
《 習作 》
【 交響曲 第1番 ニ長調 D82 】
シューベルトは1797年1月31日にウィーンの
リヒテンタールで生まれた。
父親はウィーン近郊の教区の校長で、再婚した後の
子どもも含めて、15人の父親だった。
その半分は若死しているものの、子どもを育てるための
経済的負担は大きく、楽な生活ではなかった。
教育家の父は厳格で、後年シューベルトに楽才があることを
認めても、生活の安全のため専門家になることを喜ばず、
自分と同じ教師になることを強要した。
11歳のとき、宮廷の費用で教育を受けられる官費学校に入った。
そのころから多くの作曲をしていたが、貧しくて5線紙を買うお金も
なかったが、シューベルトには援助をしてくれる数多くの
取り巻きがいて、援助をしてくれた。
シューベルトの交響曲の「第1番」から「第3番」までは、
彼の若いころの作品で習作であり、特殊の立場からならばともかく、
鑑賞者の立場からならば問題にならないともいわれるが・・・
「交響曲第1番 」は、わずか16歳のシューベルトが、
中学校のラング校長の誕生日を祝って作曲したものであるが、
十分に鑑賞できる作品である。
公開の初演は、シューベルトの死の52年後の
1880年2月5日にロンドンで行なわれた。
第1楽章 Adagio:-Allegro Vivace
第2楽章 Andante
第3楽章 Menuetto : Allegretto
第4楽章 Allegro Vivace

《 D番号 》
【 交響曲 第3番 ニ長調 D200 】
シューベルトは14曲の交響曲の作曲を試みた。
しかし、6曲は未完であることから、「未完成交響曲」意外には
番号はつけられていない。
NHKが国際シューベルト協会の番号付けに合わせているので一般的だが、
元々付けられた番号のままでとの考え方も多くあるようだ。
第1番 ニ長調 D82(1813年)
第2番 変ロ長調 D125(1814年)
第3番 ニ長調 D200 (1815年)
第4番 ハ短調 D417 (1816年)「悲劇的」
第5番 変ロ長調 D485 (1816年)
第6番 ハ長調 D589 (1817年)
第7番 ロ短調 D759 (1822年)「未完成」
第8番 ハ長調 D944 (1828年)「ザ・グレート」
一番短い第3番は18歳の作品で、モーツアルトやハイドンの
影響を受けているが、民謡との関係もある。
初演は、 シューベルトの死の53年後になる1881年2月19日に
ロンドンでの「水晶宮コンサート」で行なわれた。
第1楽章 Adagio maestoso-Allegro con brio
第2楽章 Allegretto
第3楽章 Menuetto : Vivace
第4楽章 Presto Vivace
D番号ー=ドイチェ番号
モーツァルトのケッヘル番号ほど一般には知られていないが、
シューベルトの作品は、作品番号が作曲年代順についてなかったため、
後にオーストラリアの音楽学者のドイチェが、
ほぼ作曲年代順に並べかえて番号をつけた。
ドイチェの頭文字Dを前につけた数字によって、この番号が示されている。

《ロマン派的な手法》
【 交響曲 第4番 ハ短調「悲劇的」D417 】
シューベルトの作品は、人の心の自然な思いが、素直に流れ出た
ロマンティックな作品で、なんの気取りもなく、あまりに純粋なので、
理屈抜きに聴き手は胸にじんとくる。
健康的で、ひねくれたところのない音楽といえる。
彼は短い一生のうちに14曲の交響曲の作曲を試みているが
未完成のものが多く、番号も一定していない。
3番までは習作で、交響曲作家として一人前になったのが、
19歳のときの作品の第4番である。
副題の「悲劇的」は、後に作曲者自身がつけたものだが、
その年月はあきらかでない。
この曲が公開の演奏会で演奏されたのは、シューベルトの死後で、
1849年11月19日、ウィーンにおいてだった。
第1楽章 Allegro molto - Allegro vivace
第2楽章 Andadnte
第3楽章 Menuetto: Allegro vivace
第4楽章 Allegro

