
《 室内楽曲の傑作 》
【 ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34 】
ブラームスは、ピアノと弦のための五重奏曲を1曲しか残していない。
彼の室内楽曲の中でも傑作としてあげられるヘ短調は推敲を重ね、
形態もいろいろ変えたため、完成までに6年を要した。
最初は、2つのチェロを使った弦楽五重奏曲として書いたが、
その後2台のピアノ・ソナタの形に直した。
しかし、シューマンの妻クララから「作品は素晴らしいが、2台の
ピアノのためには内容から無理で、変更したらどうか」との手紙を受け取り、
さらにピアノ五重奏に変更した。
力強さと威厳をもそなえた第1楽章、柔和で抒情的でシューベルトを
思わせる第2楽章、北国的な感じで、生き生きとしたスケルツォの第3楽章、
ゆるやかな序奏をおいた第4楽章は、暗く神秘的でシューマンを思わせる。
この曲は、プロシアの王女アンナに捧げられた。
その際、2台のピアノ用の楽譜の原稿を彼女に譲ったところ、
先輩の作曲家の作品の原稿を愛していたブラームスに、
モーツァルトのト短調交響曲の手稿を贈られたという。

《 改作曲 》
【 ピアノ三重奏曲 第1番 ロ長調 作品8 】
ブラームスの「ピアノ三重奏曲 第1番」は2曲ある。
第1作は21歳のときに作られ、非公開の初演は、クララのもとで行なわれた。
公開の初演は、1855年11月27日にニューヨークで行なわれたが、
これがブラームスの作品のアメリカにおける最初の公開演奏だった。
しかし冗長だったことや、湧いた楽想をそのまま次々と採用している感があり、
構成的にも弱味を持っていてことなどから、36年後に改作された。
それは、ブラームスが円熟の極致にあったころのことである。
第2作は1890年2月22日に、ローゼのバイオリン、フンマーのチェロ、
作曲者自身のピアノによりウィーンで初演された。
現在演奏されるのは、ほとんど改作の方である。
形式の点からも第1曲よりまとまりが良く、気分の上でも、
この曲は、ベートーベン的なものも感じられるが、作曲したころは
シューマンから最も多く影響を受けていた時代なので、
シューマン的な技巧やシューマン風なロマン性もみせている。
第1楽章の主題をはじめとして、その楽章の展開と構成とエネルギーにおいても
ベートーベン的なものが感じられる。
長大で抒情的で広々としたピアノとチェロの第1主題で曲は始まる。
ブラームスの親友のカルベックが言う
「波の上に虹がかかり、岸には蝶が舞い、鶯の声を伴奏とする」
ような主題は、この第1楽章ばかりでなく、各楽章の主要旋律とも関係し、
全曲を統一している。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Scherzo.Allegro molto
第3楽章 Adagio
第4楽章 Allegro
《 幸福な時期 》
【 ピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調 作品101 】
ブラームスは、1886年から3年間の毎夏をスイスの雄大な風景に囲まれた
トゥン湖のほとりのトゥンの町で暮らした。
このトゥンの避暑の折に多くの室内楽を書いたが、1年目の5月から
秋までの滞在中に生れた作品が「ピアノ三重奏曲 第3番」だった。
この1年目は、悲しみも悩みもない楽しく幸せな時期で、また生涯のうちで
最も精力的な創作活動を続けることができた。
その年に作曲した歌曲や合唱曲、チェロ・ソナタ、バイオリン・ソナタなどの
作品は、雄大な景色を反映して力強くたくましく威厳を持っていると
同時に情熱に富んでいる。
そのうえ、北国の故郷の野や森に対する郷愁に似た気持ちもひそめていて、
「ピアノ三重奏曲 第3番」も郷愁を強くだし、その反面、精力的な情熱も
激しくもやしている作品である。
私的な初演は、完成後まもなく行なわれたが、公開の初演は、完成の年の
12月20日にブダペストで、フーバイのバイオリン、ポッパーのチェロ、
ブラームスのピアノで行なわれ、翌年に出版された。
第1楽章 Allegro energico
第2楽章 Presto non assai
第3楽章 Andante grazioso
第4楽章 Allegro molto
《 管弦楽的 》
【 弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 作品18 】
ブラームスは、弦楽六重奏曲を2つ残しているが、彼の生涯で最も幸福で
最も実りの多い時期に作られた「弦楽六重奏曲 第1番 」は27歳の作品で、
室内楽の名曲として知られている。
この曲は、楽しく幸福そうで、若々しさと情熱にあふれ、新鮮で色彩ゆたかであり、
音響的であるが単純で民謡風な旋律にとんでいる。
4楽章からなるが、第1楽章は第1ビオラの伴奏が伴った第1チェロの
優雅で親しみやすいクラシカルな第1主題で始まり、
