《 ロシアの冬 》
【 交響曲 第1番 ト短調「冬の日の幻想」作品13 】
ロシアにおける交響曲は、ルビンシティンによって開拓され、
チャイコフスキーで完成したといわれる。
ルビンシティンはドイツ・ロマン派交響曲を模範として、
交響曲形式の消化を成し遂げたが、チャイコフスキーはすでに把握された
交響曲形式と、グリンカ以来の国民主義が培った豊かなロシア民族的表現とを
融合して、独特のドラマティックな内容の交響曲を作り上げた。
チェイコフスキーが作曲した「第1番」から「第3番」までの交響曲は、
素朴な民族的表現が中心になっていて、後の作品の準備段階を示している。
交響詩的な性格をもつ「第1番」は、チャイコフスキーの最も初期に属する
作品の1つだが、彼が作曲した6つの交響曲のうち、彼自身が標題を付したものは
この《冬の日の幻想》だけで、第2番《小ロシア》、第3番《ポーランド》、
第6番《悲愴》は愛称である。
《冬の日の幻想》は、ロシア民謡を土台にした国民的色彩の強い曲で、
冬のロシアの国土や自然に対する愛着をうたいあげていて、
全曲に流れる民謡風な旋律は幻想的である。
第1楽章「冬の旅の夢想」
第2楽章「陰気な土地、霧の土地」とそれぞれに標題が示されている。
第1楽章 Allegro tranquillo
第2楽章 Adagio cantabile ma non tanto
第3楽章 Allegro scherzando giocoso
第4楽章 Andante lugubre
《 ロシア民謡 》
【 交響曲 第2番 ハ短調「小ロシア」作品17 】
チャイコフスキーは、鉱山技師の父と18歳も年下の2度目の妻との間に
次男として、169年前の5月7日ロシアの田舎町のヴォトキンスクで生まれた。
教養のある母は夫を熱愛し、20代の若さだったが立派に家事をきりまわしていた。
両親とも音楽が好きで、父はフルートを母は歌が上手だった。
チャイコフスキーが14歳のときに、母はコレラに罹り40歳で亡くなり、
大きな打撃を受けた。
当時のロシアでは、地方には小学校はなかったので、上流社会では
家庭教師を雇っていた。
彼の家ではフランス人のファンニーを迎え、子どもたちの教育を任せた。
転居後も、チャイコフスキーとファンニーとの文通は続き、大きな影響を受けた。
幼少のころから音楽的才能を示したが、サンクトペテルブルクの
法律学校で学び、卒業後は法務省に勤務した。
しかし、2年後にアントン・ルービンシュタインが設立した音楽学校に入学し、
しばらくして法務省の職は辞した。
チャイコフスキーの交響曲は、「第1番」から「第3番」までは、素朴な民族的表現が
中心になっていて、後の3つの作品の準備段階を示している。
「第4番」から「第6番」は、彼の個性が完全に発揮され、
独自のスタイルを築いている。
構成的なものを本質とする従来の交響曲のなかに、迫力のある抒情性を加え、
同時に叙事的表現によって全体をドラマティックに統一することに成功した。
交響曲「マンフレッド」は、ベルリオーズの固定観念の方法で作曲した、
古典的形式の枠を越えた構想である。
交響曲第1番 ト短調 作品13「冬の日の幻想」(1866年)
交響曲第2番 ハ短調 作品17「ウクライナ」(1872年)
交響曲第3番 ニ長調 作品29「ポーランド」(1875年)
交響曲第4番 ヘ短調 作品36(1877年)
マンフレッド交響曲 作品58(1885年)
交響曲第5番 ホ長調 作品58(1888年)
交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」(1893年)
「小ロシア」とは、ウクライナのことだが、ポーランド人からみて
国境地帯のウクライナと呼ばれた地方はロシアから考えた場合、
小ロシア人(マロロス)の居住地となる。
この曲の「小ロシア」は愛称で「冬の日の幻想」以外は
チャイコフスキー自身が付したものではない。
