2−1
メンデルスゾーン,ヤーコブ・ルードヴィヒ・フェリックス 〔ドイツ〕
(1809.02.03 〜 1847.11.04)  38歳

         2−1
          【 交響曲 第1番 ハ短調 作品11 】
          【 交響曲 第3番 イ短調 作品56「スコットランド」】
          【 交響曲 第4番 イ長調 作品90「イタリア」】
          【 交響曲 第5番 ニ短調 「宗教改革」作品107 】
          【 ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25 】
          【 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 】
          【 バイオリン協奏曲 ニ短調 】
          【 序曲「フィンガルの洞窟」作品26 】
          【「真夏の夜の夢」序曲 作品21 】
          【 序曲「海の静けさと幸福な船旅」作品27 】
          【 序曲「ルイ・プラス」作品95 】
         2−2
          【 弦楽四重奏曲 変ホ長調 作品12 】
          【 弦楽八重奏曲 変ホ長調 作品20 】
          【 ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 作品49 】
          【 無言歌集 】
          【 オラトリオ「エリア」作品70 】
          【 歌曲「歌の翼に」作品34-2 】







《 15歳の作品 》

【 交響曲 第1番 ハ短調 作品11 】

メンデルスゾーンは1809年2月3日、裕福な銀行家の子として
ドイツのハンブルクで生まれた。
ユダヤ系ドイツ人の家系で、父は銀行家、祖父はカントにも
影響を与えた哲学者だった。
ゾロモン家出の母はベルリンのユダヤ系銀行家の娘で、
メンデルスゾーンにピアノの手ほどきをした。

子どものころから、オーケストラの演奏ができるような邸宅に住み
幸福な音楽家の生活をおくった。
1843年ライプツィヒ音楽学校を創設し、作曲家・指揮者として
多忙な活躍を続けたが、1847年5月に仲の良かった姉ファニーの
突然の死の衝撃が大きく、異常に疲労していた身体に神経の障害を
引き起こし、病状がしだいに悪化して死の前日に意識を失い、
11月4日にライプツィヒで、短い生涯を終えてしまった。

彼の良き妻だったセシルも、34歳の若さで6年後に
結核でメンデルスゾーンのあとを追った。

彼は、短命だったが多くの作品を残している。
交響曲は5曲あるが、作品番号は出版された順序になっている。

交響曲 第1番 ハ短調 作品11  (1824年)   
交響曲 第2番 変ロ長調 作品52「賛歌」(1840年)

15歳のときに作曲した「交響曲 第1番」には「交響曲13番」と記されていた。
12曲の弦楽のための交響曲に続いて書かれたためだが、
出版者が、初めてフル・オーケストラで書かれていたので
「交響曲 第1番」として出版された。

初演はライプツィヒで行われたが、ロンドンにおいて絶賛されている。
後にメンデルスゾーンは、ロンドン・フィルハーモニック協会の
名誉会長に推挙されている。

4楽章からなるなるが、15歳の青年の作品とは思えない作品である。

              第1楽章 Allegro di molto   
              第2楽章 Andante       
              第3楽章 Menuetto,Allegro molto
              第4楽章 Allegro fon molto   




《 旅の印象 》

【 交響曲 第3番 イ短調 作品56「スコットランド」】

メンデルスゾーンの5つの交響曲の中で第3番「スコットランド」が
最も多く演奏されるが、第4番の「イタリア」と同様、旅の印象を
直接の契機として生まれた作品である。

20代を迎えた直後の1829年春から1832年にかけて、
広くヨーロッパ各地を旅行した。
その折、メリー・スチュアートが住んだエジンバラの古城ホリルードを訪れ、
その印象的な風景の中に立って、女王メリーが住み、恋をした
劇的な物語に思いをはせたようだ。

この体験は、彼の鋭敏な感受性を強く刺激し「スコットランド」の
冒頭の楽想が浮かび、10小節を書きとめたものの
完成されたのは13年後のことである。
初演に続きイギリスに招かれて、ロンドンでの演奏会でも作曲者自ら
指揮をしたが大成功を納め、この曲はヴィクトリア女王に献呈された。
スコットランドのメリー女王の第九代の末孫が、名君ヴィクトリア女王である。

曲は4つの楽章からなるが、幻想の糸を切らぬようにとの思いからか、
各楽章が切れ目なく演奏されるように書かれ、
当時としては斬新な手法であった。

メンデルスゾーンの長所である旋律の美、構成上の均衡、
すぐれた磨きなどにくわえて、旋律は甘美で歌うように流れ、和声も美しく、
形式も整っていて、詩的幻想の豊かさが多くの人から愛されるものとしている。

