Schumann
2−1
シューマン,ローベルト・アレクサンダー  〔ドイツ〕
(1810.06.08 〜 1856.07.29)  46歳  (精神錯乱)

           2−1
            
交響曲 第1番 変ロ長調 作品38
            
交響曲 第2番 ハ長調 作品61
            
交響曲 第3番 変ホ長調 作品97「ライン」
            
交響曲 第4番 ニ短調 作品120
            
ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
            【 バイオリン協奏曲 ニ短調(遺作)】
            【 チェロ協奏曲 イ短調 作品129 】
            【「マンフレッド」序曲 作品115 】
           2−2
            【 ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47 】
            【 ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 作品63 】
            【 バイオリン・ソナタ 第2番 ニ短調 】
            子供の情景 作品15
            
クライスレリアーナ 作品16
            【 ユーゲント アルバム 作品68
            
「流浪の民」作品29-3
            【 歌曲集「ミルテの花」より 作品25
            【 歌曲集「女の愛と生涯」作品42 】
            【 歌曲集「詩人の恋」作品48 】





《 春の交響曲 》

交響曲 第1番 変ロ長調 作品38

ロマン派音楽を代表するシューマンは1810年6月8日、
ドイツのザクセンのツヴィッカウに生まれた。
父は自らも著述をし、詩の翻訳をしたりして文学に深い関心を持つ
真面目な勤勉家の書籍商だった。
父より2歳年上の母は高い教養をもった外科医の娘で、感傷的、
幻想的夢想的な性格をもち、シューマンは両親の性格を
いろいろと受けついで成長していった。

両親は、6人の子どもをもうけたが、そのうちの1人は
幼少で死んでしまい、シューマンは末子だった。
姉と兄たちは、シューマンよりかなり早く世を去っている。

16歳のときに父が亡くなり、母の希望でライプツィヒ大学に入学し、
法律を学んでいたが音楽家への道に変更し、後に妻となる
クララの父のヴィークに弟子入りした。

シューマンの初期の作品は、ほとんどがピアノ曲だったが
30歳のときにクララと結婚してからは、あらゆる分野の
作曲を始めている。

第1交響曲を書いた1841年には、オーケストラの
作品ばかり作曲している。

その年、ウィーンを訪問した際にシューベルトの交響曲第7番を
発見し、上演への努力をした。
また、ベートーベンの墓を訪れた時、その墓の上でペンを発見し、
このペンを用いてシューベルトの第7番に関する覚書きを書き、
更に交響曲第1番のスコアを書いたという話しが伝えられている。

この曲には「春の交響曲」という名もあり、各楽章に「春のはじめ」
「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」という副題もつけられていた。

            第1楽章 Andante un poco maestoso-Allegro molto vivace
            第2楽章 Larghetto        
            第3楽章 Scherzo:Molto vivace   
            第4楽章 Allegro animato e grazioso

初演は、1841年3月31日にメンデルスゾーンの指揮により、
ライプチヒのゲヴァントハウスで行なわれた、
ザクセン国王フリードリヒ・アウグスト二世に献呈された。



《 療養中 》

【 交響曲 第2番 ハ長調 作品61 】

 1843年末から44年にかけて、シューマン夫妻はロシアに
演奏旅行をしているが、43年初めころから起こった精神疾患は、
44年になっても思うように回復せず、療養のためにライプチヒから
ドレスデンに転居をした。

その後45年には次第に回復し、クララとともに対位法の
研究をするようになり、「作品60」の
「バッハの名による6つのオルガンまたはピアノのためのフーガ」
などが作られた。

「交響曲第2番」は、1845年の暮にスケッチされ、翌年になって
オーケストレーションに取りかかったが再び疾患は激しくなり、
全体が完成したのは10月になってからだった。

ある音楽家に宛てた手紙の中で「この作品は苦しかった日々を
思い出させます。しかし、あなたのこの曲への興味からこのような
作品にも人は関心をしめしてくれることを知りました。」と書いている。

出来上がった「交響曲第2番」は完成の年の11月5日、
ライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会において、
メンデルスゾーンの指揮のもと初演された。

             第1楽章 Sostenuto assai-Allgro ma non troppo
             第2楽章 Scherzo Allegro vivace      
             第3楽章 Adagio Espressivo         
             第4楽章 Allegro molto vivace       





  《 ライン 》
 

【 交響曲 第3番 変ホ長調 作品97「ライン」】
 
 シューマンは交響曲を全部で4曲と、その他に未完成の
交響曲を残している。
「幻想交響曲」という標題をもっている第4番は、第1番と同じ年に
作曲されたが、あまり評判が良くなかったために、出版を見合わせ、
10年後に出版されたので、この第3番がシューマンの
最後の交響曲となった。

1850年に、ドレスデンからデュッセルドルフに移住した直後に
書きあげられたもので、南ドイツ、ライン地方の風物や人心の
フレッシュな印象、さらに当時の幸福感が反映され、生命力溢れる
力強い響きと、持ち前のロマン的叙情性が見事に融合している。