第1楽章 Andante sostenuto-Allegro vivo
ロシア民謡「母なるヴォルガを下りて」が
ウクライナ風に変形されて主題となっている。
第2楽章 Andantino marziale,quasi moderato
歌劇「ウンディーネ」のために作曲したもの。
トリオでは、民謡「回れ私の糸車」を引用。
第3楽章 Scherzo.Allegro molto vivace
第4楽章 Finale:Moderato assai-Allegro vivo
主題にウクライナ民謡「ジュラーベリ」(鶴)が
用いられ、様々な楽器に受け渡されながら
種々な変形と、装飾変奏のなかで発展する。
初版の形での初演は1873年2月7日、モスクワにおいてロシア音楽協会の
演奏会で、ルビンシティンの指揮によって行なわれ、大成功であった。
「第2番」は、国民主義的色彩の濃い初期の作品で、「第4番」を作曲した後に
改訂され、現在演奏されるのは、改訂された第2版で、1881年2月12日に
ペテルブルクにおいて初演された。
《 民族的表現 》
【 交響曲 第3番 ニ長調 作品29「ポーランド」 】
チャイコフスキーは、交響曲を第1番〜6番までと、
番号なしの「マンフレッド」の7曲を書いた。
第1番「冬の幻想」、第2番「小ロシア」、
第3番「ポーランド」は、素朴な民族的表現が中心となっていて、
後の3つの作品の準備段階ともいえる。
1875年に作曲した 第3番は5楽章からなり、
彼の交響曲ではこの曲だけが長調である。
作曲した年の11月7日、モスクワにおいて
ニコライ・ルビンシティン指揮のロシア音楽協会の演奏会で初演された。
彼の才能があまり発揮されていない作品ともいわれ、他の交響曲よりも
演奏されることが少ないが、N響の音楽監督だったアシュケナージの
就任後初の定期演奏会で演奏されたのはこの曲だった。
第1楽章 Moderato assai-Allegro brillante
第2楽章 Allegro moderato e semplice
第3楽章 Andante elegiaco
第4楽章 Allegro vivo
第5楽章 Allegro con fuoco
《 不幸な結婚 》
【 交響曲 第4番 ヘ短調 作品36 】
交響曲第4番は、チャイコフスキーの交響曲の中で最も変化の多い、
最も情熱的な曲である。
彼の特色とする旋律の暗い美しさ、構成の巧さ、管弦楽の取り扱いの妙、
これらがこの曲を永遠に愛されるものとしている。
この曲を作ったときは、不幸な結婚に悩んでいた時代だが、
その少し前の1876年の終わりごろ、フォンメック未亡人との間に
不思議な交際が始まっていた。
音楽院教授をつとめていた36歳のチャイコフスキーに、45歳の裕福な
フォン・メック未亡人が年金の援助を提供したのである。
2人は文通だけのお付き合いで、一度も会うことはなかった。
1877年、突如として第2の女性が現れた。
音楽院のかつての弟子である28歳のアントニーナの暴風的な情熱に
振り回されて結婚はしたものの、一月もたたないうちに、
チャイコフスキーは家を出てしまった。
少ししてからまた彼女と同棲したものの、またまた2週間で家を出、
ある夜モスクワ川の水に腰まで浸って凍死をしようとしたところを救われた。
10歳年下の弟のアナトーリーが病院に入れ、退院後も兄の世話をし、
1878年の1月にこの交響曲は完成した。
この曲の扉には「わが最も良き友に」と記されてあったが、
この「良き友」とはフォン・メック未亡人のことである。
初演は、2月22日にモスクワのロシア音楽協会演奏会で、
ルビンシティンの指揮により行なわれた。
チャイコフスキーはこのときイタリア旅行中で、フィレンツェに滞在していた
彼のもとに、初演の成功を伝える電報が届いた。
終曲の第4楽章では、ロシア民謡「野に立つ樺の木」の
素朴な美しい調べが第2主題で使われている。
第1楽章 Andante sostenuto-Moderato con anima