    第1楽章 Andante con moto - Allegro un poco agitato - Andantecomo primo
    第2楽章 Vivace non troppo           
    第3楽章 Adagio                 
    第4楽章 Allegro vivacissimo - Allegro maestoso assai




 《 旅の思い出 》

【 交響曲 第4番 イ長調 「イタリア」作品90 】

メンデルスゾーンは5つの交饗曲を作曲しているが、この第4番と
第3番「スコットランド」(1842年)は演奏される機会が多い。

「イタリア交饗曲」の初演は1833年5月13日、
ロンドン・フィルハーモニー協会で、メンデルスゾーンの指揮で行なわれ、
ロンドン・フィルハーモニー協会に捧げられた。

しかし、彼はこの曲に満足できず後に改訂したものの生存中には出版もせず、
ドイツでの初演は彼の死の2年後、ライプチヒで行なわれた。
このため、「スコットランド」よりもずっと前に作られているにもかかわらず、
番号は後になっている。

メンデルスゾーンは20歳から23歳にかけて、イギリス、
イタリア(ローマとナポリ)、スイス、フランス(パリ)を旅している。
イタリアでは、ローマ民衆の浮かれ騒ぐ謝肉祭も、
教皇グレゴリウス十六世の荘厳な就任式も見ることができた。

この曲は、ロンドン・フィルハーモニー協会から交饗曲の作曲の依頼を受け、
ローマ滞在中に書き始められ長い旅を終わって、
ベルリンの自宅に戻ってから書き上げた。

第1楽章では、メンデルスゾーンが初めてイタリアの輝かしい空を眺め、
紺青の水を眺め、オレンジ実る緑の野山を眺めた第一印象が、主題に現れる。
ローマの謝肉祭で、町をあげて踊る愉快な戯れの姿から着想したと思われる
第4楽章は、「サンタレロ」と題されている。
「サンタレロ」はローマの民衆的な舞曲で、男女が組んで腕を広げ
脚をあげて進み退き回転し、激しく賑やかに、かつ優美に踊る素朴快活ものである。

              第1楽章 Allegro vivace   
              第2楽章 Andante con moto 
              第3楽章 Con moto moderato 
              第4楽章 Saltarello : Presto  
 




《 宗教改革300年祭 》

【 交響曲 第5番 ニ短調 「宗教改革」作品107 】

交響曲第5番は、宗教改革300年祭のために作曲された。
メンデルスゾーンはユダヤ人だが、父の代にキリスト教に改宗し、
プロテスタント派に属したので、300年祭にあたって
宗教改革を祝うために作られた。

新約聖書をドイツ語に翻訳したマルティン・ルーテルは
新教(プロテスタント教)を確立したので、キリスト教はカトリック教(旧教)と
プロテスタント教(新教)とが並立している。

この曲は1830年6月25日の宗教改革300年祭に初演されるはずだったが、
カトリック教会の抗議によって中止された。
結局、1832年11月15日、ベルリンのジングアカデミー奏楽堂で
メンデルスゾーンの指揮のもと初演された。

             第1楽章 Andante- Allegro con fuoco    
             第2楽章 Allegro vivace          
             第3楽章 Andante             
             第4楽章 Andante con moto - Allegro vivace 
              




《 華やかなコンチェルト 》
 
【 ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25 】 

メンデルスゾーンの協奏曲は数曲あるが、第1番ト短調は彼自身が
印刷させた最初の協奏曲で、自信作でもあり意欲作でもあった。
20代を迎えた直後の1829年春から1832年にかけて、
広くヨーロッパ各地を旅行しているが、その間に計画され、
初演の数日前に完成している。

1歳年下のショパンとリストにパリで会い、
友人になったのはその年だった。

この協奏曲は、1831年ミュンヘンでのチャリティー演奏会で、
メンデルスゾーン自身のピアノで初演された。

バイエルン国王も出席し、大成功だったといわれる。

メンデルスゾーンらしい上品さと、わかりやすい旋律の
魅力に富む作品であり、適当に劇的な力と感傷性もそなえ、
華やかな輝かしさももっている。

3つの楽章からなっているが、各楽章は休みなく接続していて、
楽章間の接続には2回ともファンファーレを置いている。

この曲は、ピアノの弟子だった若い女性ピアニストのシャウロートに
捧げられたが、彼女はメンデルスゾーンよりも4歳年下で、
二人は恋愛関係にあったともいわれている。

                第1楽章 Molto allegro
                第2楽章 Andante  
                第3楽章 Presto   
 



ゼルキン,ルドルフ 〔墺→米)
(1903.03.28〜1991.05.08) 88歳

二十世紀の大ピアニストの1人に数えられるボヘミア出身のゼルキンは、
ロシア系ユダヤ人の両親の間に生まれた。

8歳のときからウィーンに住み、ローベルトにピアノを、
シェーンベルクに作曲を学んだ。
12歳でウィーン交響楽団とメンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲 ト短調」を
共演してデビューし、演奏活動を始めた。

