とロマンチシズムに溢れる傑作として、広く演奏されている。

3楽章からなり、古典的な形式美をみせている。

              第1楽章 Maesutoso    
                   協奏的ソナタ形式。
              第2楽章 Adagio      
                   三部形式     
              第3楽章 Aregro non troppo 
                   ロンド形式    




《 イタリアの印象 》
 

【 ピアノ協奏曲第2番「変ロ長調作品83」】

ブラームスは25歳のときに作曲した第1番を書いてから
20年以上も経ってから第2番のピアノ協奏曲を完成させた。

円熟した境地に入り、管弦楽の扱いにも熟達ぶりをみせ、
野心的な作品となっている。
この協奏曲は、当時としては珍しく4楽章をとっていて、ブラームス独特の
落ち着いた重厚さをもっているが、また明るい朗らかさもある。

ブラームスは、1878年にイタリア旅行をしたが、その折に大変感激し、
イタリアの印象を音楽化しようとし、旅行の直後にこの曲の
スケッチに取りかかっている。

さらに1881年3月、再度のイタリア訪問で以前の構想をよみがえらせ、
帰国後から書き始め、夏には完成させた。

その年の11月9日にブダペストで、ブラームスのピアノ独奏で初演された。

4つの楽章を持つ規模の大きな作品だが、情熱的な激しさもある。

              第1楽章 Allegro ma non troppo
              第2楽章 Allegro appasionata  
              第3楽章 Andante      
              第4楽章 Allegro grazioso   


フリッツ・ライナー 〔洪〕
(1888.12.19〜1963.11.15) 75歳  心臓病

指揮者として活躍したライナーは、ブタペストで生まれた。
リスト音楽院で学び、1909年にビゼーの「カルメン」で指揮者デビューした。

1914年にドレスデン国立歌劇場指揮者となり、
リヒャルト・シュトラウスと親交をもった。

1922年に渡米して、主要な楽団の指揮者として活躍したが、
1953年にシカゴ交響楽団の音楽監督となり、亡くなるまでの10年間、
同楽団の黄金時代を築いた。

ライナーは、レパートリーが広く、録音も多く残しているが、
その中には1958年にエミール・ギレリスのピアノによる、
ブラームスの「ピアノ協奏曲 第2番」もある。





《 唯一のバイオリン協奏曲 》

 【 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 】

 ベートーベンや、メンデルスゾーンとならび三大協奏曲と呼ばれている
名曲の「バイオリン協奏曲ニ長調」は、最も脂ののった時代の
ブラームス45歳のとき完成した、彼唯一のバイオリン協奏曲である。

ベートーベンの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」は36歳の作品。
ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」は、壮年の
最も脂ののった45歳の作品である。
63年の年齢の差があるベートーベンとブラームスだが、どちらの
作品も田園的、牧歌的情緒が多分に織り込まれている大曲だ。

ブラームスがヴァイオリン協奏曲を書く直接の大きな動機となったのは、
前年に大ヴァイオリニストのサラサーテの演奏を聴き、
感銘をうけたことからのようである。

ヨアヒム,ヨーゼフ〔洪〕 
(1831.06.28〜1907.08.15) 76歳

十九世紀後半のドイツ最大のバイオリニストのヨアヒムは、
ハンガリーのプレスブルク近郊のキトゼーで生まれ、
ベルリンで76年の生涯を閉じた。

7歳でデビューし、12歳のときにメンデルスゾーンのピアノ伴奏で
演奏会も開いている。
しかし、同じハンガリー生まれで、20歳年上のリストには好まれなかった。

彼の演奏は、最良の古典的なものに裏付けされ、威厳のある
平静さを保った傷のない技巧をもっていた。
ヨアヒム弦楽四重奏団を組織し、古典時代の作品の演奏にすぐれ、
次代のドイツのヴァイオリニストに大きな影響を与えた。

この作品を作るにあたり、ブラームスはヨアヒムに連絡をしながら、
多くの意見を求めている。
初演はバイオリン独奏をヨアヒムが受け持ち、ブラームスが管弦楽を指揮した。
そして、この曲はヨアヒムに捧げられた。

カデンツァの部分はいろいろな演奏家が書いた楽譜があるが、
ヨアヒムのものは現在でも多く演奏されている。

カデンツァ=協奏曲の中の各楽章に一回ずつやや長く出る独奏楽器単独の
自由装飾奏の部分で、別な人が作ったものを奏することもある。




《 最後の管弦楽曲 》

 
【ヴァイオリンとチェロの複協奏曲「イ短調」作品102 】
          
 ブラームスとヨアヒムは青年時代の無二の親友だったが、
「ヴァイオリンとチェロのための複協奏曲」を書き始めるころは、不和になっていた。
そこで、ブラームスはヨアヒムの意見を求め、不和の解消に努めた。