第2楽章 Andantino in modo di canzona
第3楽章 Scherzo: Pizzicato ostinato
第4楽章 Finale: Allegro con fuoco
《 カーネギー・ホール 》
【 交響曲「マンフレッド」作品58 】
音楽の殿堂、ニューヨークの「カーネギー・ホール」は、
1891年5月5日にアメリカの鉄工王アンドリュー・カーネギーの寄付で完成した。
オープニングを飾ったのは、当時51歳のチャイコフスキーだった。
ホールのこけら落としの当日、ゲスト指揮者として、ニューヨーク・フィルを指揮して、
自作を数曲指揮し、大喝采を浴びた。
その6年前に作曲した「マンフレッド」は、愛する妹のアレクサンドラ・ダヴィドヴァを
亡くした年に書かれた。
この曲は、チャイコフスキー自身は「序曲」と呼んだり、「幻想曲」と呼んだりしていた。
分類上交響詩と数える場合もあるが、4楽章からなるその構想と規模の大きさは、
交響曲の内容をそなえている。
シューマンの名曲「マンフレッド序曲」は、その37年前に書かれている。
交響曲「マンフレッド」は、ベルリオーズの固定観念の方法で作曲した、
古典的形式の枠を越えた構想で、標題楽的交響曲の内容をそなえている。
マンフレッドは歴史上実在の人物で、バイロン卿が1817年に書いた
詩劇「マンフレッド」に基づいて作曲された。
第1楽章 Lento lugubre
(アルプスの山中を彷徨うマンフレッド)
第2楽章 Vivace con spirito
(アルプスの妖精)
第3楽章 Andante con moto
(山人の生活)
第4楽章 Allegro con fuoco
(アリマネスの地下宮殿)
《 哀愁 》
【 交響曲 第5番 ホ短調 作品64 】
1888年3月に、ヨーロッパの演奏旅行から帰ってきた
チャイコフスキーは新居に移った。
森に囲まれた庭をもつ古い荘園の邸宅で、
彼は仕事の合間に付近の散策を楽しんだ。
しかし48歳の彼は疲れていた。
メック夫人に宛てた手紙に「私はそれほど老人ではないのですが、
年齢を感じはじめました。私は大変疲れます。
もとと違ってピアノを弾くことも出来なくなりました。夜、本を読むことも
出来なくなりました。」と書いている。
しかし、その夏、彼は健康を害していたにもかかわらず、交響曲第5番を
完成させ、11月17日にペテルブルグでチャイコフスキーの指揮のもとに
初演され、聴衆は大いに喝采したが、批評家の評判が決してよくなかった。
なによりも彼自身が、この曲を初めから好んでいなかったようで、
「あの曲の中にはなにかイヤなものがあります。
大げさに飾った色彩があります。
人々が本能的に感じるようなぞんざいな不誠実さがあります。」
と、彼はメック夫人に自分の曲をコキおろした手紙を送っているのだ。
しかしその後、モスクワでもハンブルグでも、彼の指揮で演奏したが大好評で
あったこともあり、チャイコフスキーは自信をもつようになったといわれる。
激情的な第4番と、憂鬱きわまる第6番(悲愴)との間にはさまって、
この曲は中途半端なもののような扱い方もされたが、第4番に比べたら
この5番のほうが多くの愛好者をもっているようだ。
冒頭のクラリネットの重々しい暗い雰囲気の旋律は、「運命」の主題といわれ、
4つの楽章に様々な形で現れる。
第4楽章は厳かで雄大な感じをもつもので、悲哀に打ち勝つ強い気持が
高唱されているように感じられる。
全曲を通じて哀愁が漂っているが、ほのぼのとした憧れや夢、
憩いといった情緒が感じられ、心を慰めてくれ、和らげてくれる一曲だ。
第1楽章の冒頭のクラリネットの重々しい暗い雰囲気の旋律は
「運命」の主題といわれ、4つの楽章に様々な形で現れる。
第2楽章の主旋律のホルンは、甘美で端正な哀傷の感じをもち、
あこがれをうたうように美しい。
第3楽章は、夢幻的な円舞曲。
第4楽章は厳かで雄大な感じをもつもので、悲哀に打ち勝つ強い気持が