第2主題はシューベルトを思わせる。
レントラー風で、楽しい中にもブラームス独特の感傷味が織り込まれた
親しみやすい楽章である。
第2楽章は主題と6つの変奏でできていて、変奏技法は、ヘンデル、
ハイドン、モーツァルト、青年ベートーベンを思わせる。
主題はベートーベン的であり、民謡風で、単純でありながら精力的な感じをあたえる。
第3楽章は、明るく陽気でユーモラスなベートーベン風のスケルツォ。
第4楽章は、全曲中で最もクラシックな様式を豊かにもつ楽章で、
ハイドン的で行進曲風なチェロの主題で始まり、はなやかに終わる。
弦楽六重奏曲は、27歳の夏に全曲が完成し、
翌年の1861年1月4日にハンブルクで初演された。
ブラームス自身がピアノ四手用にも編曲し、28歳の5月7日の誕生日に
ハンブルグで、クララ・シューマンと2人で初演している。
《 アガーテ六重奏曲 》
【 弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 作品36 】
27歳の作品の「弦楽六重奏曲 第1番 」を作曲したその5年後に完成した
「弦楽六重奏曲 第2番 」は、翌年の4月に出版され、公開の初演は
その翌年の1867年2月3日にウィーンで行なわれた。
完成した年の秋に母親が亡くなった。
5年前に作られた第1番は、単純で民謡風で親しみやすく、
しかも若々しさにあふれて力強く、音響的でクラシックの先輩作曲家の
作曲法研究の影響を示しているのに対して、この第2番は、より繊細で
芸術的で個性的であって、これ以前の曲よりブラームス自身というものを
はるかに明瞭に浮かび出させている。
いっそう穏やかでロマン的である。
この曲は「アガーテ六重奏曲」ともいわれる。
彼は、25歳のときに大学教授の令嬢で、美しい声の持ち主のアガーテと
親しくなり、結婚の約束をしたのだが、婚約破棄をしてしまった。
「この曲で、私は最後に恋愛から自分を解放した」と彼自身が言うように、
家庭に縛られず、自由に芸術活動をしたくて、アガーテと離れてしまった。
そして、その当時の楽しさや彼女から身をひいたために負った良心の
呵責と苦悩からの解放を、この第2番で現わそうとしたといわれる。
この曲は、着手から完成までに11年かかっていて、
アガーテと別れた7年後のことだった。
第1楽章の結尾部で、第1バイオリンと第2バイオリンが
A-G-A-D-H-E(DはTの音名化)の音を使っている。
アガーテの名前(Agahte)を音型化したものともいわれているが、
ブラームス自身が何も語ってないことから、はっきりしたことは分らない。
繊細で芸術的で個性的、穏やかでロマン的な作品となっている。
第1楽章 Allegro non troppo
第2楽章 Scherzo, Allegro non troppo-Trio, Presto giocoso
第3楽章 Poco adagio
第4楽章 Poco allegro
ブラームス自身によって、ピアノ4手用に編曲している。
《 ハイドン風 》
【 弦楽四重奏曲 第3番 変ロ長調 作品67 】
ブラームスは、40歳にいたるまで弦楽四重奏曲を発表しなかった。
最初の曲を発表する前に、約20曲の弦楽四重奏曲を書いたが
満足できるものがなく、破り捨てたといわれている。
その理由は、第1交響曲を43歳まで書かなかった時の心境と同じく、
偉大なベートーベンの残した同種の作品に対する畏敬の念と怖れもあって、
彼の四重奏曲に太刀打ちできる同種の曲を書けぬという
良心的で慎重な態度からのようである。
しかし、第1番を書いてからは3年の間に3曲も同種の曲を出し、
それ以後は死ぬまで弦楽四重奏曲を作り上げなかった。
ベートーベン的な「第1番ハ短調」、バッハ的な「第2番イ短調」に続き
「第3番変ロ長調」は後期のベートーベンを想わせるような入念さで、
ハイドン風の快活さももっている。
モーツァルトの「狩猟四重奏曲」の冒頭にも似ている第1楽章の第1主題。
瞑想的で、牧歌的な趣の第2楽章。
全曲の中で最も愛らしく、最も柔和な第3楽章
民謡風な主題と8つの変奏からなる第4楽章。
この曲の公開の初演は、書かれてから21年後の10月30日に
ヨアヒム四重奏団によって行なわれたが、私的な初演は、その少し前に
ベルリンのクララのもとで同じ四重奏団によって行なわれた。
「ブラームスの新しい弦楽四重奏曲をヨアヒムが演奏してくれた。
非常に驚くべき曲だ。・・・ヨアヒムはこれをひそかに持ってきたのだった」
これは、シューマンの妻クララの日記に書かれたもので、
シューマンが世を去って39年後のことだ。
翌年の5月には、クララが脳卒中で倒れ、77歳で世を去っている。
さらにその翌年にはブラームスも63年の生涯を終えることになるのだが・・・
ブラームスより2歳年上のヨアヒムは、十九世紀後半のドイツ最大の
バイオリニストで、69年に組織したヨアヒム弦楽四重奏団は、古典時代の
作品の演奏に優れ、次代のドイツのバイオリニストに多大な影響を与えている。

