Tchaikovsky2
2−2
チャイコフスキー,ピョトル・イリイチ 〔ロシア〕
 (1840.05.07 〜 1893.11.06) 53歳 (コレラ)

          
2−1
           【 交響曲 第1番 ト短調「冬の幻想」作品13 】
           【 交響曲 第2番 ハ短調「小ロシア」作品17 】

           【 交響曲 第3番 ニ長調 作品29「ポーランド」 】
           【 交響曲 第4番 ヘ短調 作品36 】
           【 交響曲「マンフレッド」作品58 】
           【 交響曲 第5番 ホ短調 作品64 】
           【 交響曲 第6番 ロ短調「悲愴」作品74 】

           【 交響曲 第7番 変ホ長調】
           【 ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 作品 23 】
           【 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 】

           【 歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24 】
          
2−2
           【 幻想的交響詩「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32 】
           【 幻想序曲「ロメオとジュリエット」】
           【 幻想序曲「ハムレット」作品67
           【 バレエ音楽「白鳥の湖」作品20 】
           【 バレエ組曲「眠れる森の美女」作品66a 】
           【 バレエ組曲「くるみ割り人形」作品71a 】
           【 イタリア綺想曲 作品45 】
           【 序曲「1812」年作品49 】
           【 セレナード ハ長調 作品48 】

           【 弦楽六重奏曲 ニ短調「フィレンツエの想い出」 作品70 】
           【 弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品11 】
           【 ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50 】
           【 ピアノ組曲「四季」作品37 】





《 ダンテの「神曲」》

幻想的交響詩「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32

絶世の美女とたたえられた、十三世紀の実在のフランチェスカ姫は
イタリアのリーミエの領主ギード・ダ・ポレンタの娘だった。
政略結婚を強いられ、醜男の嫉妬深いマラテスタの妻となるが、
美男子の弟パオロと道ならぬ恋をし、二人は夫の刃にかかって命を失った。

この話しを伝え聞いた23歳のダンテが、不朽の名作「神曲」の「地獄編」の
第5歌の終わりで、フランチェスカに告白させている内容を扱い有名になった。

後に、イタリアの詩人ペッリーコが悲劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」の
外題で書いたことがきっかけで国外にも評判となり、戯曲、絵画と名作を残した。

音楽でも、チャイコフスキーの他にフランスのトーマなど、数人が作曲している。

1876年はチャイコフスキーにとって非常に良い創作に恵まれた年で、
「スラブ行進曲」バレエの名作の「白鳥の湖」チェロの傑作
「ロココの主題による変奏曲」を作曲している。
この夏に、バイロイトのワーグナー祭に行く途中、汽車の中で
ダンテの「神曲」を読み作曲を思いたち、その年に書き上げた。

翌年の2月25日にモスクワで、ニコライ・ルビンシティンの指揮で初演され、
非常に好評をもって迎えられた。

チャイコフスキーは「ダンテによる幻想曲」と書いているが、
愛に苦悩する人間の感情を叙情的にかつ雄弁に歌いあげている。

第1楽章ー幽界の恐ろしい風物が描かれている        
第2楽章ーフランチェスカの霊魂が問われるままに哀れな   
     悲しい恋の物語りを語る。            
第3楽章ー多感の詩人にわが悲恋を物語り終えた薄命の美女が、
     愛する人の腕に抱かれ、同じような運命で世を去った
     幽魂たちが、木の葉のように吹き飛ばされる地獄の 
     ものすごい風にまかれて視野のかなたに姿を没する 
     凄惨な光景が描かれている。           




《 シェイクスピアによる幻想風序曲 》


【 幻想序曲「ロメオとジュリエット」】

1869年の秋に作曲し、チャイコフスキーの最初の傑作といわれる
幻想序曲「ロメオとジュリエット」は当時ロシア音楽界の実権を握っていて、
友人でもあったバラキレフの勧めで作曲した。