高唱されているように感じられる。
第1楽章 Andante-Allegro con anima
第2楽章 Andante cantabile,con alcuna licenza
第3楽章 Valse.Allegro moderato
第4楽章 Andante maestoso-Allegro vivace
ムラヴィンスキー,エフギニー 〔露〕
(1903.06.04〜1988.01.19) 84歳
世界的な指揮者のムラヴィンスキーは、サンクトペテルブルクの
貴族の家に生まれた。
父は法律家、母は歌手で、恵まれた家庭だったが、1917年のロシア革命で
財産を没収され3年後に父は世を去った。
ムラヴィンスキーは、生物学を学んでいたが、21歳でレニングラード音楽院に
入り直し、卒業後はマリインスキー劇場で指揮者としてデビューした。
後にレニングラード・フィルハーモニー交響楽団で常任指揮者として活躍した。
威厳のある振る舞いと超絶的パフォーマンス、そして、その長身から
「ロシアンクレンペラー」の異名を得ている。
1973に初来日したが、飛行機嫌いのためシベリア鉄道と船による来日だった。
日本に対しては非常に大きな好感をもち、その後3度来日している。
チャイコフスキーの「交響曲 第5番」は、生涯を通じて最も多く演奏した曲で、
多くの録音が残されている。
《 初演後の死 》
【 交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴」】
チャイコフスキーには10歳年下の双子の弟(モデストとアナトーリー)がいた。
二人が生まれたとき、元家庭教師だったフランス人のファンニーに宛てた手紙に
「ばくは二人を見るたびに二人の天使が地上に降りてきたような気がします」
と書いて送った。
アナトーリーとは手紙のやりとりを頻繁にしていて、「悲愴」の作曲の経過も
詳しく知らせていた。
「これは私の最上の作となるだろう・・・」と書いている。
ロシア最大の作曲家、チャイコフスキーの交響曲第6番は古今の交響曲中でも、
第一級の屈指の名作といわれている。
1893年10月28日、チャイコフスキーの指揮のもとペテルブルグで初演された。
初演の後、彼は弟のモデストに「この曲を『第6交響曲』と名付けるのは
淋しすぎる・・・」「トラジック(悲劇的)はどうだろう」との返答に
チャイコフスキーが反対した。
モデストはしばらく別室に退き、急に「パテティック(悲愴)」を思いついて、
兄の室に戻ってこれを言った。
「うまい、ブラヴォ、パテティックだ」
楽譜の上にSymphonic pathetique と書かれ、出版社に送られたとある。
全曲に暗い翳と絶望感をもって終わる「悲愴」の初演9日後に、
チャイコフスキーはコレラのため永遠の眠りについた。
苦悩、不安、焦燥、哀切、惨烈な苦闘、感傷、哀歌、悲痛、哀傷、悲嘆、
苦悩 ・・・交響曲第6番「悲愴」について書かれた解説書に出てくる言葉である。
この曲は4楽章からなるが、第1楽章の序奏から恐怖におののくような
暗いものがのしかかってくる。
ロシア民謡によく出てくる4分の5拍子の第2楽章は、速度が速く、
軽快に流れるものの、暗い雲が低迷する。
スケルツォと行進曲を合わせた二部形式の第3楽章。
終曲の第4楽章は、きわめて重く暗い楽章で「悲愴」そのものである。
この交響曲を作曲しながら何度も涙し、完成後に「私の一生で一番良い作だ」と
言ったほどの、自信ある傑作。
終楽章は、せつせつと訴えるような弦の響きが、あえぎながらやがておとろえ、
しぼみ、消えてゆく終末まで、全曲に暗い翳と絶望感をもって終わる。
第1楽章 Adagio- Allegro non troppo
第2楽章 Allegro con grazia
第3楽章 Allegro molto vivace
第4楽章 Finale.Adagio lamentoso
《 草稿のまま 》
【 交響曲 第7番 変ホ長調 】
