《 ベートーベンのコンチェルト 》
【 ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 】
ベートーベンの作曲した協奏曲の数は、モーツァルトに比べるとぐっと少ない。
「ピアノ協奏曲」が5曲と「ヴァイオリン協奏曲」と
「ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲」だけである。
ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 (1785年)
ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19(1795年)
ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37 (1803年)
ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58 (1806年)
ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73(1809年)
ピアノ協奏曲 ニ長調 (1807年)
(バイオリン協奏曲のピアノ版)
そのいずれも中期の時代に書かれているが、それは耳の病のためであった。
ベートーベンは優れたピアニストだったので、自分で演奏するために
書いていたが、晩年はそれが出来なくなってしまった。
ベートーベンが耳の異常を自覚したのは耳鳴りで、28歳を越してまもなくだった。
次第に耳が聞こえなくなり、31歳のときに友達に訴え、32歳のとき
医師の診察を受けたが、ますます悪化する一方であった。
その年に二人の弟に宛てて書いた遺書が、
「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られている。
一度死を決心したベートーベンだったが、外界の音は聞こえなくても、
まだ心の中の音が聞こえるのを発見することができた。
「私の芸術的力の発展の余地ある間は、どんな不運にあおうとも
決して死を欲しない」と、常に心に命じていたベートーベンに、
芸術の力の声がまだ響いていることが分かり、
その後も数多くの作品を書き続けたのだった。
第1番は、第2番よりも後に作曲したもので、出版が逆になったため
最初の作品が第2番になった。
もっとも、それ以前に作品番号のない「変ホ長調」と「ニ長調」のものも
あるが、「変ホ長調」は14歳のときの作品で、父親が2歳少なく年齢を
偽っていたので、12歳ということになっていたようだ。
《 最初の協奏曲 》
【 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19 】
ピアノ協奏曲第2番は、第1番よりも先に作曲したが、
出版が逆になり最初の作品が第2番になった。
第2番変ロ長調は24歳のときの作品で、若々しく、柔らかみが感じられ、
モーツァルト、ハイドンのおもかげがちらつく。
貴族の私邸での演奏を想定していたようで、オーケストラの編成は小さい。
ベートーベンは、この曲を1795年3月29日に行なわれた演奏会で、
ピアノ協奏曲の独奏者としてウィーンにデビューし、聴衆の喝采をあびた。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Adagio
第3楽章 Rondo:Molto allegro
ケンプ,ウィルヘルム 〔独〕
(1895.11.25〜1991.05.23) 96歳
「最高のベートーベン弾き」として知られているケンプは、
オルガン奏者で、音楽学校長だった父の手ほどきを受けた後、
ベルリン高等音楽学校で学び、卒業の前年から演奏活動を始めた。
第二次大戦後、ケンプはナチに協力した嫌疑で、
しばらく演奏活動を禁じられていた。
しかし、その間演奏技巧の磨き上げに専念し1950年以降、
再び国際舞台で活躍を始めたときには、深い教養に裏打ちされた、
高雅で詩的感興に溢れた明晰な演奏に、テクニックと内面が一致した
格調高いピアニストとして 高い評価を得た。
日本には1936年に初来日、以後4度来日して演奏会を開いている。
ケンプの演奏の録音は数多いが、ベートーベンのピアノ協奏曲と
ピアノソナタの全集の録音は、モノラルとステレオの2種類が残されている。
《 自信作 》
【 ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37 】
第3番が作曲されたのは1800年のことで、ベートーベン自身によると、
ひよわさがある第1番と第2番は自分のものとしては最上のものとは思えず、
第3番には自信を持っていた。
若々しく、荒々しい男らしさが全編にみなぎる第3番で、彼は大きく飛躍した。
それは、交響曲の世界でも、やはり第3番で大きく飛躍している。
1803年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で
ベートーベンの演奏により初演された。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 largo
第3楽章 Molto allegro
《 新しい試み 》
【 ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58 】
「第4番ト長調」は、ベートーベンが最も脂の乗り切った円熟期36歳の作品で、
まさに大曲といわれている。
ベートーベンの唯一のヴァイオリン協奏曲も、この年に作られた。
第3番に比べると、ずっと繊細で詩的な気分を持っているが、
うちにひめられた力は大きい。
この曲は、伝統的な形式を完全に打ち破って第1楽章の冒頭から
ピアノ独奏で始まる。
ピアノ独奏で演奏が始まるのは当時の協奏曲としては、きわめて異例で
19世紀のロマン主義の新たな様式を示した先駆的な傑作とされている。
ベートーベンは、第1楽章のカデンツァを2種類書いているが、
ブラームスも書いている。
また、第2楽章と第3楽章をつなげてしまったことなど、
協奏曲では新しい試みをしている。
初演は1808年12月22日にウィーンのアン・デル・ウィーン劇場で、
ベートーベン自身の独奏でおこなわれ、ルドルフ大公に献呈された。
その後しばらく演奏会で取り上げられなかったが、1836年になって、
メンデルスゾーンに取り上げられ、演奏会のプログラムに組まれるようになった。
