《ボンからウィーンに》
【 交響曲 第1番 ハ長調 作品21 】
1800年4月2日は、水曜日だった。
その日はウィーンのブルク劇場で演奏会が開かれた。
1、モーツァルトの交響曲
2、ハイドンの「天地創造」のなかのアリア
3、ピアノ協奏曲
4、4つの弦および3つの管弦楽のための7重奏曲
5、ハイドンの「天地創造」のなかの2重奏
6、ハイドンの皇帝讃歌によるベートーベンの即興演奏
7、新作の大交響曲
当日のプログラムだが、7番目が交響曲第1番ハ長調で、
この演奏会の指揮とピアノの独奏は、ベートーベンが行なった。
この年、師のハイドンは68歳で、前年「天地創造」を発表して健在であり、
モーツァルトは死後9年経っていた。
モーツァルトの精神をハイドンから受け取り、ベートーベンが第1番を
完成させたのは、30歳のときだったが、彼は早くから天才作曲家として、
その生地のボンでは有名だった。
かの文豪シラーの夫人ロッテは、ある手紙で「私はこの作曲家に
大変期待しております・・・」と書いているが、これは彼が音楽人以外の、
文化人のなかでも知られていたということだ。
そのとき、ベートーベンは23歳だった。
モーツァルトは8歳から24年間に41曲、ハイドンは27歳から
36年間に104書いているが、ベートーベンは30歳から24年間に
9曲しか書いてない。
モーツァルトやハイドンは、交響曲をきわめて安直に気軽に書いたが、
ベートーベンは慎重だった。
4楽章からなる「交響曲 第1番」は、初演の前年から
1800年の初めにかけて作曲されたとみられている。
第1楽章 Adagio molto-Allegro con brio
第2楽章 Andante cantabile con moto
第3楽章 Menuetto : Alleglo molto e vivace
第4楽章 Adagio-Allegro molto e vivace
第1楽章の第1主題は、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の
第1楽章の主題と、また第2楽章の第1主題の途中のバイオリンのメロディーは、
交響曲第40番の第2楽章のそれとどことなく似ている。
《病との闘い》
【 交響曲 第2番 ニ長調 作品36 】
1802年にハイリゲンシュタットで完成した「交響曲第2番」は第4楽章からなり、
第9交響曲を予感かせる第1楽章。
旋律の美しさから歌曲に編曲された第2楽章。
第3楽章の「スケルツォ」の名称は交響曲では初めて使われている。
第4楽章では、一種の「呼びかけ」ともいえる動機が存分に活躍する
長大なものである。
この曲は青春の輝きに満ちあふれた歓びの歌であるが、
このころは聴覚の異常や、腸の不調など最も悲惨な時代だった。
「ハイリゲンシュタットの遺書」の日付けは1802年10月6日となっている。
初演は翌年の春に行なわれ、思わしい出来ではなかったが、
ベートーベンが信頼していた批評家のロホリッツは、
後世に残る曲だろうと書いている。
ベートーベンの死期に際して、ロホリッツに伝記の作者を以来したが
辞退され実現されなかったため、資料のほとんどを保管していた
シントラーが最初の伝記を書くこととなった。
第1楽章 Adagio - Allegro con brio
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Scherzo: Allegro
第4楽章 Allegro molto
《エロイカ》
【交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」】
この交響曲はベートーベンが34歳の1804年の春に完成した。
〈自由・平等・博愛〉を旗印に絶対王制に戦いを宣言したナポレオンという
世紀の英雄を讃えるために作られたが、この交響曲の総譜をナポレオンに
献呈しようとしていたときに、ナポレオンがフランス皇帝の
王座についたことを知り、激怒したという。
「あの男も要するに俗人であった。あれも自分の野心を満足させるために、
民衆の権利を踏みにじって、誰よりも暴君になるだろう」と・・・
後年、ナポレオンが虜囚の身になり、セント・ヘレナ島で死んだことを聞いた
ベートーベンは「17年も前に私は彼の哀れな最後にふさわしい音楽を書いている」
