
《鱒》
【 ピアノ五重奏曲 イ長調「鱒」作品114 D667 】
「歌曲の王」と呼ばれるシューベルトは、600曲以上の歌曲や交響曲、
ピアノ曲を作曲しているが、リートとよばれる詩と旋律が一体となった
芸術歌曲は特に有名である。
画家のシュヴィントはシューベルトが亡くなった日の日記に
「シューベルトは死んだ。われわれには彼あってこそ
楽しくもあり、美しいくもあったものを・・・」と書いた。
飲水からチフス菌が入り、2人の医師の誠意あふれた治療の
かいもなく、短い生涯を終わり永い眠りについたとある。
22歳の夏、北オーストラリア山地のシュタイルやリンツに
名歌手の友人フォーグルと演奏と避暑を兼ねて、9月半ばまで
滞在した折に依頼され作られたのが、ピアノ五重奏曲イ長調である。
この曲の第4楽章が、2年前に作曲した歌曲「鱒」の旋律を
主題とする変奏曲であることからつけられた。
ピアノ五重奏曲は、弦楽四重奏曲(第1ヴァイオリン、
第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ)にピアノ加えたものが通例だが、
シューベルトは第2ヴァイオリンをコントラバスに置き換えているので、
全体に低音部が一段と豊かな響きとなっている。
ゆたかで色彩的な印象をあたえる第1楽章。
モーツァルトやバッハを思わせる第2楽章。
フーガ的な第3楽章。
主題と5つの変奏曲からなる第4楽章。
ハンガリーのにおいがする第5楽章でできている。

《ロン=ティボー国際コンクール》
【 ピアノ三重奏曲 変ロ長調 作品99 D898 】
ティボー,ジャック〔仏〕
(1880.09.27?1953.09.01) 72歳 事故
名バイオリニストのティボーは、音楽教師を父にボルドー市で生まれた。
8歳でリサイタルを開くという、幼くしてバイオリンの才能を発揮し、
13歳からパリ音楽院で学び一等賞で卒業をした。
名指揮者のコロンヌに見い出され、コロンヌ管弦楽団で
独奏者として名声を得た。
かつてベリオが愛用していたストラディヴァリウスを自由自在に
操ったその音色は、繊細典雅をきわめ、高雅な趣味にあふれた
陶酔的なものであった。
1905年に、ピアノのアルフレッド・コクトー、チェロのパブロ・カザルスと
共に「ピアノ三重奏団」(カザルス・トリオ)を結成し、約30年間にわたって
演奏活動を続けた。
1943年には、ピアニストのマルグリット・ロンと協力して、
ロン=ティボー国際コンクールを開催し、後進の育成にも力を注いだ。
1953年9月1日、彼は来日途中、乗っていた飛行機がアルプス山脈に
衝突し、72年の生涯を閉じた。
「ピアノ三重奏曲変ロ長調」は、シューベルトが世を去る前年の
1827年に作られた。
4楽章からなるが、全楽章を通じて、暗い気分はなく、
上機嫌のシューベルトを思わせる。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Andadnte uo poco mosso
第3楽章 Scherzo: Allegro
第4楽章 Rondo Allegro vivace
《 「ピアノ三重奏曲」の名曲 》
【 ピアノ三重奏曲 変ホ長調 作品100 D929 】
シューベルトが作曲した番号付きの「ピアノ三重奏曲」は
2曲だけで、どちらも「ピアノ三重奏曲」の名曲として親しまれている。
「ピアノ三重奏曲変ロ長調」は世を去る前年の1827年10月に作られ、
翌月の11月に完成した「ピアノ三重奏曲 変ホ長調」は
12月26日に初演され、好評だった。
シューベルトが世を去った、翌年の1月18日付けの、
ヒュッテンブレンナー(1796?1882)宛ての手紙に
「大変喜ばれた」と書いている。
官吏の彼は、シューベルトの作品を収集・保存し、
普及に貢献した友人である。
第1楽章では、4年前に作曲した「未完成」を想わせる箇所が
あちこちにみられる。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andadnte con moto
第3楽章 Scherzo: Allegro moderato
第4楽章 Allegro moderato
《 初期の意欲作 》
【 バイオリン・ソナタ 第4番 イ長調 作品162 D574 】
シューベルトは19歳のときに「作品137」の3曲のソナチネと呼ばれる
「バイオリン・ソナタ」を作曲しているが、翌年の1817年8月に
「バイオリン・ソナタ イ長調」を書いていて、この曲の楽譜は、
シューベルトの死後の1856年に、ディアベリ社から出版された。
この曲はイ長調という調性によるところもあり、幸福感に溢れている。
シューベルトの作品のイ長調の器楽曲は、ほとんど常に明るく大らかで
親しみやすい性格のものが生まれている。
和声の点からもリズムの点からも魅力があり、全体には
シューベルト流の美しい旋律が貫かれている。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Presto
