4-3
ベートーベン,ルードヴィヒ・ヴァン  〔ドイツ〕
(1770.12.17 〜 1827.03.26) 56歳

            4-1
              交響曲 第1番 ハ長調 作品21
              交響曲 第2番 ニ長調 作品36
              交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
              交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
              交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」 
              交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」
              交響曲 第7番 イ長調 作品92
              交響曲 第8番 ヘ長調 作品93
              交響曲 第9番 ニ短調 作品25 合唱つき)
            4-2
              ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
              ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
              ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37
              ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58
              ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
              バイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
              三重協奏曲 ハ長調 作品56
              歌劇「フィデリオ」作品72
              セレナード ニ長調 作品8
              ロマンス ヘ長調 作品50
              序曲「コリオラン」作品62
              「レオノーレ」序曲 第1番 作品138
              「レオノーレ」序曲 第2番 作品72a
            4-3
              序曲「命名祝日」作品115
              序曲「献堂式」作品124
              「エグモント」序曲 作品84
              「アテネの廃虚」序曲 作品113(トルコ行進曲付)
              「シュテファン王」序曲 作品117
              弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 作品95
              弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 作品127
              弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132
              弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135
              ピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調 作品1-3
              ピアノ三重奏曲 第5番 ニ長調 作品70-1
              ピアノ三重奏曲 第7番 作品97「大公」
              ピアノ三重奏曲 第11番 ト長調 作品121a
            4-4
              バイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 「春」
              バイオリン・ソナタ 第9番 イ短調 作品47
              チェロ・ソナタ 第3番 イ長調 作品69
              選帝侯ソナタ WoO47
              ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 作品2の1
              ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
              ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ヘ短調 作品27-2
              ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31-2
              ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101
              バガテル「エリーゼのために」 イ短調 WoO59





《 独立した序曲 》

【 序曲「命名祝日」作品115 】

ベートーベンが作曲した作品の中で劇音楽とは別に、独立した序曲は、
1807年に作曲した「コリオラン 」と「命名祝日」の2曲だけである。

「命名祝日」という題名はベートーベンが原稿に書き込んでいる
「1814年ぶどう収穫の月一日、われらの皇帝の命名日の夕べに」という
上書きにより、後から与えられたものである。

しかし、オーストリア皇帝フランツ二世の命名祝日に当たる
1814年10月4日前後には演奏されず、初演されたのは翌年の1815年12月25日に
ウィーンの聖マルクス市民病院の基金募集のために催された大仮装舞踏会で、
そのときは「序曲」として演奏された。

1818年に演奏されたときは「狩」という標題がつけられていた。

1826年6月に「大オーケストラのために作られたハ長調の大序曲」
という題で出版されている。

この曲は、リトアニアの貴族ラジヴィル公爵に捧げられた。




《 献堂式 》

【 祝祭劇「劇場の献堂式」序曲 作品124 】

1822年10月3日に初演された序曲「献堂式」は、その日に行なわれた、
ウィーンのヨーゼフシュタット劇場のこけら落としのために書かれた。

カルル・マイルズの台本による祝祭劇「劇場の清祓式」の上演があり、
その音楽をベートーベンが作曲したのだが、新しく2曲を作り、その他は
約11年前に作曲した「アテネの廃墟」から転用した。

その2曲のうちの1曲がこの序曲で、もう1つが「変ロ長調の合唱」である。

この祝祭劇の台本は、ノッテポームの「第2ベートーヴェニアーナ」の
第43章に載っている。
登場人物は、アポロ、テスピス、青年、少女、神官、乙女たちの他、
優美、舞踊、喜劇、風刺、洒落、戯詩、および歌謡劇というものが
それぞれ擬人化されて出てくる。

序曲は2部からなる。

              第1部 Maestoso e sostenuto 
              第2部 Allegro con brio    


ベートーベンの全交響曲や協奏曲もしばしば演奏したが、レコーディングもしている。
「アテネの廃虚」は、序曲とトルコ行進曲しかレコーディングされることはないが、
彼は全曲のレコーディングをしている。