《 小規模な楽器編成 》
【 交響曲 第5番 変ロ長調 D485 】
「第4番」と「第5番」は21歳の同じ年に作られた。
「第5番」は、悲愴感をただよわせる「第4番」とは違って、
ロココ的で耳に心よく明るい新鮮な作品となっている。
クラリネット、トランペット、トロンボーン、ティンパニーを欠いた、
小規模な楽器編成になっている。
自筆譜に1816年10月3日に完成と記されているが、
公開演奏会での初演の記録はない。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andadnte con moto
第3楽章 Menuetto: Allegro molto
第4楽章 Allegro vivace

《 小ハ長調 》
【 交響曲 第6番 ハ長調 D589 】
「第6番 ハ長調」は、シューベルトが20歳を迎えた年1817年の
秋から翌年の2月にかけて作曲している。
当時のウィーンでは、イタリアの作曲家ロッシーニのオペラが
大人気を博していたが、シューベルトはロッシーニを
パロディ化した作品を書いている。
「序曲 D590」だが、「第6番 ハ長調」も流行りのイタリア音楽を
シューベルト流に取り入れた作品ともいわれる。
シューベルトが尊敬していたベートーベンの「交響曲 第7番」を思わせる。
シューマンの妻のクララの父は、この交響曲を酔っぱらったときに
作曲したのではあるまいかと言ったといわれる狂喜乱舞の
躍動的な部分を持つ作品である。
シューベルトは、ベートーベンが死去した翌年に、
短い生涯を閉じている。
シューベルトは、ハ長調交響曲を2曲作っているが
「第8番 ハ長調」(ザ・グレート)を「大ハ長調」
「第6番 ハ長調」を「小ハ長調」とも呼ばれる。
シューベルトの死の1カ月後の1828年12月14日の
ウィーン楽友協会主催の音楽祭で初演された。
第1楽章 Adagio-Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Scherzo: Presto
第4楽章 Allegro moderato

《 ラスト・シンフォニー 》
【 交響曲 第8番 ハ長調 「ザ・グレート」D944 】
「最後の交響曲」は、それぞれの作曲家の作品でも最高傑作と
言われるものが多いが、シューベルトの「交響曲第8番」は、
彼が世を去る9ヶ月前の3月に書き上げられたと記されたものもあるが、
1826年に完成したとも・・・
この曲は指示通りに演奏すると60分以上の大曲で、あまりにも
大仰でまわりくどいとの評判がたち、公表されなかったが、
死の10年後にシューベルトの兄のフェルディナントの家で
シューマンが楽譜を発見し、1838年3月21日にメンデルスゾーンの
指揮でライプチヒのゲヴァントハウス演奏会で初演された。
シューベルトが永眠したとき、シューマンはまだ18歳の青年であったが、
その死を知り涙を流して悲しんだという。
率直にいってよいならば、自分はつぎのように言いたい。
すなわちこの交響曲を知らぬ人はまだシューベルトについて、
ほとんど知らぬ人であり・・・このところに作曲に熟達せる音楽的技術の
ほかに生命があり、最も微妙な濃淡をもあらわす色彩があり、
個々のものに最も精確な表現がある。
そしてこのすべてのものの上に、われわれがすでに
彼の作品のいずれにおいても認めるところの、ロマンティシズムの
精神があふれ流れている。
そしてこの交響曲の神々しさ、それはたとえばジャン・パウルの4巻の
長篇小説のように終わることを知らない。
この交響曲はベートーヴェンの後においてもまだないとの印象を与えた。
これは、シューマンが音楽雑誌に書いた熱烈な賛辞である。
女性的な抒情性よりも、男性的な活気、未来への希望が
強く現われていて、「未完成交響曲」とならんで、
シューベルトの2大傑作といわれている。
第1楽章 Andante
第2楽章 Andante con moto
第3楽章 Allegro vivace
第4楽章 Finare Allerro vivace