第3楽章 Andantino
第4楽章 Allegro vivace
《 ギター・チェロ 》
【 アルペッジョーネ・ソナタ イ短調 D821 】
1823年にウィーンのシュタウファーが発明した楽器の
「アルペッジョーネ」は、「ギター・チェロ」ともいわれるが、
ほとんど使用されずに、いつかその楽器名さえ
歴史から忘れられてしまった。
この楽器のために書かれた曲といえば、シューベルトの
「ソナタイ短調」だけではないかといわれている。
楽器アルペッジョーネは、小型のチェロで、バッハ時代に
用いられていた「ヴィオラ・ダ・ガンバ」に似た形をしていて、
その胴体の形はギターを思わせる。
この曲は、多くはチェロとピアノで演奏されるが、他にチェロと
管弦楽との協奏曲風の形やピアノとヴァイオリンの
二重奏の形でも演奏される。
スラブ風やマジャール風の力強い奔放な性格が美しく
あらわれたソナタで、甘美で優雅な主題で始まる第1楽章、
哀愁と憧憬とをもった主題の第2楽章、明るく軽快な曲趣の後に
愁いにも似た結尾の第3楽章と印象的な曲だ。
《 さすらい人幻想曲 》
【 幻想曲「さすらい人」ハ長調 作品15 D760 】
シューベルトが1822年の暮に作曲したピアノ曲の幻想曲
「さすらい人」は、1816年に作曲した歌曲「さすらい人」による
作品なので「さすらい人幻想曲」とも呼ばれている。
作曲の翌年の2月7日に初演された。
かなり大きな規模の曲で、4つの楽章からなり、切れ目なく演奏される。
第2楽章の変奏曲の主題と第4楽章の主題が
歌曲「さすらい人」に基づいている。
この曲は演奏技術が高度で、シューベルト自身が思うように
弾きこなすことが出来ず、「こんな曲は悪魔にでも弾かせろ」と
友人に叫んだと伝えられている。
後にリストがピアノ協奏曲に編曲している。
第1楽章 Allegro con fouco ma non troppo
第2楽章 Adagio
第3楽章 Presto
第4楽章 Allegro
《死の前年の作品》
【 即興曲 作品90 第2番 D899 】
亡くなる前年の1827年に作曲したピアノ曲の「即興曲」は、
作品90に含まれる4曲と、作品142の4曲、あわせて8曲ある。
シューベルトは天性歌う人であった。
器楽曲においても、流麗な旋律、自由な和声、無限の転調、
常に彼は歌った。
《ゲーテの詩》
【 歌曲「野ばら」作品3-3 D257 】
ゲーテ,ヴォルフガング・フォン 〔独〕
(1749.08.28?1832.03.22) 82歳
ドイツ古典派最高の詩人であるゲーテは、フランクフルトで生まれ、
ヴァイマルで、82年の生涯を閉じた。
彼の代表作「ファウスト」は、多くの作曲家によってオペラ化されたが、
他にも劇音楽や歌曲として作曲されたものも多数ある。
シューベルトも、ゲーテの多くの詩に曲をつけているが、中でも
18歳のときの作品の「魔王」「野ばら」は有名である。
シューベルトが「野ばら」を作曲したとき、政治家でもあった
ゲーテは66歳になっていた。
野薔薇
童は見たり 野中の薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
あかず眺む 紅香う
野中の薔薇
手折りて行かん 野中の薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん 紅香う
野中の薔薇
童は折りぬ 野中の薔薇
手折りてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ 紅香う
野中の薔薇
この歌詞で、ドイツ十九世紀歌謡作曲家のウェルナー
(1800?1833)が、唱歌風な別の曲を作曲している。
【「魔王」作品1 D328 】
馬の疾走するさまを描いた、無気味な3連音の前奏に始まり、
この伴奏のうえに語り手登場。
心は恐怖におののきながらも、子どもをいたわる父親、
父親に抱かれてその腕の中でわななく子、甘言をもって子どもの魂を
奪い去ろうとする魔王の4人の声を使い分けて劇的に歌われる。
(語り手)
こんなに遅く、闇と風をついて馬を駆けるのは誰だろう。
それは子を連れた父親だ。
子をひしと抱いている。
(父親)
坊や、なぜそんなに恐れて顔を隠すのだ。
(坊や)
お父さん、お父さんには魔王が見えないんですか。
冠をかぶり、長い衣を着た魔王が。
(父親)
坊や、あれはたなびいた霧だよ。
(魔王)
かわいい坊や、一緒においで、おまえとおもしろい遊びをしよう。
浜にはきれいな花が咲いているし、私のお母さんは
たくさんの金の着物を持っているよ。
(坊や)
お父さん、お父さん、魔王がこっそりぼくにささやいているのが聞こえないの。
(父親)
坊や、落ち着きなさい、枯葉に風が吹いてざわめいているのだ。
(魔王)
かわいい坊や、いっしょに行こう。
娘たちがおまえを楽しくもてなしてあげる。
夜の踊りに連れて行って、坊やをゆすったり踊ったり、歌ったりするよ。
(坊や)
お父さん、お父さん、見えないの?