 《ザルツブルク音楽祭》

【 「エグモント」序曲 作品84 】

「エグモント」は、オランダの貴族の出の軍人、政治家で、オランダ独立の礎となった
ラモラル・エグモントを主人公にゲーテが5幕の悲劇を書いた。

1810年にウィーンでの初演に際し、ベートーベンに音楽の依頼があり、
序曲をふくめ10曲の劇音楽を作曲した。
悲劇的で勇ましい序曲は、演奏会でよく演奏される。

その1 歌曲             
その2 幕間の音楽1         
その3 幕間の音楽2         
その4 歌              
その5 幕間の音楽3         
その6 幕間の音楽4         
その7 クレールヒェンの死をあらわして
その8 メロドラマ          
その9 勝利の交響曲         


ジョージ ,セル 〔ハンガリー〕
(1897.06.07〜1970.07.30) 73歳

ハンガリーのブダペストで生まれたセルは、幼いころから音楽の才能をあらわしていた。

ウィーン音楽院でピアノ、指揮、作曲を学び、作品ものこしたが、 R.シュトラウスに
教えを受けた後、指揮者の道を選んだ。

1939年にアメリカへの演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発し、
そのままアメリカに定住した。

1970年5月、日本万国博覧会の企画の一環としての公演のため、
クリーヴランド管弦楽団と共に来日した。
高い評価を受け、聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなくの7月30日に
癌のためクリーブランドで急逝した。

彼は、完璧主義者と評されていて、演奏に厳しい注文をつけ、演奏者から
恐れられていたが、クリーヴランド管弦楽団を第一級のオーケストラに育て上げた。

アメリカを本拠としていたセルだったが、毎シーズンヨーロッパに戻り、
客演指揮をしていた。
1949年に初出演したザルツブルク音楽祭には数度を除き、
毎年のように指揮をしている。

亡くなる前年の8月には、ウィーン・フィルの演奏で
ベートーベンの「交響曲第5番」「ピアノ協奏曲第3番」
「エグモント」序曲を指揮したCDが残されている。




《 こけら落としのため 》

【 「アテネの廃虚」序曲 作品113(トルコ行進曲付) 】

1812年の2月9日に新しく会場されたハンガリーのペストのドイツ劇場の
こけら落としのために書かれた「アテネの廃虚」は、コッツェプーによって書かれた
祝祭劇「アテネの廃墟」につけた音楽の序曲である。

ベートーベンはこの劇のために、序曲と8つの劇中音楽を作曲したが、
有名な「トルコ行進曲」は、4番目にあたる。

このこけら落としの際には、コッツェプーの「シュテファン王」も上演されたたが、
この音楽も依頼され、序曲と9つの劇中音楽を書いている。


ビーチャム,サー・トマス 〔英〕
(1879.04.27〜1961.03.08) 82歳

イギリスの指揮者のビーチャムは、セント・ヘレンズで生まれ、ロンドンで世を去った。

ビーチャム製薬の御曹司で、ピアノや作曲を個人的に学んだが、
学校での音楽の専門教育は受けなかった。

アマチュア・オーケストラの指揮者を経て、1899年にハンス・リヒターの代役で
ハレ管弦楽団を指揮し、プロの指揮者としてデビューした。
1946年にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を創設し、生涯にわたりイ
ギリス音楽界に大きな貢献をした。

彼は多くの作曲家の幅広いレパートリーを持っていたが、
それらのレコーディングも多く残している。

ベートーベンの全交響曲や協奏曲もしばしば演奏したが、レコーディングもしている。
「アテネの廃虚」は、序曲とトルコ行進曲しかレコーディングされることはないが、
彼は全曲のレコーディングをしている。




《 王を讃えて 》

【「シュテファン王」序曲 作品117 】

ベートーベンは、1812年にハンガリーのペストに建設された新ドイツ劇場の
落成の折に演奏する序曲と附随音楽の作曲を依頼された。

コッツェブーの祝祭劇「アテネの廃墟」と「シュテファン王」の2つで、
こけら落としが行なわれた2月9日に初演された。

序曲と9曲からなる 「シュテファン王」は、建国間もない頃のハンガリーに君臨した
名君シュテファン王を讃えたものである。

「アテネの廃墟」は、ギリシャ風、トルコ風の音楽を、
「シュテファン王」は、ハンガリア風の雰囲気を出している。

また第2主題には、第9交響曲終楽章の第1主題を用いている。

序曲   「変ホ長調」           
男性合唱 「王侯は彼らの行いを静かに語り」 
男性合唱 「暗い迷路をさまよい」      
凱旋行進曲                 
女声合唱 「無垢の花が撒かれる所」     
メロドラマ「あなたには祖国がある」     
合唱   「新しい輝く太陽が」       
メロドラマ「君たち高貴なハンガリー人よ」  
宗教的な行進曲、合唱 「万歳、我らの国王」と
メロドラマ「畏敬に満ちて飾る」       
終曲の合唱「万歳、我らの国王」       