と・・・これが、第2楽章の葬送行進曲のことである。
この交響曲を作ったころ、耳の病が日増し悪化し、聴覚を失うという
音楽家として致命的な運命に直面している。
〈・・・好ましい希望、少なくともある程度まで治るという希望を、
ぼくはここまでたずさえてきたのだが、・・・秋の木の葉が落ち、枯れるように、
ぼくの希望もまた、ぼくにとって枯れはててしまった・・・〉
有名なハイリゲンシュタットの遺書である。
しかし、この英雄を書くことによって、雄々しい生の道を歩みつづけ、
多くの名作を残した。
第3番交響曲は、ベートーベンが34歳の1804年の春に完成したが、
初演されたのは翌年の4月7日のことで、ウィーンのアル・デル・ウィーン劇場で
ベートーベン自身の指揮で行なわれた。
出版されたのは完成から2年後で、パート譜には「シンフォニア・エロイカ」と
イタリア語で書いてあり、やはりイタリア語で「一人の偉人の思い出を
祭るために作曲された」と添え書きがあった。
ひ弱さがある交響曲第1番と第2番は自分のものとしては最上のものでは
なかったようで、ベートーベン自身によると、第3番には自信を持っていて、
若々しく、荒々しい男らしさが全編にみなぎり、大きく飛躍したと書いている。
ベートーベンが31歳のときに作曲した バレエ音楽「プロメテウスの創造物」の
終曲を第4楽章で使っているが、この終曲は、それ以前に
「12のコントル・ダンス」の第7曲に、翌年の「15の変奏曲とフーガ」の主題にと、
4つの作品に使っている。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Marcia funebre: Adagio assai
第3楽章 Scherzo: Allegro vivace
第4楽章 Finale: Allegro molto
《 ギリシャの乙女 》
【 交響曲 第4番 変ロ長調 作品60 】
第3番「英雄」が完成したのは34歳、第5番「運命」が完成したのが38歳のときで、
どちらも完成までに時間がかかっているが、36歳のときにつくられた
第4番(標題がない)は短時間のうちに気軽に作られたようだ。
シューマンは、「英雄」と「運命」の間の第4番を、「二人の北欧神話の巨人に
はさまれた、ギリシャの乙女」と評したといわれる。
第3番の完成後、全く新しい世界であったオペラの製作に取りかかり、
ピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第4番が作られ、
第5番「運命」、弦楽四重奏曲などにも取りかかっていた。
そして出来上がった第4番は、伝統的な古典形式を尊重した、
明朗で愛らしい性格を持っている。
日常のベートーベンの気持に近いのではないかと言われている。
第1楽章 Adagio-Allegro vivace
第2楽章 Adagio
第3楽章 Allegro vivace
第4楽章 Allegro ma non troppo
ゲオルグ,ショルティ (洪)
(1912.10.21〜1997.09.05) 84歳
オペラと管弦楽の両方の分野で活躍した巨匠ショルティは、
ハンガリーのブダペストで生まれた。
6歳からピアノ始め、12歳からリスト音楽院でピアノ、作曲、指揮を学んだ。
1938年に、ブダペスト歌劇場で指揮者としてデビューした曲が
モーツァルトの「フィガロの結婚」だったが、その4年後の30歳のときに、
ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝した。
ユダヤ人だったため、第二次世界大戦中は、ナチの手を逃れて
スイスに亡命し、そのままスイスで暮らしたため、両親や家族とは再会しなかった。
戦後は、ミュンヘン、フランクフルト、ロンドンなどの歌劇場で指揮をし、
56歳でアメリカに渡ってから20年以上シカゴ交響楽団の黄金時代を築いた。
60歳のときにイギリスの市民権を得、「ナイト」の称号を授与された。
死の直前まで「シカゴ交響楽団」を中心に幅広い指揮活動を続けたが
84歳の9月5日、南フランスで自伝の最終チェックを終えた直後生涯を閉じた。
録音活動も熱心で、4日間にわたって演じられる大作「ニーベルングの指輪」を
全曲録音するという偉業を達成した。
1980年代には、ベートーベンの交響曲全集をシカゴ交響楽団で録音している。