翌年の3月16日にモスクワでニコライ・ルビンシティンの指揮により
初演されたが、1871年に改訂をし、バラキレフに献呈された。
その後更に手を加え、現在演奏されている決定稿が
出版されたのは、1881年のことだった。

曲はソナタ形式で、修道僧ローレンスを表現する宗教的な序奏で始まり、
続いてロ短調のAllegroでモンターギュ、キャピュレット両家の
激しいあつれきを描き出す第1主題。

その後、ロメオとジュリエットの美しい悲恋をえがく優雅な第2主題が奏される。

展開部では、二つの主題が交錯し、再現部の終わりはロメオとジュリエットの、
清楚なそしてあまりにも美しい悲恋をほのめかすかのような木管の
ほのぼのとした柔らかいハーモニーが、ハープのアルペッジョを伴い、
二人の死で清らかに曲を閉じる。





幻想的序曲「ハムレット」作品67

シェイクスピアは他人との合作を含め、36編の戯曲を残したが、
その作品は多くの作家により音楽家された。

チャイコフスキーも3曲の作品を書いたが、1888年12月に初演された
「ハムレット」は、その年にライプチヒで会ったグリーグに捧げられ、
永く美しい友情の記念となった。

シェイクスピア,ウィリアム 〔英〕
(1564.04.26〜1616.04.23)  52歳 

イギリス最高の劇作家のシェイクスピアは、イングランドで生まれた。
シェイクスピアの作品をもとに、作曲した作品の主なものである。

あらし
  チャイコフスキー (1873年作曲)
   交響幻想曲「テンペスト」

ウィンザーの陽気な女房たち

  ヴェルディ (1893年作曲)
   オペラ「ファルスタッフ」

ヴェロナの2紳士

  シューベルト (1826年作曲)
   歌曲「シルヴィアはだれ?」

オセロ

  ロッシーニ (1816年作曲)
   オペラ「オテロ」
 
 ヴェルディ (1887年作曲)
   オペラ「オテロ」
 
 ドヴォルザーク (1892年作曲)
   序曲「オセロ」

ハムレット

  トマ (1868年作曲)
   オペラ「ハムレット」
チャイコフスキー (1885年作曲)
 
幻想的序曲「ハムレット」作品67
 
リスト (1858年作曲)
   交響詩「ハムレット」

マクベス

  ヴェルディ (1847年作曲)
   オペラ「マクベス」
 
R・シュトラウス (1890年作曲)
   交響詩「マクベス」作品23

真夏の夜の夢

  メンデルスゾーン (1643年作曲)
   付随音楽「真夏の夜の夢」

ロメオとジュリエット

  ベルリオーズ (1839年作曲)
   劇的交響曲「ロメオとジュリエット」Op.17

チャイコフスキ− (1869年作曲)
   幻想的序曲「ロメオとジュリエット」

プロコフィエフ (1935年作曲)
   バレー組曲「ロメオとジュリエット」Op.64




《 三大バレエ 》

【 バレエ音楽「白鳥の湖」作品20 】

チャイコフスキーの残した3つのバレエ音楽の「白鳥の湖」「くるみ割り人形」
「眠りの森の美女」は、現在いずれも全曲が上演されている。
当時のバレエは宮廷バレエで、上品な娯楽性を重んじたために、
お伽話からだけえられる空想の世界が好んでバレエ作者によって取り上げられた。

1871年の夏、チェイコフスキーは、カメンカのダヴィドフ家に嫁いでいた
妹のアレクサンドラの子どもたちのために、小さなバレエ「白鳥の湖」を作曲した。

その4年後の春に、モスクワのボリショイ劇場からバレエ音楽を委嘱され、
中世ドイツの伝説の「白鳥の湖」を選んでいる。

1877年に初演された「白鳥の湖」は、全く踊りに適さないという批評にあい、
あらゆる面で悪評をかったが、チャイコフスキーの追悼公演のため
検討した結果、価値を認められ第2幕を上演した。