《 情緒的 》

【 弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 作品95「セリオーソ」】 

1810年10月に作曲された「弦楽四重奏曲 第11番」の草稿には、
ベートーベン自身が「セリオーソ」(まじめな)(厳粛な)と書いている。

この作品は、中期の作風とも、また後期の作風とも異なる
独特の様式をみせていて、知的な味が加わり、情緒的な要素は
いっそう細やかさを増している。

1814年5月にウィーンで初演され、ハンガリー生まれの
チェリストのツメスカルに捧げられた。

             第1楽章 Allegro con brio       
             第2楽章 Allegretto ma non tropo   
             第3楽章 Allegro assai vivace ma serioso
             第4楽章 Larghetto,Allegro agitato   




《 ガリツィン四重奏 》

【 弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 作品127 】

ベートーベンは、全16曲の弦楽四重奏曲を書いているが、
「ガリツィン四重奏曲」と呼ばれる3曲は、ロシアの貴族の
ニコライ・ガリツィン公爵の勧めによって作られ、献呈されている。

第12番 変ホ長調 作品127
第13番 変ロ長調 作品130
第15番 イ短調 作品132 

「後期」の作品となる「弦楽四重奏曲第12番」は、1824年に着手されたが、
この年には鬱病にかかったり、「第九」の初演などのため、
十分な作曲活動ができず、1825年10月に完成した。

構想の大きさ、内省の声の深さ、あらゆる技巧に超越した幽玄の手法は
「後期」の作品に共通している。

作曲の年の3月6日に初演されたが、評判が良くなくて
3月23日に再演され、大成功をおさめた。

             第1楽章 Maestoso-Allegro teneramente
             第2楽章 Adagio ma non troppo e molto cantabile
             第3楽章 Scherzando vivace      
             第4楽章 Finale: Alla brevo      




【 弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132 】

「第15番 イ短調」は、第1、第2楽章を書き終えた後、持病の腸の疾患が
悪化し、しばらく書くことができなかった。

病気は回復に向かい、再び作曲を続けたが、
「病癒えたものの、神に対する聖なる感謝の歌」と題した天上の
音楽にもたとえられる、美しい第3楽章を得ている。

続いて力強い行進曲調の第4楽章、異色あるレチタティーボ風の
間奏をはさんだ、雄揮な終楽章まで、溌剌たる新しい元気にみちて
一気に書き上げられた。

各楽章はそれぞれ整然とまとまった形式をもっているが、
また全楽章を一貫して力強く希望に満ちた感情を盛り上げていく
観念的な統一がある。

新鮮な生気にあふれ、主題展開の技巧的な処理も極めて練達であり、
精神的な高い感動をもった優れた作品である。

               第1楽章 Assai sostenuto-Allegro  
               第2楽章 Allegro ma non tant    
               第3楽章 Molto Adagio-Andante   
               第4楽章 Alla Marcia assai vivace  
               第5楽章 Allegro appasionato-Presto

1925年11月6日にウィーンで初演され、大喝采を博した。




《 最後の作品 》

【 弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135 】

ベートベンの晩年は、増々悪化する耳の病に加えて、心労が多かった。
彼は自分の生活が安定してから、故郷にいる2人の弟カルルとヨハンを
ウィーンに呼び寄せて面倒をみ、世話をした。

カルルの死後、遺書によりそのひとり息子(同名)の後見人となった。
ところが母親がそれに応じなかったために裁判ざたになり、勝訴によって
カルルを引き取ったが、彼は素行が悪く、学業も怠り、ベートーベンの
父親らしい愛情は通じず、死ぬ日まで苦しみ悩まされた。