《 よみがえった霊感 》
【 クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115 】
1890年頃、ブラームスは自分の霊感が衰え、創作力が減退してきたのを
感じていたため、それまでの仕事を整理し、できるだけ大曲の作曲をやめて、
平和で落ち着いた生活を楽しみたいと考えるようになっていた。
翌年の春、マイニンゲンを訪問し、そこの管弦楽団のクラリネット奏者の
ミュールフェルトの演奏を聴き、彼の完璧な技巧と豊かな音楽性に魅せられ、
クラリネットという楽器を再認識させられた。
そして霊感はよみがえり生まれたのが、クラリネット五重奏曲ロ短調である。
この曲は最もオリジナルで、最も悲愴味に富むもののひとつで、
彼の晩年の特徴である、崇高な諦観、形式の充実した多様性、
ハンガリー的色彩をもっている。
初演は、マイニンゲンの公爵夫人邸での社交のつどいで行なわれたが、
公開初演はベルリンだった。
評判が良くて、リハーサルの切符さえ売切れになったほどだったという。
この曲は、四手ピアノ用に編曲し、さらにまたそれをピアノとヴァイオリンの
ソナタ用に編曲したり、ピアノとクラリネットのソナタ用にも編曲されている。
「ピアノ五重奏曲ヘ短調」の初演は、1868年3月24日
パリのエラール音楽堂で行なわれた。

《 クラリネットの魅力 》
【 クラリネット・ソナタ 変ホ長調 作品120の2 】
作品120の2曲のクラリネット・ソナタは、ブラームスの最後の
室内楽曲であると同時に、最後のソナタにあたり、また、
変奏曲作曲家としての最後の変奏曲をもふくんでいる。
ブラームスは、1891年3月にマイニンゲンで優れたクラリネット奏者の
ミュールフェルトを知り、その音に魅了され、その年の夏に
クラリネット五重奏曲と三重奏曲を作曲した。
それから約3年の間、晩年の余暇にピアノ用の小曲や声楽曲などを
書いたが、クラリネットに対する情熱が去らず、1894年の夏に
2曲のソナタを流れるように書き下ろして完成した。
1892年から4年にわたる3年間は、肉親の姉をはじめ、
多くの親しい人々が先立って死去していったので、その悲しみによる憂愁さ、
それを克服しようとする激烈さ、それと同時に、
老齢の諦観がこの2曲によく出ている。
彼は、クラリネットが他の音響的な性格をもつ弦楽器よりも、
ピアノとの組み合わせに適合しているとみなしていた。
この作品は、晩年の他の作品にみられるような、重厚さよりもむしろ
単純簡明さをもち、親しみやすい作風をしめし、浄化された
子どもらしい無邪気さと宗教的な諦観もみせている。
1番ヘ短調は、いくぶん陰うつだが魅力的で田園的な明るさをもっている。
2番変ホ長調は、愛らしい素直な感じで始まり、
幻想曲風な旋律から、最後は力強く終わる。
この2曲を、ブラームスはヴィオラとピアノのソナタにも編曲していて、
原曲のクラリネット・ソナタに劣らずよく演奏される。