チャイコフスキーは「交響曲第6番」“ 悲愴 ”を彼自身の指揮のもと
ペテルブルグで初演した9日後の11月6日に生水を飲んだことでコレラにかかり、
53年の生涯を閉じたとされるが、死の前夜に肺水腫の
併発をしたとか、死因には諸説ある。
「交響曲第6番」が、チャイコフスキーの最後の交響曲だが、「交響曲第5番」を
完成した後に作曲に取りかかったのが「人生交響曲変ホ長調」だった。
しかし、この曲は草稿のままで放棄してしまい、
第1楽章を「ピアノ協奏曲第3番」に転用している。
1950年にロシアの音楽学者、作曲家のボガティレフがチャイコフスキーの
いくつかの素材を組み合わせて補筆し、未完成だった交響曲は、
4楽章の「第7交響曲」“人生”として出来上がった。
この草稿は、セミヨン・バラキリエフによりオーケストレーションされ、
1960年にソ連で出版された。
《 友情 》
【 ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 作品 23 】
チャイコフスキーは、ピアノ協奏曲を3曲書いた。
洗練された西欧趣味の華やかさはないが、ロシア的主題も使ったスラブ的な
重厚な線の太さと、色彩的な管弦楽法が魅力となっている第1番が、
一番頻繁に演奏されている。
第1番 変ロ短調 作品23(1875年)
第2番 ト長調 作品44 (1880年)
第3番 変ホ長調 作品75(1893年)
第1番を書いたのは、彼が34歳のときだったが、モスクワ音楽院教授の職にあって、
多くの作品を発表し、すでに作曲家として相当に知られていた。
この曲が完成すると、チャイコフスキーは音楽院の院長ニコライ・ルビンシテインと
同僚に聞かせたが、2人とも、ピアノに不適当だとか、けばけばしいとか
独創性がないなどと、悪評だった。
しかし、彼はこの曲に自信をもっていたので、初演してくれるピアニストを
探したところドイツのハンス・フォン・ビューローが、独創的で驚嘆すべき
名曲であると認め、アメリカへの演奏旅行にその楽譜を携え
ボストンで初演を行ない、喝采をあびた。
その後の、モスクワでの初演も大好評だった。
このような事情で、この協奏曲はルビンシテインに献呈されるはずだったが、
ビューローに献呈された。
ビューローは、9歳でシューマンの義父(妻クララの父)のヴィークにピアノを学んだ 。
27歳のとき、リストの娘のコジマと結婚したが12年後には離婚をし、
コジマはワーグナーと再婚している。
ルビンシテインはチャイコフスキーよりも、5年先輩であり、ピアノの大家として
活躍していたので、この曲を作るにあたり、教えをこうことがなかったことで
機嫌を損ねたようだが、この曲の初演の3年後、彼はチャイコフスキーに謝罪し、
それ以後この曲をしばしば彼の演奏会曲目に加えたので、
2人の間の友情も元通りになったといわれる。
ホロヴィッツ,ウラディミール 〔露→米〕
(1904.10.01〜1989.11.05) 85歳
ピアノの巨匠ホロヴィッツは、ロシアのキエフで生まれ、キエフ音楽院で学び、
卒業後その下で働いた後、18歳でデビューし、演奏旅行を始めた。
当初それほどの評価は得られなかったが、彼を成功に導いたのは、
その4年後のドイツのハンブルグでの出来事だった。
オーケストラ・コンサートのピアニストがキャンセルをし、その代役を
引き受けたところ、その演奏が空前のできばえで、大成功に終わった。
その時に演奏したのが、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」だった。
28年にニューヨーク・フィルと競演してアメリカでデビューし、
そのころから世界的な大ピアニストとして認められるようになった。
33年に大指揮者トスカニーニの娘ワンダと結婚し、53年には病弱のため引退、
その後はレコードへの録音だけを行なっていたが、65年5月に
カーネギー・ホールで12年振りのリサイタルを催し、熱狂的な喝采をあびた。