日本には1963年、ロンドン交響楽団と共に初来日し、その後もたびたび来日した。
《 魂の記録 》
【 交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」 】
「運命はかく扉をたたく・・・」
第1楽章の冒頭の動機を、ベートーベン自身が彼の弟子シントラーに
説明したと伝えられて以来、この交響曲そのものが「運命」という
劇的な題で呼ばれるようになった。
1808年38歳のときに、約13年の歳月を費やして完成された「交響曲第5番」は、
その有名さ、演奏される回数の多さ、最も愛され親しまれているその人気において、
古今数多い交響曲のなかで、最高のもののひとつと言われている。
たくましく、激しい第1楽章、激しい緊張の後の平和な感情が流れている第2楽章、
神秘的な気分と暗たんとした気分の第3楽章、雄渾かつ華麗で、まさに運命を
乗り越えた者の勝利の讃歌は第4楽章で力強く熱狂的に結ばれる。
ベートーベンの魂の記録ともいえる、苦悩(暗黒)を通じての歓喜(光明)、
人間の喜怒哀楽の感情をこれほど虚飾なく、率直にかつ鮮明に打ち出した
音楽は珍しいだろう。
シューマンは「いくら聴いても、あたかも自然の現象のように畏敬と
驚嘆とが新たになる。この交響曲は、世界の音楽が続く限り、
幾世紀も残るだろう」と述べている。
1805年から翌年にかけて、ベートーベンはタイム伯爵の未亡人ヨゼフィーネと
恋愛をしている。
第5交響曲のような激しい音楽を書く気分ではなかったのか、
完成が1808年までのばされ、この間は恋愛感情を反映するかのように、
明るく和やかな作品を書いている。
娘時代にベートーベンのピアノの弟子であったヨゼフィーネは、美貌で、
チャーミングな令嬢だった。
20歳のときに、47歳のタイム伯爵と結婚をした。
1804年に未亡人になり、1810年に3人の子どもを連れて、
シュタッケルベルク男爵と再婚した人である。
ヨゼフィーネが未亡人になってから、ベートーベンが彼女に宛てた手紙が
13通残されているが、積極的なベートーベンの要求に、
彼女は応えられなかったようだ。
その後ヨゼフィーネの姉のテレーゼと婚約をしたが、1810年には
婚約が破れてしまった。
「忍従せよ、お前は自己のために存在することは許されないのだ。
ただ、他人のために生きるのだ。お前のために残された幸福は、
ただ、お前の芸術の仕事の中にあるのみだ。
おお神様!私が自分を克服できる力をお与えください」
と、ベートーベンは自分をいたわり励ますように、生きる道を心から求めている。
第5番「運命」と第6番「田園」は、1808年12月22日にウィーンの
アン・デル・ウィーン劇場で、ベートーベンの作品だけの発表会において、
彼自身の指揮で初演された。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Andante con moto
第3楽章 Allegro
第4楽章 Allegro
《 自然への愛 》
【 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」 】
ベートーベンは、耳の病気が不治のものとなってから以前にも増して
自然を愛するようになった。
自然は彼の最も良き友となったのだ。
煩わしい社交界から離れ、美しい森や、緑の田園を散策しながら
創作にふけるとき、彼は喜びをしみじみと味わったのであろう。
自然に対する愛と、感謝の気持の中から生み出された「交響曲第6番」は、
ベートーベン自身が「田園交響曲」と呼び「運命」とならんで人気のある作品だ。
「第5番」は13年もかけて、運命との対決をあらわしているが、
この「第6番」は6年前に遺書をしたためたハイリゲンシュタットで
ごく短期間のうちに書かれた。
ベートーベンが28歳のときに耳の異常を感じ、次第に聞こえなくなり、
ますます悪化したことから32歳の年に2人の弟に宛てて書いた遺書が、
「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られている。
「第6番」は「第5番」とほとんど同時期に、双生児のようなかたちで
誕生していて、この2つは相反し、対照的な性格はあたかも電気がその反対の
性質のものを呼ぶようだと言われている。
「第5番」が男性的だとすれば、「第6番」は女性的といえるだろうし、