1895年1月27日に全曲を蘇演して好評を得、
後に最も上演回数が多い作品となった。

甘美な、メロディアスな音楽が「白鳥の湖」のストーリーのもつ、
単純で幻想的な性質と一致していて、登場人物の心理や、シチュエーションを
見事に描き出すことに成功している。

演奏会用組曲は、彼自身が編んだものではなくて、オリジナル版、
パティバ=イワーノフ版、ディアギレフ版とあり、版によってかなり相違がある。

序奏                          
第1幕 背景に城を望む豪壮な庭園            
第2幕 遠くに、朽ち果てた寺院のある湖のほとり。真夜中。
第3幕 儀式のために整えられた華やかな広間       
第4幕 第3幕と同じ場面。               




【 バレエ組曲「眠れる森の美女」作品66a 】

 1889年に作られた 「眠りの森の美女」の創作には振付け師から
この場面は何の踊りだから、音楽は何拍子で、どのくらいの
長さのものというような要求に応じながら作曲したので、
自然に湧き出たような美しい旋律が書け、好評だった。

「眠りの森の美女」は、有名なフランスのお伽噺作者シャルル・ペローの
名高いお伽噺集の中に収められている「シンデレラ」「長靴の猫」
「小さい赤頭巾」などの名作の一つで、美女は世間なみの女性ではなくて
王女なので、英訳では“The Sleeping Princess”と訳されている。

バレエの初演は、1890年1月15日に行なわれたが、前日の
ドレス・リハーサルにはアレクサンドル三世が臨場している。

全曲は三幕四場の大作で、全曲通しの公演は、普通のバレエ団などが
容易に企てうることではなく、抜粋で踊られることが多い。

管弦楽の演奏も、この大作中から5曲を抜いて演奏会用に改めた、
第1楽章から終曲(花のワルツ)の第5楽章を組曲とした、
作品66のaに限られている。




【 バレエ組曲「くるみ割り人形」作品71a 】

 「くるみ割り人形」(1892年)は、ホフマンの幻想的な童話
「くるみ割り人形と二十日鼠の王様」をデューマがフランス語に
訳したものがもとになっている。

クリスマスにシルバーハウス家の娘マリーは、くるみ割り人形
(くるみを割るための鉄製のハサミのようなものを人形にしたもの)をもらった。
やんちゃな兄たちがひったくってこれを壊してしまう。
マリーはこれをいたわって寝かしつける。
真夜中になって、二十日鼠が攻めてくる。怪我をしていたくるみ割り人形は、
起き上がって動き出す。
大戦争となり、二十日鼠のほうが優勢であったが、くるみ割り人形は鉛の
兵隊と一緒になって戦い、おしまいに二十日鼠の王様と一騎討ちとなる。
危ういところで、マリーは靴を王様に投げ付けたので、王様は倒れ
二十日鼠軍は逃げ去る。
するとくるみ割り人形は、美しい王子になってマリーをお伽の国へ案内する。
翌朝ソファーの上で眠っていたマリーは揺り起こされ、夢の中の
出来事だったというお話である。

バレエ組曲「くるみ割り人形」は、チャイコフスキーが演奏会用に編曲したもので、
初演のときは彼自身の指揮で行われ、大好評を博した。
しかし、バレエのほうの初演は数カ月後だったが、あまり評判は良くなかったようだ。

その年の3月7日にペテルブルグで作曲者自身の指揮で初演された
バレエ組曲「くるみ割り人形」は、大好評を博した。

それは、2幕3場のバレエ曲「くるみ割り人形」の音楽15曲の中から8曲を選び、
演奏会用の組曲に編曲されたものである。

しかし、数カ月後に行なわれたバレエのほうは、あまり評判は良くなかった。




《 憂鬱症 》

【 イタリア綺想曲 作品45 】

 チャイコフスキーは1879年12月中旬から、弟のモデストと一緒に
イタリアで過ごしたが、気候の良い、静かな環境で旧作の加筆改定と
新しい創作に没頭するためだったが、「永遠の都」は刺激が多過ぎた。