後にヨアヒム四重奏団のメンバーとなった、チェリストのハウスマンとの
意見の交換もあり、この曲は完成し、初演はブラームスの指揮、
ヨアヒムのヴァイオリンとハウスマンのチェロで行なわれた。

ブラームスはハイドンやモーツァルトの交響曲の影響を受けて
作品11の「セレナード」で初めて管弦楽の世界にはいった。
そして、作品102のこの複協奏曲で終わりを告げた。

ヴァイオリンとチェロを独奏楽器とする珍しい組合わせの複協奏曲は、
高度の技巧をヴァイオリンとチェロに要求しているので、
呼吸の合った二人の独奏者の演奏により、質実で威厳に富んだ作品となる。

アール川に臨んだ部屋の窓からベルンの高地のなんともいえない
美しい氷河の景色、アルプスの威風堂々とした風光を眺めながら
書かれたこの曲は、抒情的で秘めた情熱がただよう力作である。

                 第1楽章 Allegro     
                 第2楽章 Andante     
                 第3楽章 Vivace non troppo 





 《 田園的 》

【 セレナード 第1番 ニ長調 作品11 】

ブラームスは、管弦楽のためのセレナーデを2曲作曲した。。

「セレナード 第1番」ニ長調 作品11
「セレナード 第2番」イ長調 作品16

この2曲は、ブラームスが20代の1857年から1860年にかけて作られた。

そのころ、ブラームスはドイツの西方のリッペ・デートモルトの
領主に仕えていて、領主の妹のフリーデリケ公爵令嬢にピアノを教え、
合唱や管弦楽の指揮をしていた。

「セレナード 第1番」、最初3つの楽章からなる室内楽編成で作られたが、
翌年に2つの楽章を追加して6楽章とし、管弦楽編成に編曲した。

この版での初演は、ハノーファー国王ゲオルク五世の求めに応えて、
1860年3月3日に宮廷劇場のおいて、ヨアヒムの指揮で行なわれた。

ブラームスは同じ種類の2つの曲を、同時にまたは相続いて書く癖があった。
しかし、その2つの曲の性格は違っていた。

モーツァルトのディベルティメントの影響もみられるが、 ハイドンの精神と
技巧で100年前に作曲されたハイドンのニ長調の交響曲第1楽章と
関係があるともいわれ、ハイドン風に軽くて、楽しく田園的にのびのびとして、
幸福感にあふれた作品である。

              第1楽章 Allegro molto       
              第2楽章 Scherzo Allegro non toroppo
              第3楽章 Adagio non toroppo    
              第4楽章 Menuetto         
              第5楽章 Scherzo Allegro      
              第6楽章 Rondo Allegro      




 《 デートモルトで 》

【 セレナード 第2番 イ長調 作品16 】

ブラームスが最初に書いた管弦楽曲は、「セレナード 第1番」だったが、
少し後に「セレナード 第2番」を作曲した。

セレナードの1番と2番は、デートモルトの森の中の生活をしているときの
作品で、喜ばしい感情を表しているが、第2番は第1番よりも喜ばしく
柔和で、しんみりとりて、深く、しかも強烈なところをもっている。

1858の夏に着手され、翌年の9月13日のクララ・シューマンの誕生日に、
彼女に原稿を送っている。

1860年2月10日にハンブルグのヴェルマー・ホールで、フィルハーモニーの
演奏会のときに、ブラームスの指揮で初演された。

              第1楽章 Allegro modetate  
              第2楽章 Scherzo Vivace   
              第3楽章 Adagio non toroppo 
              第4楽章 Quasi Menuetto   
              第5楽章 Rondo Allegro   




《 管弦楽用変奏曲 》 

【 ハイドンの主題による変奏曲 作品56a 】

ブラームスの最初の管弦楽曲は、セレナード第1番だが、
同じころ第2番も書いている。
それから13年後にできたのがハイドンの主題による変奏曲で、
古今の管弦楽用変奏曲の中でもっとも優れているといわれている。

この曲は作品番号が56aとなっているが、作品bは2台のピアノのための
4手曲で、構造はaとbは同じで、速度その他に多少の違いがある。

この曲はハイドンの管弦楽のためのディヴェルティメントの
第2楽章に出てくる「賛美歌、聖アントーニ」を主題として、9つの変奏をつけた。
8つは変奏として番号がついているが、第9は終曲と記している。

ピアノ4手曲は、出来上がるとまもなく演奏されたが、管弦楽曲は
作曲された1873年11月2日にウィーンの音楽協会ホールで行なわれた
フィルハーモニー音楽会の第1回演奏会で、ブラームスの指揮で初演された。