「伯父が僕を善人にしようとしたために、僕はかえって悪人になった」
カルルは借金のため、ピストル自殺を企てたが、未遂に終わった。
それは、ベートーベンが亡くなる前年のことだった。

「辛抱しながら考える。一切はなにかしらよいものを伴ってくる」
4度目の手術を待ちながらの「手記」であるが、よいもの・・・
それが苦しいことのみ多かった生からの解放・・・それは死であった。
1827年3月26日午後5時ごろ、嵐と雷鳴の荒れ狂うなか、
ベートーベンは息を引き取った。

「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」これが最後の言葉であったといわれ、
瀕死のベートーベンは、虚空をつかむように、病床から起き上がって
拳を握って世を去ったという。
あらゆることを辛抱しながら、考え続けた人間の最後に相応しい情景であると
いえるのだろうか・・・

愛する母には早く死に別れ、生涯をともにする女性もなく、悩みと病と貧とに
苦しまされ、心からの愛情をそそいだ唯一の身内の甥の愛さえ得られずに、
大きな世の変動と戦いぬいた。

ただひたむきに、人々のためによかれと念じつつ、心の火を燃やし続け、
苦しんで生きることが幸福であると大きな諦めに達していた。
彼ほどたくましい意志力をもって、世界苦、人生苦に立ち向かった
人類のチャンピオンはなかったのかもしれない。

「弦楽四重奏曲ヘ長調」は、亡くなる前年の10月に完成され、
ベートーベンのまとまった作品としては最後のものとなった。




《 チェロの魅力 》

【 ピアノ三重奏曲 ハ短調 作品1-3 】

ベートーベンの「ピアノ三重奏曲作品1」には、
「変ホ長調」、「ト長調」、「ハ短調」の3曲がある。
3曲とも4楽章でできていて、古典ソナタの方式にしたがっている。

この曲の初演のときに、たまたまハイドンが居合わせ、ハ短調は
出版しないよう勧告したが、ベートーベンはもっとも満足した
作品だったため、憤慨したといわれている。

劇的な作風を示している「ハ短調」は、3曲中では一番演奏される作品である。

              第1楽章 Allegro    
              第2楽章 Adagio cantabile
              第3楽章 Scherzo.Allegro assai
              第4楽章 Finare.Presto 


ピアティゴルスキー,グレゴール 〔露→米〕
(1903.04.17〜1976.08.06) 73歳

チェリストのピアティゴルスキーは、ウクライナのエカテリノスラフで生まれた。
父からバイオリンとピアノを教わったが、チェロの音色に惹かれ、
チェリストになる決心をした。

モスクワ音楽院で学んだ後、ベルリンやライプツィヒでも学んだが、
フェルトベングラーに見い出され、ベルリン・フィルの首席チェロ奏者となった。

1929年にアメリカでデビューし、42年には市民権を得、カーティス音楽院の
マスタークラスでチェロの主任教授を勤めた。

57年からボストン大学などでも教えたが、晩年はカリフォルニア州で暮らした。
ロスアンジェルスで73年の生涯を閉じた。

ピアティゴルスキーは、演奏家としても活躍したが、
ルービンスタインのピアノ、ハイフェッツの バイオリンで「百万ドル・トリオ」を
結成し、室内楽も楽しんだ。

ルービンスタイン〔ポーランド→米〕(1886〜1982)
ハイフェッツ〔露→米〕(1901〜1987)




《 ロン=ティボー国際コンクール 》

【 ピアノ三重奏曲 ニ長調 】

「 ピアノ三重奏曲 ニ長調」は、1802年に作曲した「交響曲 第2番 ニ長調」を
小さなホールや、個人の家での音楽会でも演奏できるよう
1805年に編曲したものである。

第4楽章からなるが、第9交響曲を予感かせる第1楽章。
旋律の美しさから歌曲にも編曲されている第2楽章。
第3楽章の「スケルツォ」の名称は、交響曲では初めて使われた。
第4楽章では、一種の「呼びかけ」ともいえる動機が存分に活躍する
長大なものである。


ティボー,ジャック〔仏〕
(1880.09.27〜1953.09.01) 72歳 事故

名バイオリニストのティボーは、音楽教師を父にボルドー市で生まれた。
8歳でリサイタルを開くという、幼くしてバイオリンの才能を発揮し、
13歳からパリ音楽院で学び一等賞で卒業をした。