弟は大のイタリア美術礼讃者で、しばしば兄を名画見物にひっぱりだした。
チャイコフスキーが最も心酔したのはラファエロで、
彼は「絵画のモーツァルト」と呼んだ。
また、ミケランジェロのモーゼスを、「なんという偉大な作品だろう!
私は何回も何回もその前に立ったが、そのたびごとに前よりも
深い敬意の念を抱いてこれに対した。
これこそ真に最高の天才の創造である」と誉めたたえている。

こうした美術上の傑作を鑑賞することは、創作のために良い影響を与えたが、
長いホテル暮らしは快適ではなかった。
同宿の老将軍からは、ピアノの音がうるさいと抗議をされたり、
各国大使夫人たちからは晩餐会に誘われたり、チェイコフスキーが
滞在中と知ったローマの楽人たちには、敬意を表しに訪問されたりと、
落ち着いた生活が出来なかった。
そのため、彼はすっかり精神的に疲労して極端な憂鬱症に陥った。

それは、1月の半ばごろのことだったが、そこに思いもよらない
父の永眠を伝える手紙が届いた。
その返信に「手紙を読んで思う存分泣き、父のために流した涙は、
私の憂鬱症を治療する効き目がありました。私の混迷は雲のように消え、
その代わりに諦めがつきました」と書いている。

その後、「イタリア綺想曲」の草案を着手したが、完成したのは、ウクライナの
カメンカという村に嫁いでいる妹のアレクサンドラの家に滞在中であった。

1880年12月6日モスクワ音楽協会により、
ルービンシテインの指揮で初演され、好評を博した。

ローマで見つけた民謡曲集のいくつかや、滞在中に町で耳にした特徴ある
曲節を、リズムや旋律の性格に従って排列し、地方色豊かな管弦楽的色彩を
与えて、雪深い北欧人たちが夢にも憧れている常夏の南ヨーロッパの、
地中海を巡らした国の風物を連想させる一巻の音の絵巻物としている。

綺想曲=カプリッチオ
(気分の流れのままに自由に変化する軽快な器楽曲)




《 祝砲 》

【 序曲「1812年」作品49 】

 大がかりな一種の描写音楽であるこの曲は、1812年に、かのナポレオンが
60万の大軍をもって首都モスクワに攻め入ったものの、寒さと餓えのために
敗退するという物語をオーケストラで描いたものである。

ナポレオン軍によって焼かれた、モスコーのキリスト教の中央大寺院の
再建を祝う音楽祭が1880年8月8日に寺院の前の広場で行なわたが、
序曲「1812年」は、そのときに初演された。
曲の最後の部分に出てくる祝砲は、砲兵によって実際に大砲を打った。

5つの主題を材料として使っていて、その一つはフランス国歌の
「マルセイエーズ」だが、あとの4つのロシアの曲でフランス軍を負かし
勝利するという流れになっている。

5つの主題の一つに、フランス国歌の「マルセイエーズ」の旋律を使い、
ロシアの曲でフランス軍を負かすという流れになっている。


「マルセイエーズ」が国歌になったのは1863年なので、
1812年には国歌ではなかった。
チャイコフスキーはこの曲を、ロシアの演奏会以外では不適当な曲と
考えていたが、大変に派手な曲で一般には人気のある曲である。
曲は3つの部分からなっている。

第1部 ロシアの苦悩
第2部 戦闘の様子 
第3部 ロシアの勝利




《 自由なスタイルのセレナード 》
 
【 セレナード ハ長調 作品48 】

 1880年から翌年にかけての冬の間に作られた
弦楽合奏の「セレナードハ長調」は、チャイコフスキーが青年時代に
ニコライ・ルービンシティンと一緒に下宿していた家の主人で、
そのころモスクワ音楽院の監事をしていたアルブレヒトに捧げられた。

チャイコフスキーはセレナードを、器楽曲では3曲作曲している。
1872年に小管弦楽のためのセレナード(作品番号なし)を、3年後には
憂愁の美をたたえた、独奏ヴァイオリンと管弦楽のための
「ゆううつなセレナード」作品26がある。