あの暗いところにいる魔王の娘たちが。
(父親)
坊や、坊や、よく見えるとも、あれは灰色の古い柳の木だよ。
(魔王)
お前が好きなのだ、お前にきれいな姿に心を奪われてしまったのだ。
もしいやというなら、力づくで連れてゆくぞ。
(坊や)
お父さん、お父さん、いま魔王がぼくをつかまえる。
魔王がぼくをいじめる。
(語り手)
父親は恐怖にかられ、馬を走らせる。
あえぐ子を胸に抱きしめて疲れきって家に着いたとき、
腕の中の子は死んでいた。
《 初期の歌曲 》
【 歌曲「さすらい人」作品4-1 D493 】
シューベルトの初期を代表する傑作の「さすらい人」は、
1816年10月、19歳のときに一晩で書き上げたといわれている。
深いロマン的精神に溢れている曲で、3連符の物憂い前奏で始まり、
最後は絶望的に声をひそめて歌い終わる。
シューベルトは、この歌の一部を取り出して6年後の1822年に
ピアノ独奏用の「さすらい人幻想曲」を書いている。
歌詞は、医師リューベックの詩によるもので、この世のどこにも
幸福を見いだせぬさすらい人の心が歌われる。
(歌詞大意)
私は山の上からやってきた
谷は霧立ち、海は波立っている
私はとぼとぼとさすらい、少しの喜びもなく
ため息は絶えず「どこなのか」とたずねる
太陽は冷たく、花はしぼみ、命も疲れ果てた
人の言葉はうつろにきこえ、私はどこへ行っても
見知らぬ旅人だ
私のあこがれの国はどこなのか
探し、求めても見つからない
緑の希望の国、薔薇の花咲く国
友のさすらいゆく国 死者の蘇る国
私の言葉をはなす国
そのような国は どこにあるのだ
私はとぼとぼとさすらい、少しの喜びもなく
ため息は絶えず「どこなのか」とたずねる
魂の息吹きの中にこだましてくる声は
おまえのいないところ そこに幸いがあるのだ
シューベルトには、もう1曲シュレーゲルの詩による
歌曲「さすらい人」D649がある。
《 リュッケルトの詩 》
【 歌曲「君こそわが憩い」作品59-3D776 】
フリードリヒ,リュッケルト 〔独〕
(1788.05.16?1866.01.31) 77歳
ドイツの詩人で、東洋学者のリュッケルトはシューベルトが生まれる
9年前にシュヴァインフルトで生まれ、1866年のシューベルトの
誕生日に77年の生涯を閉じた。
稀にみる語学の天才で、70種類の言語を習得したといわれる。
目、耳、およそ感覚に触れるものは全て詩に表現したという
多作の抒情詩人だった。
1823年6月の作品「君こそわが憩い」は、リュッケルトの詩に作曲された。
静かな心の安らいと憧れをこめた16分音符の流れるような伴奏にのせて、
歌もまた静かな情熱をたたえて緊張した清純な旋律が歌われる。
(歌詞大意)
おまえは心の憩い やさしい平和
そして私の憧れでもあり
そのあこがれを満たしてくれるのだ
私は悦びと悩みを抱いて
私の目と心とをおまえの住まいに捧げよう
私のところへ帰ってきて 折戸を静かにお閉め
この胸から苦しみを追い出しておくれ
この心をおまえの喜びでみたしておくれ
この瞳はおまえを見るときだけ輝く
ああそれをいっぱいにみたしておくれ
《ミュラーの詩》
【 歌曲集「美しき水車小屋の娘」作品25 D795 】
シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」(1823年)は、
「冬の旅」(1827年) 「白鳥の歌」(1828年)と共に
3大歌曲集と呼ばれている。
「冬の旅」とこの曲は当時、素朴清新な抒情味が大衆に喜ばれ、
人気のあったミュラーの詩集に曲がつけられた。
この歌曲集は、ミュラーの代表作の一つの
「ワルトホルン吹きの遺稿からの詩集」から、合計20曲に付曲されたが、
詩は全部を連ねることで一つのはっきりした筋をもっている。
第1曲「さすらい」から第20曲「小川の子守歌」まで、修行中の若者が