名指揮者のコロンヌに見い出され、コロンヌ管弦楽団で
独奏者として名声を得た。
かつてベリオが愛用していたストラディヴァリウスを自由自在に
操ったその音色は、繊細典雅をきわめ、高雅な趣味にあふれた
陶酔的なものであった。

1905年に、ピアノのアルフレッド・コクトー、チェロのパブロ・カザルスと共に
「ピアノ三重奏団」(カザルス・トリオ)を結成し、約30年間にわたって
演奏活動を続けた。

1943年には、ピアニストのマルグリット・ロンと協力して、
ロン=ティボー国際コンクールを開催し、後進の育成にも力を注いだ。

1953年9月1日、彼は来日途中、乗っていた飛行機がアルプス山脈に衝突し、
72年の生涯を閉じた。




《 大公トリオ 》

【 ピアノ三重奏曲 第7番 作品97「大公」】

ベートーベンの円熟期である1811年(41歳)に作曲され、「大公トリオ」と
呼ばれているピアノ、ヴァイオリン、チェロの「三重奏曲」は、ルドルフ大公に
捧げられたことから、「大公」と呼ばれている。

ルドルフ大公は、ベートーベンから作曲とピアノを学んだ生徒で、
良きパトロンでもあった人である。
ベートーベンへの年金を、多くの貴族に呼びかけもした。
ナポレオン軍との戦いの影響で、他の貴族たちが援助を打ち切った後も、
一人温かい庇護の手を差し伸べていた。

「告別ソナタ」「ピアノ協奏曲(皇帝)」「ハンマークラヴィーア」
「ミサ・ソレムニス」など、ルドルフ大公に捧げられた作品は
数多くあり、名作が多い。

ピアノ三重奏曲は7曲作曲したが、最後を飾るこの第7番は
古今の室内楽曲のうち最も優れた作品である。

従来の作品では、それぞれ独立性を主張した3つの楽器が、この曲で
初めてそれぞれの個性を最大限に発揮しながら、完全に一体化し、
各楽器がその役割を忠実に果たし、ひとつの新しい音の世界を
築きあげている。

規模は、ハイドンやモーツァルトの交響曲に匹敵するほど大きく、
構成も精密で、一分の隙もなく、協奏的色彩を備えている。

エネルギッシュな力をうちに秘めつつも、きわめて豊かな旋律と和声の美しさは、
この時代特有のやわらかく細やかな心の動きが感じられる。
円熟した情操と雄大な風格と品位とを兼ね備え、聴いていて
安らかな気分にさせてくれた。

            第1楽章 Allegro moderato    
            第2楽章 Scherzo: Allegro     
            第3楽章 Andante cantabile ma pero con moto
            第4楽章 Allegro moderato-Presto 


フルニエ,ピエール 〔仏〕
(1906.06.24〜1986.01.08) 79歳

気品のある容貌と優雅で洗練された演奏で「チェロの貴公子」と呼ばれた、
フランスのチェロ奏者のフルニエはパリで生まれた。

パリ音楽院を卒業後パリでデビューし、注目された。
日本には度々来日し、親日家として知られていて、夫人は日本人である。

ソリストとしての活躍の他に、室内楽を多く手がけていて、
ベートーベンのピアノ三重奏全集の名盤を残している。




 《 カカドゥ変奏曲 》

【 ピアノ三重奏曲 第11番 ト長調 作品121a 】

三重奏 (バイオリン 、チェロ、ピアノ)の「カカドゥ変奏曲」は、
1824年5月にウィーンで出版された作品だが、正確な作曲年月はわかってない。

第10変奏からなるが、主題はミュラーが1794年に作曲した
歌劇「プラーグの姉妹たち」の中の「私は仕立屋カカドゥです」の歌による。

この歌劇は1806年にウィーンで初演され、大変な人気があって、その後も
しばしば上演されたので、ベートーベンにも強く印象づけられたようだ。

彼は、晩年特に対位法的書法と変奏曲の形式を好んだが、この変奏曲には、
対位法も用いられ、晩年特有の細やかな美しさをもっている。