モーツァルトの敬愛から書いた作品48は4楽章からなり、ドイツ音楽上の
古典派とロマン派の影響が強い。

            第1楽章 Andante non troppo   
                 (ソナチネ形式による小曲)
                 ハ長調の作品だが、イ短調の重厚な序奏で始まり、
                 シューマン風な主題が展開する。

            第2楽章 Moderato. Tempo di Valse 
                 ヨハン・シュトラウスを思わせるような
                 ウィーン風なワルツ。

            第3楽章 Larghetto elegiaco    
                 スラブ的な哀愁の悲歌。

            第4楽章 Andante-Allegro con spirito
                 (ロシアの主題による終曲)
                 ロシア民俗舞曲跳びまわるような旋律が
                 あらわれたりと、自由なスタイルの
                 セレナードになっている。

1882年1月16日にモスクワで初演され、「非常な成功」をしたと
楽譜出版者への手紙に書かれているし、メック夫人への手紙にも、
自信作であるとしたためられていた。




《 死の1年前 》

【 弦楽六重奏曲 ニ短調「フィレンツエの想い出」作品70 】
      

チャイコフスキーは、1890年1月?4月までフィレンツエに滞在して、
オペラ「スペードの女王」の作曲をしたが、そのときに「弦楽六重奏曲ニ短調」の
スケッチを始め、ロシアに帰国後の6月?8月に第1稿を完成させた。

9月に友人と非公開で演奏したが、1891年の暮から翌年にかけて改訂し、
その第2稿で1892年12月8日にペテルブルク室内楽協会で 初演を行なった。

バイオリン2、ビオラ2、チェロ2の楽器編成で、第4楽章からなる作品だが、
標題のイタリア的な旋律はなく、ロシア的な主題が多く使われている。

チャイコフスキーといえば、フォン・メック夫人との
関係で有名だが、彼女は夫の莫大な遺産で暮らしていた未亡人で、
チャイコフスキーを崇拝し、毎年6000ルーブルのお金を送っていた。

この教養深い夫人との文通による交際は彼が50歳まで13年間続いたが、
ただ1度の偶然のめぐり会いをのぞいて、生涯2人は1度も
面会することはなかった。

この曲は、フォン・メック夫人に捧げるために作曲されたが、そのころ彼女は
健康を害していて、1890年9月に二人の関係が絶たれたため、この曲は
ペテルブルク室内楽協会のメンバーに献呈された。

チャイコフスキーは「弦楽六重奏曲ニ短調」を初演した翌年の11月6日に
生水を飲んだことが原因でコレラにかかり、ペテルブルクで53年の
生涯を閉じたとされているが、死因には諸説ある。

フォン・メック夫人は、チャイコフスキーが亡くなった
2カ月後63歳で世を去っている。

フォン・メック夫人(1831.02.10〜1894.01.13)




《 アンダンテ・カンタービレ 》

【 弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品11 】

 チャイコフスキーの室内楽作品は、彼の管弦楽作品にからすると非常に少なく、
3曲の弦楽四重奏曲、1曲のピアノ三重奏曲、「フィレンツェの想い出」と
題された弦楽六重奏曲が数えられるだけである。

3曲の弦楽4重奏曲のうちで、最も知られているのは第1番で、
ロシア民謡の旋律を用いた第2楽章の「アンダンテ・カンタービレ」に
よって親しまれている。
この部分だけが、ヴァイオリン独奏用に編曲されて演奏されることが多い。

この作品は1871年に作られたものだが、2年前の夏、ウクライナの
カメンカという村に嫁いでいる妹のアレクサンドラの家に滞在していた間に、
大工さんが歌っているのを聞いたといわれているのが
「アンダンテ・カンタービレ」に使われたロシア民謡で、チャイコフスキーは
これを芸術的に処理して作曲した。