《 夏の雨 》
【 ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 作品78 】
ブラームスは、40歳を過ぎて初めてヴァイオリン・ソナタを出版した。
この曲は第1番と呼ばれているが、それ以前にも数曲書いている。
しかし、3つのヴァイオリン・ソナタしか残してなくて、モーツァルトや
ベートーベンと比べるとその数は非常に少ないが、質の上では
先輩の曲に劣らなくて、ロマン派のヴァイオリン・ソナタのなかの
最高傑作に属している。
この曲には「雨の歌のソナタ」という副題がついているが、彼の歌曲
「雨の歌」の旋律が第3楽章の冒頭に使われていることからきている。
それも、全曲を通して夏の雨の気分が感じられる。
彼は44歳から3年間、毎夏を生地のオーストリアのヴェルター湖畔にある
ペルチャッハで過ごしたが、夏も涼しく風光明媚なその場所で作られた
作品は、どれもそこの景色を想わせるように、爽快で優雅で気品に富んでいる。
私的な初演が行なわれたのも1879年の夏で、ブラームスのピアノと
ヨアヒムのヴァイオリンで行なわれたが、聴き手にはクララ・シューマンもいた。

《 北国的な情緒 》
【 チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38 】
ブラームスは、チェロとピアノ用の二重奏を3曲以上作っているが、
2曲だけしかのこっていない。
その2曲ともロマン派時代のチェロ・ソナタの代表的な傑作となっていて、
ベートーベンの作品とならんでよく演奏されている。
「第1番ホ短調」は、各楽章が全て短調なので、荒涼とした感じのもので、
寒々とした北国的な情緒をもっている。
それと、チェロが高音域には稀にしか上がらず、ほとんどピアノより
低い位置にあって、深みのある音を出している。
第3楽章は、対位法を各所できわめて巧妙に使っていて、重厚で立体的である。
フルニエ,ピエール 〔仏〕
(1906.06.24〜1986.01.08) 79歳
気品のある容貌と優雅で洗練された演奏で「チェロの貴公子」と呼ばれた、
フランスのチェロ奏者のフルニエはパリで生まれた。
パリ音楽院を卒業後パリでデビューし、注目された。
日本には度々来日し、親日家として知られていて、夫人は日本人である。
ソリストとしての活躍の他に、室内楽を多く手がけていて、
ブラームスの「チェロ・ソナタ」は、ヴィルヘルム・バックハウスとの演奏での
録音で名盤がのこされている。

《 この世との別れ 》
【 「11のコラール前奏曲」作品122】
「11のコラール前奏曲」は、ブラームスが亡くなる前年に書いた、
宗教的なオルガン曲で、最後の楽譜となった。
第1、主よ、我を導きたまえ
第2、愛するイエスよ
第3、この世に別れをつげよう
第4、わが心は喜びに満ちて
第5、装え、おお愛する魂よ
第6、あなたたちはどんなにか祝福されよう
第7、尊い神よ
第8、一輪のばらが咲いて
第9、わが心からの望み
第10、わが心からの望み
第11、この世に別れをつげよう
この年の3月、病弱だったクララ・シューマンが脳卒中で倒れ、
5月20日静かに世を去った。
ブラームスは知らせを受けて大急ぎで駆け付けたが、途中で
物思いにふけって汽車を間違えたりして、葬儀には間に合わなかった。
それから埋葬場に急ぎ、やっと愛する女性の墓に自ら一握りの
土をかけることができた。
この悲しみと疲労が重なって身体の調子が悪くなり、友人の勧めで
医者に診てもらうと、父親と同じく肝臓癌だった。
いろいろな療法も効き目がなく、別人のように痩せていき、
3月下旬には床から離れることができなくなっていた。
4月に入ると昏睡状態が多くなり、4月3日に見舞客への
「君は親切な人だ」との言葉を最後に、それから2時間後の午前8時30分、
63年の生涯を閉じた。
葬儀は盛大に行なわれ、6日に遺体はウィーン中央墓地の尊敬する
楽聖たちの眠る近くに葬られた。