《 完成された未完成 》
【 未完成交響曲 ロ短調 D759 】
ロマン派音楽の一大ピラミッドともいわれる「未完成交響曲」は、
ベートーベンの「運命」、ドヴォルザークの「新世界」と並んで、
3大交響曲と呼ばれることもある。
「未完成」は、透明清純で美しい旋律が豊富に使われていて
世界中で人気のある交響曲の一つにかぞえられている。
「あたかも地下の世界からのように」と形容されるこの曲の始まりは、
低音弦楽器の暗示にとんだ旋律である。
彼の自筆楽譜によると、25歳のときの1822年10月30日に、
ウィーンで着手している。
普通の交響曲は第4楽章まであるのに、この曲は
第1楽章と第2楽章しか演奏されない。
なぜなら、第3楽章はわずか9小節だけのオーケストレート、
第4楽章は下書きすらないのである。
しかし、二つの楽章が十分に完成したまとまりを持っているので、
形式上未完成であっても天才の直感で無用の長物になることを、
感じていたのではないかと思われている。
「未完成」が初演されたのはシユーベルトの死後37年も経った
1865年12月17日のことで、この曲が作られてから43年後である。
この交響曲は、古い番号付けでは第8番になっているが、
その後1978年にドイチェ目録改訂で見直されて、第7番とされた。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Andante con moto
第3楽章 Allegro

《 ベートーベンの影響 》
【 八重奏曲 ヘ長調 D803 】
27歳の1824年の初めごろ、シューベルトは不健康に悩み続けていた。
「私は毎晩寝床に入るとき、もう再び眼が覚めないようにと願います。
そして朝になると、ただ前日の悲しい思いだけがまた私のところにやってきます。
こんなに喜びも親しみもなく私は日を過ごしているのです。
私の作品は、音楽への私の理解と、私の悲しみとの現われです。
悲しみによって創られた作品のみが、人々を最も楽しませることが
できるように思われます。
悲しみは理解をするどくし、精神を強めます」
日記には、このように書かれてあった。
そのころ、シューベルトは弦楽四重奏曲「ロザムンデ」
「死と少女」など、集中的に室内楽の作曲に取り組んだ。
二つの短調の作品とは違い、明るく温かくて柔和な
「八重奏曲 ヘ長調」は、2月ごろ着手し、3月1日に完成している。
この曲は、クラリネットを愛奏していた
フェルディナント・フォン・トロイヤー伯爵の依頼により作られた。
トロイヤー伯爵は、自らが楽しんできたベートーベンの
「七重奏曲 作品20」を模範とするよう命じた。
そのような経緯もあり、この曲には使用楽器の種類や楽章の
構成など、多くの点でベートーベンの「七重箏曲 作品20」からの
影響がみられる。
完成後、ただちにトロイヤー伯爵の宮廷で初演されたはずだが、
公式には1827年4月16日にウィーン音楽協会の
定期演奏会で初演された。
6つの楽章からなり、1時間ほどを要する作品である。
第1楽章 Adagio-Allegro-Piu allegro
第2楽章 Adagio
第3楽章 Allegro vivace-Trio-Allegro vivace
第4楽章 Andante-8Variations
第5楽章 Menuetto.Allegretto-Trio-Allegretto-Coda
第6楽章 Andante Molto-Allegro-Andante Molto-Allegro Molto

《最後の室内楽曲》
【 弦楽五重奏曲 ハ長調 作品163 D956 】
シューベルトの室内楽作品では、最後の曲となった
「弦楽五重奏曲ハ長調」は、亡くなった年に作曲され、
没後に陽の目を見た室内楽の傑作である。
初演は、死後22年も経った1850年9月17日に
ウィーンの音楽協会の定期演奏会で行なわれた。
シューベルトは、内気で引っ込み思案な性格だったため、
もっぱら作曲に没頭していれば満足だった。
自分の作品の公開や出版に無頓着だったため、彼の生前に
出版された楽譜は、交響曲はゼロ、弦楽四重奏曲も19曲のうち
1曲だけ、ピアノソナタは21曲中3曲、600曲以上ある
歌曲も187曲だけだった。
シューベルトの友人たちは、音楽の素養豊かな教養人が多く、
友人宅で「シューベルティアーデ(シューベルトを囲む会)」と題して、
音楽会を頻繁に開いていたので、彼の才能が世に埋もれるのを惜しみ、
亡くなった年の3月に初めての公開演奏会を開いたのだが、
当時、ヨーロッパを熱狂させていた大バイオリニストのパガニーニが
ウィーンを訪問中で、新聞の音楽欄でも取り上げられず、
話題にもならなかった。
11月19日に腸チフスで亡くなるまで、華やかな名声とは無縁の生涯を
送ったことになるが、この最後の年は創作意欲は最大限に発揮され、
多くの重要な作品が生み出された。
これらは彼の死後、シューマンなどに発見され、
今では音楽史上に惨然と輝く傑作との評価を受けている。
第1楽章 Allegro ma non tanto
第2楽章 Adagio
第3楽章 Scherzo presto-Andante sostenut
第4楽章 Allegretto