            ツヴィッカウ交響曲 ト短調 作品29        
            交響曲 第1番 変ロ長調 作品38「春」(1841年)  
            交響曲 第2番 ハ長調 作品61(1846年)      
            交響曲 第3番 変ホ長調 作品97「ライン」(1850年)
            交響曲 第4番 ニ短調 作品120(1841年)     

1850年、シューマンはデュッセルドルフ市の指揮者となり、
ドレスデンから転居している。

「ライン交響曲」ともいわれている第3番は、その折のライン地方への
旅行と居住を契機として作られたもので、その年の暮に完成したが、
南ドイツ、ライン地方の風物や人心のフレッシュな印象、
さらに当時の幸福感が反映され、生命力溢れる力強い響きと、
持ち前のロマン的叙情性が見事に融合している作品である。

第1楽章 いきいきと
     序奏部なしで全楽器の強奏で力にあふれた
     第1主題が現れるが、ベートーベンの交響曲
     「エロイカ」との親近性が感じられる。

第2楽章 スケルツォ きわめて穏やかに
     民族舞曲風なゆっくりとした楽章。

第3楽章 速くなく

第4楽章 壮麗に
     「荘厳な儀式の伴奏の性格にて」と記されている
     間奏曲的性格をもって挿入されている。

第5楽章 いきいきと
     ファンファーレが響き祝祭的
     ライン地方の気分が濃厚で、民衆的な要素が
     重要視されている。

完成の翌年の2月6日、デュッセルドルフにおいて
シューマン自身の指揮で初演された。





《 交響的幻想曲 》

【 交響曲 第4番 ニ短調 作品120 】

 1840年は「歌の年」、1841年は「交響曲の年」と呼ばれるが、
その年は第1交響曲を書き、その後続いて第4番となる
「第2交響曲」を書いた。

「第2交響曲」は1841年12月6日に初演されたが、あまり評判が
良くなかったため、シューマンは楽譜の出版を見合わせ、
その後に作曲した交響曲を「第2交響曲」とした。

最初に作った「第2交響曲」は10年後に改作をして
「第4交響曲」として出版された。
最初の原稿はブラームスが保管していて、その努力により
シューマンの死後の1896年に出版された。

1853年にシューマンの家を訪れたブラームスをクララとともに
歓迎し、彼の才能を見抜いていたシューマンは賞賛し、
ブラームスの作品の出版の労もとっていたという経緯がある。

翌年のシューマンのライン川投身自殺未遂から2年後の
シューマンの死まで、ブラームスはシューマン家の面倒をみ、
クララと親密な交際をするようになった。

それは愛情へと燃え上がったが、ブラームスは結婚と創作活動の
両立に自信がもてなくなり、同情的なものへと変容していった。

「第4番ニ短調」は4楽章からなるが、各楽章が連続して
演奏されることで、元来「交響的幻想曲」という標題であった。

1841年の初稿と1853年の改訂校を比較すると、
第1楽章と第4楽章の小節の数が全く違う。
音符の長さと、拍子が変更されている。
音楽のテンポ感や雰囲気まで違っている。

初稿の楽譜は薄く書かれていて、旋律の流れが
よりクッキリと浮かび上がるが、それに対して改訂稿では
様々な旋律が書き加えられて響きが厚くなっている。

             第1楽章 Andante con molto-Allegro di molto
             第2楽章 Romanza:Andante       
             第3楽章 Scherzo:Presto         
             第4楽章 Largo-Finare:Allegro vivace   




《 ロマン的 》

【 ピアノ協奏曲 イ短調 作品54 】

シューマン,クララ(ヨゼフィーネ)〔独〕
(1819.9.13〜1896.5.20) 76歳 

シューマンの妻クララは、9歳でピアニストとしてプロ・デビューを
果たして天才少女としてヨーロッパ中の人気を集めていた。
19歳のときに帝室名演奏家の称号を受けている。
クララの演奏は、聴き手の心の深くに入り込むようなあたたかで
豊かなものだったといわれる。

シューマンは、ピアノ教師の彼女の父ヴィークにピアノを
教わっていたが、二人は恋に落ち、ヴィークの猛反対に
あいながらも愛を貫き、 シューマンが30歳、
クララが21歳のときに、やっと結婚をした。

しかし、夫が精神を病みそれが元で若くして亡くなったため
結婚生活は16年と短いものだった。
未亡人となったクララは、夫の作品全集や日記の出版を
進めるとともに、演奏活動も活発に続け、シューマンの作品の
紹介に全力を尽くした。

生前にシューマンが高く評価した14歳年下のブラームスの
良き友人であり、良き理解者として、彼の作品も優れた解釈をし、
演奏会で取り上げた。

シューマンの死後は子供と母とともに住んでいたが、
ブラームスは心からの援助の手を差しのべた。
彼は、クララに恋愛に近い感情を抱いた時期もあったが、
結局ブラームスは誰とも結婚しなかった。