 《 魔術師の変奏曲 》

【 パガニーニの主題による変奏曲 イ短調 作品 35 】

変奏曲の大家ブラームスが、ピアノ独奏用のために書いた
独立的な変奏曲のひとつである「パガニーニ変奏曲」の主題は、
バイオリンの巨匠パガニーニが作曲した無伴奏独奏用の
「24のカプリッチョ」の最後に出ているイ短調の曲の主題である。

パガニーニは、これに11の変奏をつけたが、ブラームスは28の変奏を書いた。

他に、シューマンは「パガニーニの狂想曲による練習曲作品3」と
「パガニーニの狂想曲による演奏会練習曲作品10」を、
リストは「パガニーニ大練習曲」を書いている。

ブラームスは、この曲をピアノ変奏曲の頂点に達したと感じたのか、
その後には独立的なピアノ変奏曲を書かなかった。

1865年11月25日チューリヒで、ブラームス自身の演奏で初演された。




《 お礼として 》

【「大学祝典序曲」作品80 】

ブラームスの管弦楽曲の中で最も広く愛好されている「大学祝典序曲」は、
彼が「笑う」序曲と言ったといわれ、非常に快活で、ユーモラスで、
陽気な作品で、47歳のときに作られた。

前年に、ドイツのプレスラウの大学から名誉博士の称号を受け、
そのお礼として書いたものである。

誰にでも親しまれていた「われらは立派な校舎を建てた」
「国の親父」「新入生の歌」「ガウデアームス」の4つの学生歌を
つづり合わせた接続曲だが、4曲はみな性格が違っている。

この序曲が名曲となったのは、それぞれに違う学生歌に自作の主題を入れ、
すぐれた技巧を十分に用いて全体を1つのものとしてまとめあげていることにある。

管弦楽としては大きな楽器編成で、特にシンバル、トライアングルなど
打楽器が多いのも特徴の曲である。

公開の初演は翌年(1881年)の1月4日に行なわれた。




《「泣く」序曲 》

【 悲劇的序曲 作品81 】

「悲劇的序曲作品81」は、「大学祝典序曲作品80」と同年にできた姉妹曲で、
明るく楽しい「大学祝典序曲」とは反対に暗くて寂しい曲である。
ブラームスは、この曲を「泣く」序曲といった。

友人に宛てて、「この非常に楽しい『大学祝典序曲』を書いた後に、
『悲劇的序曲』も書かないではいられなかった」と報告している。

作曲してまもなく、 両曲をピアノ4手用に編曲して、
シユーマンの夫人クララの誕生日(9月13日)に贈っている。

この輝かしい序曲を、その日の朝受け取ったクララはすぐに稽古をして、
夕方にはブラームスと一緒に演奏したといわれている。

管弦楽版の初演は、1880年12月26日にウィーンの音楽協会のホールで、
フィルハーモニーの第4回演奏会の際、ハンス・リヒターの指揮で行なわれた。

ブラームスの名曲の一つに数えられるニ短調のこの曲は、
二分の二拍子、ソナタ形式で書かれている。




《 ジプシー・ダンス 》

【 管弦楽 ハンガリー舞曲 】

生気があり色彩が豊かなハンガリー舞曲は、ブラームスの全作品の中で
もっとも広く知られている曲にあげられる。
この曲は、いろいろに編曲されて世界中どこでも演奏されている。

1853年にブラームスは、 ハンガリーのヴァイオリニストの
エドゥアルド・レーメニイと演奏旅行をしたが、
その折にジプシー・ハンガリーの音楽を教わった。
ウィーンに行ってからは、そこにいたジプシーの楽団に興味を持ち、
その音楽を書き取った。

1869年にそれらを整理し編曲したものが、
第1と第2の2集(第10曲)にして出版された。

出版後、著作権の問題が発生したが「ハンガリー・ダンス」は、
ブラームス作曲としてではなく、作品番号もない「編曲」となっているし、
その原作なるものは誰の作だかわからず、ブラームスに他人の権利を
おかすつもりがなかったことはだれにもわかったので、
著作権侵害にはならないと判断され解決した。

1880年には、第3と第4の2集(第21曲まで)が出されたが、
前回のことがあったのでブラームスも神経をつかい、創作的なものを多くし、
編曲の仕方も念入りになり演奏もかなり難しくなった。
その結果かどうか、前の2集ほど人気がないようである。

元々は、四手用として2台のピアノで演奏するように書かれているが、
管弦楽版で演奏されることも多い。
激しく強烈な第5番、官能的な第6番の2曲は特に有名で
続けて演奏されることが少なくない。

ハンガリー・ジプシー的な21の小曲を集めたものだが、
その調や様式はいろいろで、自由なリズム、装飾音を用いたメロディ、
激しく変化する速度など即興的な様式をもっている。