1978年には、アメリカ・デビュー50周年記念コンサートをホワイト・ハウスで
行なったが、その11年後の11月5日に85年の生涯を閉じた。
クライバーン ,ヴァン (米〕
(1934.07.12〜 )
アメリカ・ルイジアナ州で生まれたピアニストのクライバーンは、
1958年「第1回チャイコフスキー国際コンクール」
ピアノ部門第1位に輝き、一躍国民的英雄となった。
当時23歳だったが、4年後から「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」が
開催されている。
「チャイコフスキー国際コンクール」は、4年に一度モスクワで開催される
世界的に権威のあるコンクールで、1962年第2回ピアノ部門第1位だったのが、
NHK交響楽団音楽監督だったアシュケナージだった。
《 四大バイオリン協奏曲 》
【 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 】
「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」 は「四大ヴァイオリン協奏曲」のひとつにあげられるが、
メンデルスゾーン(ホ短調)を除いて、ベートーベンとブラームスの
作品もニ長調であるが、これは偶然ではなく、ニ長調はヴァイオリンの
一番よく鳴る調だからということのようだ。
4人共、一生のうちにヴァイオリン協奏曲を1曲しか残していないと
思われていたが、1951年になってメンデルスゾーンには、13歳のときに
作られたニ短調の曲が見つかった。
チャイコフスキーの協奏曲は38歳のときの作品で、この年友人のコテックという
ヴァイオリニストがしばらくいっしょに住んでいたので、ヴァイオリンの部分の
演奏を彼に頼むことが出来た。
出来上がったこの名曲は、最初評判が悪かった。
しかし、初演のときに独奏したロシアのバイオリニストのアードルフ・ブロズキーが、
演奏旅行の旅ごとに各国で演奏し、ようやく認められるようになり、
後にこの曲は、彼に捧げられた。
ヴァイオリン独特の絢爛たる近代的演奏技法を十分に発揮し、管弦楽を
色彩豊富に用い、ロシア民謡を加味した地方色と、チャイコフスキー独特の
哀愁こもる耽美的な旋律をもりこんだ独自な作品となっている。
第1楽章 Allegro moderato-Moderato assai
第2楽章 canttwoneta Andante
第3楽章 Allegro vivacissimo
《 抒情的場面 》
【 歌劇「エフゲニー・オネーギン」】
ロシアの文豪プーシキンが書いた悲劇的な人物の
エフゲニー・オネーギンは、自分の存在を無意識に感じ、その虚無的な
行動から周囲のものを不幸にしていく。
その彼を思慕するタチアーナは純朴な田舎の領主の娘で、
「ロシアの土」の理想化されたいわばロシア人の理想のタイプである。
チャイコフスキーは、主人公をエフゲニー・オネーギンではなくて
タチアーナにし、彼女のあらゆる感情の陰影を同感をもって
追求した第3幕のオペラとした。
このオペラは、作曲を始めてから完成までに2年かかっているがその間、
アントニーナ・ミリューコヴァかの熱狂的な結婚の申し入れがあり、
数週間の結婚生活ーその破局と自殺の企てー神経性発作ー外国での療養
という一連の悲劇によって一時中断された。
そのころから、文通上だけの女性のフォン・メック夫人の精神的、
物質的な援助により、健康と創作力を回復し、脱稿することができた。
初演は、アレクサンドル三世皇帝の命によりペテルブルグ帝国劇場で、
1884年10月19日に行なわれたが、その5年前にモスクワ音楽院オペラ科の
学生たちにゆだねた初演も行なわれている。
それは、劇的なダイナミックな舞台効果は意図とせず純粋な抒情劇としたので、
チャイコフスキーは「オペラ」とは呼ばず、「抒情的場面」と呼び、大劇場の
スタッフを使わなかったことからの初演だった。