クララはピアニストとして演奏活動をしながら、音楽院でも
教えていたが、1896年3月脳卒中で倒れ、5月20日に
フランクフルトで76年の生涯を閉じた。
ボンでの埋葬式にはブラームスが立ち会ったが、彼もまもなく
病に倒れ、翌年の4月3日に後を追うように生涯を終えた。

ピアノ協奏曲イ短調は1845年7月31日に書き上げられ、
翌年の1月1日にライプチヒのゲヴァントハウスで、
クララのピアノ独奏で初演された。

古典的な協奏曲と本質的に違っていて、ロマン的な
ピアノの協奏風幻想曲で、第1楽章は以前に書いた
「ピアノと管弦楽のため幻想曲イ短調」を使い、
第2楽章は、甘い感情に満ち、穏やかな牧歌風で「間奏曲」と
副題がつけられている。
休みなく第3楽章に入り、圧倒的なクライマックスをきずいて
曲は華麗に終わる。




《眠り続けた協奏曲》

【バイオリン協奏曲 ニ短調(遺作)】

シューマンが残したバイオリン協奏曲は1曲だけで、しかもこの曲は
完成されてから世の光を見ず放置され、その後80年以上もたってから
やっと発見され、初演されたという、いわくつきのものである。

彼は1853年の春、大バイオリニストのヨアヒムの独奏で演奏された、
ベートーベンのバイオリン協奏曲を聴き、大きな感銘を受けた。
このころ、シューマンは神経衰弱で常人でない状態が続いていたが、
病状が落ち着いたときには作曲に精をだしていて、晩年には
バイオリンに強い興味をもったこともあって、秋に短期間で書き上げた。

出来上がった楽譜はヨアヒムに送られたが、彼はなぜかこれを
演奏会で取り上げることをしなかった。
理由として、この曲のバイオリン・パートが凝り過ぎていて、技巧的に
大変難しく、それでいて演奏効果があまりあがらないこともあったようだ。

そして、ヨアヒムの死後、遺書によってこの原稿はベルリンの
国立図書館に移管され、そのままになってしまった。

1937年にヘルマン・シュプリンガーが草稿を見つけだし、
翌年になってヨアヒムを大伯父とするハンガリーの女性バイオリニストの
イェリー・ダラーニが、ロンドンで初めてこの曲を演奏した。

現在ではこの曲は、シューマンの晩年の重要な作品であるばかりでなく、
ロマン派の貴重なバイオリン協奏曲の一つに数えられている。



《 悲しい響き 》

【 チェロ協奏曲 イ短調 作品129 】

 晩年のシューマンは協奏曲的作品と、室内楽作品に
創作意欲を傾けた。
この曲は優雅で詩的な雰囲気をかもしだし、独奏のチェロと
管弦楽が一体となっている。
ロマン派のチェロ協奏曲として、随一の曲といわれている。

1850年ごろの作品と推定されているが、シューマンは
その後健康を害していたので、指揮者としての活動に
たえられなくなったためと、適当な独奏者を求めることが
できなかったので、ついに生前には公演されなかった。

しかし、この曲の真価を認められ、作曲後10年、
シューマンの死後4年の1860年6月9日にライプチヒ音楽院の
演奏会で初演された。

3楽章からできているが、ロマン派の協奏曲に多い、各楽章ごとの
切れ目のない、単一楽章の形で書かれた作品である。

この曲はシューマン自身によって、「管弦楽の伴奏を持つ」と
記されていて、管弦楽部は全く伴奏の役割をし、独奏チェロの
休止する部分の少ない協奏曲となっている。

シューマンは1854年2月6日、精神錯乱が最悪の状態に達し、
ライン川に身を投げた。
その後、精神病院に収容され、クララと子どもたちとの
面会は許されなかった。

翌年の9月には、病院側から回復の見込みがないことを告げられ、
ついに回復することもなく、1856年7月29日午後4時に、
病院にかけつけたクララとブラームスに見守られながら
46歳の若さで静かに世を去った。





《 劇音楽 》

【 「マンフレッド」序曲 作品115 】

1844年の暮、健康上の理由で長く住んでいた
ライプチヒからドレスデンに居を移した。
「マンフレッド」序曲は48年の作品で、このころ
シューマンは劇音楽に興味を向けていた。

バイロンの劇詩「マンフレッド」を主題としているが、
人生のいろいろな悩みにいつも悩み続けていたロマン的な
人間のマンフレッドに共感をおぼえ作曲された。

この序曲は標題楽的に、この詩の物語りを扱ったのでは
なくて、シューマンが感じたマンフレッドの姿を、
純粋器楽の形をかりて音楽にしている。

普通の二管編成より金管がやや多いのが特徴で、
3本のトランペットによる和音吹奏が、重要になっている。