33歳のときに、トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルと共演して
アメリカデビューをし、3年後にアメリカに移住した。
独奏家として活躍するかたわら、カーチス音楽院で教えた。

ドイツ音楽を得意としたゼルキンは、1960年に初来日をし、
最盛期の充実し切った演奏を聞かせた。
その後も最来日している。




《 少年の作品 》

【 バイオリン協奏曲 ニ短調 】

メンデルスゾーンが作曲したバイオリン協奏曲は、あまりにも有名な
「ホ短調」の曲1曲しか残されてないと考えられていたが、1951年の
春になってバイオリニストのユーディ・メニューインが、ロンドンで
メンデルスゾーンの子孫にあたる家族から「ニ短調」の草稿を見せられて、
初めてこの曲が世に知られるようになった。

この曲は、1853年にメンデルスゾーンの未亡人から、当時の優れた
バイオリニストでメンデルスゾーン家にとって親しい友人でもあった
フェルディナント・ダヴィット(1810〜1873)に贈られたもので、
草稿には1853年5月24日に未亡人から贈呈されたことが記されている。

さらに、別の筆跡で「E・リーツのために1822年作」と作曲した年が書かれてあった。
エドゥアルト・リーツは、当時のメンデルスゾーンの先生であり、友人でもあった。

13歳の少年の作品とは思えないくらいに、作曲技法の点からも、
構成的なまとめ方の上からも、しっかりとしたものをみせている。

3楽章からなる「ニ短調」は、22年後に書かれた「ホ短調」との共通性もあり、
曲の雰囲気も互いに似通っていて、バイオリンの大家の風格が感じられる。

                第1楽章 Allegro 
                第2楽章 Andante
                第3楽章 Allegro 




《 記念碑的な名曲 》

【バイオリン協奏曲 ホ短調 作品64】

メンデルスゾーンは短命だったが、作曲家としてはまれにみる
多幸な生涯で、多くの作品を書いた。

バイオリン協奏曲はホ短調と、13歳のときに作曲したニ短調の2曲しか残さなかった。

「ホ短調」は35歳の作品だが、メンデルスゾーンの全ての作品の中で
最もすぐれたものであるばかりでなく、ドイツ・ロマン派の生んだ
最も豊麗な協奏曲として記念碑的な意義をもつ作品である。

メンデルスゾーンの作品の特徴である、やわらかいロマン的情緒と
均斉のとれた形式美が、豊かにしっくりと調和していて、魅力的な
バイオリンの扱いで、歌と華麗な技巧をたくさん盛り込んでいる。

この名曲は、29歳のときに着想されたが、完成したのは6年後のことだった。
翌年の1845年3月13日ゲヴァントハウスの演奏会で初演され、成功であった。

全曲は3つの楽章からなり、それらは中断することなく演奏される。

第1楽章は幸福と、満ちたりた者の憂愁とをもったような
美しい旋律で始まり、情熱的に曲は結ばれる。
抒情的な甘美な第2楽章。
軽快でもあり、情熱的でもある第3楽章は、
力強く全管弦楽の演奏で曲を終わる。

            第1楽章 Allegro molto appassionato      
            第2楽章 Andante               
            第3楽章 Allegro non troppo - Allegro molto vivace




《 第1級の風景画家 》 

【 序曲「フィンガルの洞窟」作品26 】

「フィンガルの洞窟」は、スコットランド北西沖の大平洋にある
ヘプリディース群島のうちの、スタッファ島にある大洞窟で、
その地方の伝説上の国王フィンガルの名を採って
「フィンガルの洞窟」と呼ばれている。
別名「ヘプリディース序曲」ともいわれる。

ソナタ形式の演奏会用序曲だが、内容的には洞窟付近の風景を
描写した標題音楽で、かもめ飛ぶ島の岸、緑の海に口を開く大洞窟、
岩に寄せる白波の姿を目に見えるように、音で描いた作品である。

この曲を聴いた大作曲家ワーグナーは、メンデルスゾーンを
「第一級の風景画家」と賞嘆したが、確かにまったくなんの説明も
要しないほど、この孤島の淋しい美しさを描いている。