《 無伴奏混声合唱曲 》
【 マリアの歌 作品22 】
ブラームスは1959年の初めに、西洋医学を日本に伝えたシーボルトの
従兄弟の子どもにあたるアガーテ・フォン・ジーボルトとの婚約を精算して、
春にゲッティンゲンからハンブルクに転居した。
そして、その地で女声合唱団を組織し、合唱曲を書くようになったが
「マリアの歌」を作曲したのは、ハンブルク到着後まもなくで
7月に完成している。
1859年9月19日にハンブルクにおいて、ブラームス自身の
指揮により初演された
「マリアの歌」は7曲からなる無伴奏混声合唱曲集で、宗教的な
題材を用いているが、宗教音楽ではない。
「古いドイツの教会音楽と民謡」の様式を土台とし、重厚さのなかに、
民謡的な親しみやすさと陽気さをもみせている作品である。
第1曲 天使のあいさつ
第2曲 マリアの教会詣り
第3曲 マリアのさすらい
第4曲 狩人
第5曲 マリアへの呼び声
第6曲 マグダレーナ
第7曲 マリアの讃歌

《 ヘルティの詩 》
【 歌曲「五月の夜」作品43-2】
ブラームスは生涯に、およそ300の歌曲を作曲した。
作品43の歌曲集は4曲からなり、第1曲は「永遠の愛」、
第2曲が1866年に作曲された「五月の夜」で、北ドイツ生まれの
抒情詩人のヘルティ(1748-1776)の詩に基づいている。
不協和音を適切に挿入し、転調を効果的において五月の夜をいっそう
切実に感じられるようにしたので、暗くて寂しいしかも甘さのある名曲である。
銀のような月が 茂みを通して照り
その眠そうな光が 芝草にこぼれ
夜鷹が鳴くとき
私は寂しく 藪の中をさまよう
葉かげの下で 一つがいの鳩が
私に歌をきかせる
しかし 私は歩みを転じて
いっそう暗い影を 求めてゆく
私の眼からは 寂しい涙が流れる
おお朝の光のように
私の魂に 輝き入るほほえましい姿よ
いつの日に 私はこの世でおまえに会るのか
寂しい涙の私の 頬にだんだん熱くなる

《 ブラームス のレクィエム 》
【 ドイツ鎮魂歌 】
死んだ人の霊をしずめなぐさめる音楽であるレクィエム(鎮魂歌)は、
一般にラテン語の歌詞に付曲されていて、カトリック教会の礼拝式に歌われる。
ブラームスのレクィエムは、ドイツ語を歌詞とする音楽会用のものであるが、
カトリック教会の礼拝式で歌われるものではない。
創造主の力、人生の無常さ、審判の恐怖、死への運命慰め、
残された者の悲しみ、復活の希望の7つの部分で出来ていることなど、
形式的にも内容的にも、レクィエム以外のなにものでもない。
このレクィエムの完成までには、約10年間の歳月が流れている。
1856年の夏に恩師シューマンが悲劇的な生涯を閉じ、ブラームスの悲しみ、
死者への冥福の祈りがこの「ドイツ・レクィエム」を作曲する動機になったと
いわれているが、年老いてから夫と別居をし、寂しく死んだ母のために
いそいで完成させている。
初演は、1867年12月1日にシューベルトを記念するウィーン楽友協会の
音楽会で、初めの3曲だけが演奏された。
最後の第7曲はラテン語のレクイエムと大体同じで、
「主にありて死ぬる死人は幸福なり」と、昇天した人々の
久遠の平和を祈るように穏やかに歌われ終わりを告げる。
全7曲の初演は、2年後の2月18日にライプツィヒで行なわれた。