前者がきわめて集中的に凝縮されたもの、後者はあふれて流れ出るとも
言えるかもしれない。
標題音楽ではないが、各楽章にはその楽章の内容を説明する題を付けていて、
ベートーベン自身「絵画よりも、はるかに感じの表出を」と書いている。
第1楽章「田舎に着いたときの愉快な気分の目ざめ」
第2楽章「小川のほとりの光景」
第3楽章「農夫たちの楽しい集り」
第4楽章「雷雨、嵐」
第5楽章「牧人の歌、嵐の後の喜びと感謝に満ちた気持」
初演は「第5番」といっしょに、ウィーンでのベートーベンの作品だけの発表会で、
彼自身の指揮で行われた。
しかし、この日のプログラムは盛り沢山で、この演奏会は大失敗に
終わったといわれている。
第5番「運命」と第6番「田園」は、1808年12月22日に
ウィーンのアン・デル・ウィーン劇場で、ベートーベンの作品
だけの発表会において、彼自身の指揮で初演された。
ベルリオーズはこの曲を好み、よく研究したということであるが、やがて標題音楽の
誕生の素因となって、20数年後に「幻想交響曲」が誕生しているのだ。
《 狂喜乱舞 》
【 交響曲 第7番 イ長調 作品92 】
ベートーベン42歳のときに書かれた第7番は、副題はついてない。
後にリストはこの曲を「リズムの神化」と呼び、
ワーグナーは「舞踏の神化」と呼んだ。
シューマンの妻のクララの父は、これは酔っぱらったときに作曲したのでは
あるまいか(特に第1楽章と、第4楽章)と言ったという。(絶賛した)
ベートーベンの9つある交響曲は、第1番は例外として、偶数番のものは
軽快優美であり、奇数番のものは豪放雄大であるといわれるが、
第7番はそのうえに大変リズミカルである。
第1楽章は、1つのリズム型を押し通すという新しい試みをしていて、
その他の楽章もそれぞれ特徴のあるリズムが用いられている。
非公開の初演は、完成の翌年の1813年4月20日に
ルドルフ大公の邸で行なわれた。
このとき、第8番(1812年10月完成)も一緒に演奏された。
公開の初演はその年の12月8日、ウィーン大学の講堂で
開かれた、「ハナウ戦争傷病兵のための慈善音楽会」で、
ベートーベン自身の指揮でおこなわれた。
ナポレオン軍に対する連合軍の相次ぐ勝利で、愛国的な
気勢が盛り上がっていたため、音楽会は大成功をおさめた。
特色のある一つのリズムを押し通し、狂喜乱舞の躍動的な第1楽章。
シューベルトの「死と少女」の死の部分の伴奏型を思い出させる主題の第2楽章。
ちぎっては投げ、ちぎっては投げるような速い弾力のある底抜けに明るい
第3楽章では、昔のオーストリアの巡礼の歌からとったといわれる
風変わりな旋律がもとになり発展する。
狂喜乱舞の主題から大荒れに荒れて踊り抜くような 第4楽章。
全曲を通して生命力にあふれ、景気のよい響きがする。
この交響曲第7番も大好評で、第2楽章はアンコールされたという。
あまりの好評のため、後に何度も再演されたとある。
「苦しみに耐えて生きてこそ幸福がある、いや苦しんで生きている
なかにこそ幸いがある」
そう確信して生きていたベートーベンの心に、少しはふれることができただろうか。
第1楽章 Poco sostenuto - Vivace
第2楽章 Allegretto
第3楽章 Presto
第4楽章 Allegro con brio
《人道主義》
【 交響曲 第8番 ヘ長調 作品93 】
ベートーベンは全部で9つの交響曲を書いたが、偶数番のものは軽快優美であり、
奇数番のものは豪放雄大であるといわれる。
第8番の構想が練られた1911年のある日、ベートーベンはゲーテと面会している。
その時ゲーテは、オーストリアの皇后は芸術に関して立派な考えを
もっておられるので、自分は尊敬しているとの意をもらした。
それに対してベートーベンはかなり激しい口調で、貴族なんかに、
あなたや私の貴い芸術がわかってたまるものですかと言ったらしい。
やがてこの両芸術家は腕を組み、温泉街を漫歩したがそこへ
話題にしたばかりの皇后が、身分の高いお供に取り囲まれて向こうから来られた。
それを見てベートーベンは、皇后もお供も、私たちに敬意を表するために
道をゆずるでしょうから、ずんずん行きましょうと言った。
しかし、ゲーテは腕を振りほどいて道の片隅により、脱帽して
敬礼の姿勢をとった。
そこで、ベートーベンだけがのっしのっしと歩き続けたら、皇后とお供は