《 シューベルトの恋 》
【 弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 D804 作品29の1 】
シューベルトには詩人、画家、音楽家、官吏、学生など友人が多かった。
シューベルティアーデ(シューベルト組)と呼ばれ、
彼らと共に生活をしていた。
そんな彼は、なぜか女性の愛には恵まれなかった。
エステルハージ伯の次女カロリーネは、
ピアノのお稽古のお相手で、一方的な愛に終わった。
美しいソプラノの持ち主のテレーゼは、子どものときから同じ教会の
合唱団などで親しくつきあっていた。
二人のいきさつは、彼の友人に告白している。
「僕は心から真に愛し、相手も僕を愛した女が1人あった。
彼女は僕よりも幾分若かったが、僕の作曲したミサを演奏したときなど、
彼女のソプラノ独唱は実に見事で非常に音楽的であった。
彼女は顔に痘痕があって美しくなかったが、気持ちの良い真実な人だった。
僕は3年間も結婚することを望んで努力してみたが、家庭を支えるべき
収入の道がなかったので、彼女は両親のいいなりに他に嫁いでしまった。
そのときの僕の気持ちは辛かった。
僕は今でも彼女を愛している。
その後も彼女のように気にいった人はいなかった。
結局彼女は僕に縁がなかったのだ。」
「弦楽四重奏曲イ短調」は、前年に作られた劇音楽「ロザムンデ」
(キュプロスの女王、ロザムンデ、4幕のロマン的劇、
ヘルミーナ・フォン・ヒェツィ作)の間奏曲の旋律を、第2楽章の
主題としているため、「ロザムンデ四重奏曲」と称されることもある。
「キュプロスの女王、ロザムンデ・・・」の脚本は失われて
現在は見ることができない。
この女流詩人は、自分の作品を音楽化することが非常に好きで、
ウェーバーもこの詩人の「オイリエンテ」を作曲させられた。
シューベルトは3曲の四重奏曲を作って、これを作品29とする
つもりだったが、その第2以下は続けることができなかった。
そのため、この曲は作品29の1であるが、第1という番号は
無意味になってしまった。
この曲は1824年3月14日、ウィーンで初演されたが、そのとき友人の
画家シュウィンドは「これは大喝采をえた。特に第3楽章のメヌエットが
そうであった。それは素晴らしくものやわらかで、自然である」
と書いている。
シュウィンドは、シューベルトよりも7年年下で、兄のように敬愛していた。
もの優しい女性的な性格で、仲間からは“天使”と呼ばれ、
シューベルトに対する甘い愛情をもっていたので、“愛人”とも呼ばれていた。
第1楽章 Allegro ma non troppo
第2楽章 Andante
第3楽章 Menuetto,Allegretto
第4楽章 Allegro moderato

《遺作》
【 弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調「死と乙女」D810 】
シューベルトは3曲の弦楽四重奏曲を残したが、
この「ニ短調」が作品番号なしの遺作となった。
4楽章からなるこの曲は、第2楽章に彼が1817年に作った
歌曲「死と乙女」の伴奏の中の死神の行進を思わせる重々しい
4拍子の旋律を主題に使っているので、この通称がある。
全体を通じて成熟したシューベルトの様式に、はっきりとした
ロマン的な情趣にあふれ、ことに第1楽章のもつ一種の
悲哀の感じは、モーツアルトに通ずるものがある。
この曲はシューベルトの生前には公演の運びに至らず、
1833年3月12日、ベルリンで初演された。
シューベルトは、ベートーベンを尊敬していたが、会ったのは
2度だけしかなかった。
最初に病床のベートーベンを訪れたとき、側近のシントラーに
「このシューベルトには、たしかに神々しい火花がある」と
言ったとか・・・2度目は臨終間際だった。
ベートーベンの葬儀は盛大なものだったが、シューベルトは
その中で松明持ちの役をつとめた。
その後2年経たぬうちに、シューベルトは「チフス」で亡くなり、
尊敬するベートーベンの墓地の隣り合わせに葬られた。
シューベルトは、なぜか女性の愛に恵まれない短い生涯だった。