《 ブラームスの子守歌 》
【 「子守歌」作品49-4 】
ブラームスは生涯に約300曲の歌曲を残している。
「子守歌」はブラームスの歌曲の中で最も通俗的に有名な曲といえる。
ブラームスは25歳のころ、ハンブルクで女声合唱団の指揮をしていたが、
そのとき歌の上手な ベルタ・ファーバーと親しくしていた。
それから10年後、ファーバーが次男を生んだことを聞き、
お祝いに作曲し贈呈したのが「子守歌」である。
ウィーン風のワルツを好んで歌っていたことを思い出したブラームスは、
そのワルツをピアノ伴奏に使い、それに旋律をつけた。
歌詞は、ゲオルク・シュラーの「絵入りドイツ子供読本」の
童謡から、改作して取り入れた。
子どもを優しく愛撫するような切分音の伴奏におだやかに
ゆりかごを揺さぶりながら眠りにつかせる歌声を置いている。
子守歌
おやすみよ
薔薇の屋根に石竹の飾りの中に
明日の朝
神さまが起こしてくださるまで
おやすみよ
天の使いに守られて
お使いたちは夢の中で
幼いキリストの木をみせてくださる
楽しくやすんで
天国の夢をみなさい
(歌詞大意)

《 恋物語 》
【 ラプソディ「冬のハルツの旅」 作品53 】
ブラームスの父は、サロンの小さな楽団のコントラバス奏者で、
生活は豊かではなかった。
母は父より17歳年上で、3人の子どもを授かった。
長女のエリーザベトは病気がちだった。
弟のフリッツは音楽で身をたてたが、兄のブラームスとは
気が合わなかったといわれる。
おとなしい性格だったブラームスは、音楽に対しては鋭い反応をみせ、
6歳のころには自己流の楽譜を考え出して、作曲をしていたといわれている。
ブラームスとシューマンの妻クララは親しい間柄だったが、
ラプソディ「冬のハルツの旅」は、クララの三女ユーリエを
思って書かれた作品である。
ブラームスは、密かに彼女を思っていたが、打ち明けることは
しなかったので、ユーリエは某伯爵と婚約してしまい、
心の痛手を癒すために作られたのである。
ゲーテの「冬のハルツの旅」に基づいたアルト独唱、男声合唱
および管弦楽のためのラプソディで、第3部からなる。
第1部 Adagio
第2部 Poco andante
第3部 Adagio

《 ハンガリー・ジプシー的 》
【 ゾプシーの歌 作品103 】
ブラームスは、ハンガリー・ジプシーの要素を取り入れた音楽を好んで
作曲したが、「ジプシーの歌」はピアノ伴奏をもつソプラノ、アルト、
テノール、バスの4つの声部のためのもので、11曲からできている。
第1曲 「おおジプシーよ」
第2曲 「浪だつリマ」
第3曲 「いつかご存知」
第4曲 「神様、あなたは知っておいでだ」
第5曲 「日焼けした若者」
第6曲 「三つの赤いバラが」
第7曲 「聖なる誓い」
第8曲 「ほら、風が」
第9曲 「だれも私を見ようとしない」
第10曲 「月もその姿を」
第11曲 「赤い夕焼雲」
全11曲は、ハンガリー・ジプシー的な性格をもっていて、
全て四分の二拍子で書かれている。
ジプシーの感傷や情熱を示す点で一致し、動機的、調的にも
関係づけられているが、それぞれ異なる技巧を駆使していて、
どの曲も一つとして同じ色彩感覚を示していない。
形式、旋律、リズム、そして和声は、単純で親しみやすく、ブラームスの
数多い声楽曲の中で、最もひろく愛好されうるものとして役立っている。
1888年11月26日にロンドンの「月曜ポピュラー・コンサート」で初演された。
ブラームスの「ジプシーの歌」は、この曲の他にも作品112の
6つの四重唱曲の後半の4曲も同じ題名をもっている。

《 最後の歌曲 》
【 四つに厳粛な歌 作品121 】
厳粛、真剣、荘厳な傑作の 「四つに厳粛な歌」はブラームスの
最後の歌曲で、彼の死の前年の5月、クララが世を去る前に作曲された。
それまでの歌曲の、ロマン主義的な感性ではなくて、
バロック風な温かい様式になっている。
自分の生涯の終わりを感じ、また深く慕っていたクララ・シューマンの
最期を予知して、死を真剣に考え、死を祝福し、愛による解説を
歌ったもので、歌曲の歴史を知る最高の宝に属している。
第1曲「人の子らに臨むところは」
第2曲「私はすべてのしいたげを見た」
第3曲「死よ思うも痛まし」
第4曲「たとえ人々や天使の言葉を語っても」
歌詞は、全て聖書からとられた。