彼のために道をゆずったばかりかベートーベンに挨拶をせられた。
この後で、ベートーベンはゲーテに「どうです、私の言ったとおりでしょう。
あなたもこれからは連中に敬意を表しないで、彼らに敬意を表させなさい」と・・
このことで、ゲーテに共に語れぬ相手だと思わせ、さらに後になって、
ベートーベンがこの事件を会う人ごとに、面白おかしくしゃべりちらし、
ゲーテは俗物だといわぬばかりだったことがゲーテの耳に入り、
強い不快の念を起こし、それ以後交際を断ったとのことである。
ベートーベンが人道主義に強い自信を抱いていたことがわかるエピソードだ。
この交響曲は、第7番と同じ時期に構想したもので、どちらも
ベートーベン独特のロマンティシズムに溢れた曲で、1814年2月27日
ベートーベンの作品演奏会で初演された。
第1楽章 Allegro vivace e con brio
第2楽章 Allegretto scherzando
第3楽章 Tempo di Menuetto
第4楽章 Allegro vivace
《 第九 》
【 交響曲 第9番 ニ短調 作品125(合唱つき)】
ベートーベンは、30歳のときに最初の交響曲を書いてから、
世を去る3年前に最後の交響曲を完成するまでの24年間に、
全部で9つの交響曲を作曲した。
ハイドンやモーツァルトに比べると作品の数は少ないが、ちょうど一つの
大きな山脈の中の秀峰のように一つ一つが独自の山容を
誇りながらそびえ立っている。
シラーの頌歌「歓喜に寄す」を終楽章に用いた壮大な曲「第9番」は、
古今の交響曲を通じての最高峰といえるだろう。
交響曲に人声を加えるということは、当時としては大冒険であった。
第1楽章 Allegro ma non troppo un poco maestoso
第2楽章 Molto vivace
第3楽章 Adagio molto e cantabile
第4楽章 Finale: Presto
ベートーベンがこの曲を完成したのは、1824年(54歳)のときだが、
彼がこのシラーの“愛”と“喜び”とをテーマにした詩に曲をつけようと考えたのは、
まだ故郷のボンにいた22歳のころなので、32年の歳月を要したことになる。
この曲を聴くと、ベートーベンが単なる芸術家ではなくて
偉大な思想家であったということがよくわかる。
彼はこの曲を通じて、人間の生命の尊さと、平和と自由のもたらす
喜びというものを、全世界の人々に強く呼びかけたかったのだろう。
初演は1824年5月7日、ウィーンで行われた。
すでに完全に聴力を失っていたベートーベンは総監督として舞台に上がっていたが、
聴衆の熱狂的な拍手にも気づかなかったその時、歌手の一人が
彼の手を取って聴衆のほうを向かせ、ようやく作品の成功を知ったといわれている。
日本人による「第九」の初演は、1924年(大正13年)11月29日の
東京音楽学校第48回演奏会だった。
前年の9月1日の関東大震災で、壊滅状態だった東京で、様々な困難を
乗り越えてのこの演奏会は、まさに文化上の大事件だった。
演奏会の2日前には、新聞に予告記事が載り、演奏の数時間前から
入場希望者の列が音楽学校の門の外まであふれ、隣の美術学校
(そのころは音楽学校と並んでいた)の門の所まで続き、演奏会場の奏楽堂は、
両側の廊下まで聴衆があふれたそうだ。
オーケストラとコーラスには、音楽学校の講師生徒約200名が総出演し、
壮大な人類愛を歌ったベートーベンの音楽を、震災後の音楽に飢えていた
人々の耳と心に届けた。
外国人による日本国内での初演は、1918年(大正7年)6月1日、
第一次世界大戦のドイツ人捕虜たちによって
徳島県板東俘虜(ふりょ)収容所内で行われた。
《 アナログからデジタルに 》
CD(コンパクト・ディスク)とCDプレーヤーが発売され、
アナログからデジタルに変わったのは、1982年10月1日のことだった。
光ディスクのCDは、日本のソニーとオランダのフィリップスの
2つの電機メーカーが共同で開発した。
74分42秒の収録時間は、ベートーベンの第9を収録できるように、
カラヤンが提言したとか・・・
当時のソニーの副社長の大賀典雄は、声楽家出身だったので、
「オペラの一幕分」が収まる時間と、カラヤンの提言を押し通したとも・・・
大賀典雄は、カラヤンと親しい間柄で
最期の時に側にいたことでも知られている。