メンデルスゾーンは、20歳の1929年の春に初めてロンドンへ
演奏旅行を行ない、その折にスコットランドに旅してこの洞窟を見、
家への手紙に、この序曲の最初の主題の楽譜を書いて送っている。

その冬ベルリンに戻ってからある席で、この島の景色をたずねられて、
「口では言えませんが、音にするとこんなふうです」とピアノに向かって、
この序曲の主題とその先の未完成草稿を弾いて聴かせたという。

彼は、翌年から1932年にわたり、ドイツ各地をはじめ、
オーストリア、イタリア、フランス、イギリスと広範囲に大旅行を
行なっているが、そのことは彼の音楽に大きな教養と、霊感を与えている。

この曲の初演は1932年5月14日にロンドンの
コヴェント・ガーデン座でのフィルハーモニー協会の
演奏会で、メンデルスゾーンの指揮のもと行なわれ、
絶大な喝采をあびた。




《 壮麗な演奏会用序曲 》

【 序曲「ルイ・プラス」作品95 】

「ルイ・ブラス」 は、フランスの文豪の

ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)が
書いた5幕の戯曲につけて上演される目的で作曲したもので、
標題的なものではなく、壮麗な演奏会用序曲である。

1839年の2月に慈善興行で上演するために依頼され、
3日間で書き上げたといわれている。
翌月の3月11日にライプチッヒの国立劇場でメンデルスゾーンの
指揮により初演された。

スペイン中世の宮廷の召使男が、女王に愛されて高官にのぼり、
彼女の名誉を傷つけまいとして自らを犠牲にするお話。

3つの主題を持つが、荘厳で劇的な序奏の後活動的な第1主題、
感傷的な第2主題、明快な第3主題、華やかな終結部と進む。




《 夢幻的で空想的 》

【「真夏の夜の夢」序曲 作品21 】

イギリスの文豪シェイクスピア(1564〜1616)の戯曲「真夏の夜の夢」は、
真夏の夜の幻想を描くおとぎ話的な喜劇で、
詩とユーモアにみちた楽しい戯曲である。

この劇には所々に音楽が用いられるが、原作には使用楽曲についての
指定はなく、あり合わせの曲を用いていたが、今では一般に
メンデルスゾーンの作った有名な劇中音楽が使われている。

1、序曲 2、スケルツォ・・・13、劇景と終曲と13曲で作られているが、
序曲はメンデルスゾーンが17歳のときに、4つ年上の姉のファニーとともに、
ドイツ訳の戯曲を読み、8月6日に完成している。
初めは、ピアノ連弾の曲として作られ、ファニーと二人で演奏したが、
後に管弦楽曲に作曲した。
夢幻的な空想的な気分をよくあらわした傑作である。

序曲以外の劇中音楽は、17年後にプロシア国王
フリードリヒ・ウィルヘルム四世の命によって作曲されたものである。

その13曲の中から、「序曲」「スケルツォ」「間奏曲」「夜想曲」
「結婚行進曲」の5曲は、交響楽演奏会の曲目として演奏されることが多い。
中でも「結婚行進曲」は、今日多くの結婚式でつかわれている。

戯曲の「真夏の夜の夢」の真夏は、1年中で最も昼の長い夏至の頃の
聖ヨハネ祭(6月24日)の前夜を指していて、西洋ではその夜
いろいろな幻想的な怪異がおこるという俗信がある。




 《 ゲーテの短詩 》

【 序曲「海の静けさと幸福な船旅」作品27 】

シェークスピアの戯曲を題材とした「真夏の夜の夢」序曲を書いた
2年後の1828年に作曲した「海の静けさと幸福な船路」は、
文豪ゲーテ(1749〜1832)が1787年にシチリア島に旅行したときの
思い出を描いた二つの短詩に着想して書かれた。

静かな暗い海と、明るい活動的な海とを対照的に扱った演奏会用序曲で、
浪漫的な美しさにみちている。

1835年にライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会で当時常任指揮者だった
メンデルスゾーン自身の指揮で初演された。

海の静けさ  Adagio              
幸福な船路  Molt Allegro vivace-Allegro maestoso



海の静けさ

深い静けさが水面を支配し
海はじっとして休息している
そして舟人は気づかわしそうに
あたりのたいらな水面を眺めている
どっちのほうからも風は吹いてこない
死のような恐ろしい静けさ
果て知れぬ遥かな方まで
一つの波もうごかない



幸福な船路

霧はあがって 空は明るい
エオルス(神風)は心がかりな紐を解くと
風はざわめき 舟人も働き出す
急げ 急げ
波は分かれ 遠方も近づき
もう陸地が見えてくる