作曲の年の3月28日に、モスクワにおいて初演された。




《 ある偉大な芸術家の思い出のために 》

【 ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50 】

 5曲あるチャイコフスキーの室内楽のなかで、よく演奏される長大な三重奏で、
彼の42歳のときの作品である。

彼の先輩であった、モスクワ音楽院の初代校長のルビンシティンが
パリで不帰の客となり、その死を心から悼んでその霊に捧げるべく
この三重奏を作曲した。
完成された原稿には、「ある偉大なる芸術家を記念して」と記されてあった。

初演されたのは完成の年で、ルビンシティンの一周忌の折に
非公開で演奏された。

チャイコフスキーの音楽は、特有の感傷に彩られるが
このピアノ三重奏曲は、一層もの悲しい情緒をえがきだしている。
ピアノのパートが、特に壮麗に書かれているのは、名ピアニストの誉れの
高かった故人を偲んでのものと考えられている。

2楽章からなるが、ソナタ形式による雄大な
悲歌的楽章の第1楽章。
第2楽章は、第1部「主題と変奏(第11変奏)」
第2部は「変奏終曲とコーダ」の2つの部分に分かれている。

ルビンシティン,ニコライ・グリゴリエヴィチ〔露〕
(1835.06.02〜1881.03.23) 46歳

ルビンシティンは、モスクワにおける音楽教育の興隆の基礎を築き、
ピアニストとして指揮者として活躍し、ロシア音楽の発展の上で
多くの功績を残した。

モスクワ音楽院を設立して院長となり、教育者として多くのピアニストや
作曲家を育成したが、彼自身が作曲した作品のピアノ曲は
あまり知られていない。

チャイコフスキーよりも5歳年上で、当時26歳のチャイコフスキーを
作曲科の教師として雇い、何かと面倒をみた。

1881年3月23日、パリで不帰の客となり、46年の生涯を閉じた。





《 12ヶ月 》

【 ピアノ組曲「四季」作品37 】

 「12ヶ月の性格的小品」という副題のついたピアノ曲集で、月々の特色に
マッチしたロシアの詩を選び、その詩の性格を描写したピアノ曲をのせるために、
チャイコフスキーに作曲を依頼され作られたものである。

彼は多くのピアノ曲を作曲しているので、子ども達のピアノのおけいこの教材と
しても使われている。

28歳のときに作曲した「ロマンスヘ短調」は、そのころ思いをよせていた、
フランスのソプラノ歌手デジーレ・アルトーに捧げられているが、周囲の反対から
その初恋は破れている。

その後、作曲に没頭し独身で暮らしていたが、37歳のとき音楽院の教え子から
熱心な結婚の申し込みを受け、結婚したが、わずか2ヶ月ほどで終わってしまった。

チャイコフスキーといえば、フォン・メック夫人との関係が有名だが、
彼女は夫の莫大な遺産で暮らしていた未亡人で、チャイコフスキーを
崇拝し、毎年6000ルーブルのお金を13年間送り続けた。
それは「四季」が書かれた1876年からのことである。

この教養深い夫人との文通による交際はチャイコフスキーが50歳まで
13年間続いていたが、ただ1度の偶然のめぐり会いをのぞいて、
一生涯2人は1度も面会することはなかった。

1875年12月にペテルブルグで、ベルナルドによって
音楽雑誌「ヌーヴェリスト」が発刊され、翌年の1月から12月にかけて、
月々の特色にマッチしたロシアの詩を選び、その詩の性格を描写した
ピアノ曲を載せるために、チャイコフスキーは作曲を依頼された。

そして作られたのが、「12ヶ月の性格的小品」という副題がついていた
12曲の「四季」である。
1876年の11月に書き上げられた。
6月の「舟歌」と11月の「トロイカ」はとくに有名である。

第1番  1月 炉端にて     
第2番  2月 謝肉祭      
第3番  3月 ひばりの歌    
第4番  4月 松雪草      
第5番  5月 白夜       
第6番  6月 舟歌       
第7番  7月 刈り入れの歌   
第8番  8月 収穫の歌     
第9番  9月 狩りの歌     
第10番 10月 秋の歌     
第11番 11月 トロイカ    
第12番 12月 クリスマス