水車小屋の娘を思う素朴な心情が歌われる。
《冬の旅》
【 歌曲集「冬の旅」作品89 D911 】
歌曲集「冬の旅」は、ミュラーの詩に付曲したもので、
失恋した青年の旅の姿を写している名曲である。
深みを増した旋律と伴奏部の象徴的な使用は、ドイツリートに
新しい面を開いた傑作とされている。
ミュラーは「冬の旅」が作曲された年に33歳で夭折したが、
シューベルトは翌年にもっと若く31歳で世を去った。
シューベルトはミュラーのこの詩を省略をしないで、
24曲全部を作曲した。
暗く重苦しいのは詩のせいもあるが、そのころシューベルトは
すでに病魔に打ちのめされ、貧窮も並み大抵ではなかった。
第5曲の「菩提樹」は、民謡風な調べの、限りなく美しい歌で、
伴奏は葉のざわめきを感じさせて、描写的である。
菩提樹
泉にそいて 繁る菩提樹
慕いゆきては うまし夢みつ
幹にゆきては 愛の言葉
うれし悲しに 訪うしそのかげ
今日もよぎりぬ 暗き小夜中
真闇にたちて 眼とずれば
枝にそよぎて 語るごとし
こよ、いとし侶 ここに幸あり
(近藤朔風訳詞)
《最後の作品》
【 歌曲集「白鳥の歌」D957 】
シューベルトの生涯はあまりにも短かかった。
1828年秋、兄の家に転居。
10月初旬 兄と共にアイゼンシュタットのハイドンの
墓に詣でる。
10月31日 「赤十字」で会食したが、魚料理一切れを
口にしたのみで後は食べられず、
これが最後の食事になった。
11月 3日 教会で兄フェルディナントの「鎮魂歌」を
聴いたが、その後病床につく。
11月 4日 ゼヒターについて対位法の勉強を始めたが、
授業はこの一回で最後となる。
11月16日 チフスと診断。
11月19日 午後3時31歳10ヶ月の短い生涯を終え
永い眠りについた。
「ここで終わりだ」と言い残し・・・
飲水からチフス菌が入り、2人の医師の誠意あふれた治療の
かいもなく、短い生涯を終わり永い眠りについたとある。
シューベルト組といわれる画家、詩人、劇作家、官吏、
音楽家の取り巻きが多くいて、彼はそのうちの何人かと
同居生活をしていたが、画家のシュヴィントはシューベルトが
亡くなった日の日記に「シューベルトは死んだ。われわれには
彼あってこそ楽しくもあり、美しいくもあったものを・・・」と書いている。
シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」は「冬の旅」
「美しき水車小屋の娘」と共に、3大歌曲集とされる。
シューベルトの死後半年経つて、その死の年に作られた
14の歌曲を出版する際、この題名がつけられた。
歌詞は、レイシュターブ7曲、ハイネ6曲、ザイドル1曲の合計14曲を
ひとまとめにしたもので、シューベルト自身は、このようなかたちに
まとめられることも、「白鳥の歌」と名付けられることも
勿論まったく知らなかった。
白鳥は、平常は決して鳴かず、ただ死の直前に絶妙な声で鳴くという
俗説にしたがってつけられたようだ。
第4曲の「セレナード」は、シューベルトのリートの中で最も
有名なものの一つで、清純な思いをこめた静けさの旋律は、
気品があり第一級のものである。
シューベルトの最後の作品となった、ザイドルの詩による第14曲の
「鳩の使い」は、彼の最後を飾るのにふさわしい希有の傑作である。
従順で忠実な鳩は、帰巣性にすぐれているのでどこに飛んで
行っても帰ってくる・・・
セレナード
秘めやかに闇を縫う わが調べ
静けさは果てもなし こよや君
囁く木の間を 洩る月影 洩る月影
人目もとどかじ たゆたいそ たゆたいそ
君聴くや 音にむせぶ夜の鳥
わが胸の秘めごとを
そはうたいつ 鳴く音にこめつや
愛の悩み 愛の悩み
わりなき懐いの かのひとふし かのひとふし
深き思いをば 君や知る
我が心 さわげり・・・
待てるわれに
いで来よ 君 いでこよ
(堀内敬三 訳詞)