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Andante con moto
第3楽章 Rond Vivace
《 大傑作 》
【 ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」 】
古今のピアノ協奏曲のなかで最高の地位を占め、大傑作である
「第5番変ホ長調」は、1808年から翌年にかけて作曲された。
「皇帝」という名称は、作曲者自身の命名ではなく、特定の皇帝と
関係づけているものではない。
作品そのものが、雄大で豪壮で華麗な効果をもった曲想から
そう呼ばれるようになった。
1809年、ウィーンはナポレオン軍の占領下にあって、混乱し
不安にみちていたが、ベートーベンはウィーンに踏み留まり、
この壮大な曲を書き続けた。
フランスの将校とすれちがったとき、ベートーベンはこぶしを震わせて、
「私がもし戦術のことを、対位法くらいよく知っていたら、ものみに
みせてくれよう、というところなのだが・・・」と言ったと伝えられている。
この曲は、ベートーベンの良き理解者、援助者であり、
また弟子でもあったルドルフ大公に献じられた。
初演は、ウィーンではなくライプチヒのゲヴァントハウスで行われ、
好評を博したが、翌年ウィーンでの演奏会では、評判は
良くなかったようで、「第4番ト長調」と同じく
ベートーベンの存命中は、演奏されなかった。
オーケストラの最強奏による和音の間を、ピアノが激しく駆け巡る
第1楽章に始まり、第3楽章の締めくくりで最後の力を振りしぼる
独奏ピアノとオーケストラの力強い演奏は、まさに王者を思わせる。
ギーゼキング,ヴァルター 〔ドイツ〕
(1895.11.05〜1956.10.26) 61歳
ドイツのピアニストのギーゼキングは、 フランスのリヨンで生まれた。
初等教育は受けず、16歳のときからハノーヴァーの音楽院で学んだ。
28歳のころから欧米各国で演奏活動を始めた。
第二次世界大戦中もドイツを離れなかったためナチ協力者としての
嫌疑を受け、演奏活動が出来ない時期があった。
戦時中の1945年1月23日、現存する最古のステレオ録音をした曲が、
ベートーベンの「ピアノ協奏曲(皇帝)」だった。
ギーゼキングは、 ベートーベン全集のレコーヂィング中に倒れ、
手術をしたもののロンドンで客死した。
彼は、アマテュアの喋類研究家としても有名である。
《バイオリン協奏曲中の王者》
【 バイオリン協奏曲 ニ長調 作品61 】
ベートーベン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの作品は
“四大バイオリン協奏曲”といわれているが、この曲はバイオリン協奏曲中の
王者にたとえられてきた。
しかし、この曲が王者として認められるまでには相当の年数が必要だった。
初演されたのは1806年12月23日、ウィーンのアン・デル・ウィーン劇場だった。
ベートーベンは、最後の仕上げをいつもギリギリまでやるのが常だったため、
独奏者のフランツ・クレメントは初演当日、所見で奏しなくてはいけなかった。
この曲は初演以来ほとんど顧みられなかったが、真価が認められるように
なったのは38年後、メンデルスゾーンの指揮、13歳のヨアヒムの独奏で
演奏されてからだった。
美しさ、品格の高さ、長大なこと、王者としての条件はすべてそなわっていて、
いまもってこれをしのぐものはないともいわれている。
ベートーベンはピアノ協奏曲を5曲作曲しているが、バイオリン協奏曲は
これ1曲しか残していない。
第1楽章の最初から、いきなりティンパニーがpでニの音を刻むこの曲は、
3楽章からなるが、ベートーベン自身がピアノ協奏曲として編曲もしている。
第1楽章 Allegro ma non tanto troppo
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Rondo Allegro
《 3人の名手 》
【 三重協奏曲 ハ長調 作品56 】
ピアノ・バイオリン・チェロのための「三重協奏曲ハ長調」は、
ベートーベンが意欲的だった34歳の作品だが、3つの独奏楽器と
近代の色彩的な管弦楽という豊富な素材の処理が難しく、
他の曲と比べて優れた作品とは評価されないが、3人の名手を揃えて、
その腕を発揮させる目的で演奏されることが多い。
オイストラフのバイオリンに、ロストロポーヴィチのチェロ、リヒテルのピアノ、
カラヤンの指揮で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団とともに
演奏した録音は、名演として知られている。
オイストラフ,ダヴィド (ソ連)
(1908.09.30〜1974.10.24) 66歳
二十世紀の代表的なバイオリニストのオイストラフは、ロシア黒海沿岸の
オデッサで生まれ、5歳から父の手ほどきでバイオリンを始め、その後
名教師マトリアルスキーに師事し、6歳で公開演奏を行なった。
オデッサ音楽院入学後も同教授の指導を受け、
27歳のときにモスクワでデビューした。
数々のコンクールに優勝し、輝かしいキャリアを築き国際的にも
注目されるようになった。
1950年代に入ってからは、ソ連国外にも演奏活動を活発に行ない、
55年には日本でデビューし、絶賛された。
強靱なテクニックに裏付けられた、豊かな音色で、スケールの大きな
演奏を繰り広げて多くのファンを魅了した。
レパートリーは、バロックから現代まで幅広いが、ソ連の作曲家の
プロコフィエフ、ハチャトリアン、ショスタコーヴィッチなどから
作品を献呈されている。
1958年からは、指揮活動も同時に行なっていて、多くの指揮者も育てている。
1974年10月24日、旅先のアムステルダムで急逝した。
《 ただ一つのオペラ 》
【 オペラ「フィデリオ」作品72 】
「フィデリオ」は、ベートーベンが完成した唯一の歌劇で、彼の精神が
きわめて明瞭にきざまれた自身の生きた記録として重要な作品とされている。
勇敢で愛情深いレオノーレの姿は、ベートーベンの理想の女性像を
最も典型的にあらわすものとして注目される。
ベートーベンは最初のスケッチを仕上げてから、再訂3訂を経て
現在の決定版を完成するまでに、19年の間この歌劇を手がけていた。
第1訂は、ナポレオンの軍勢が戦勝を重ねてウィーンに迫りつつあった
1805年11月20日に、戦乱騒然たる中で初演されたが3日で公演は打ち切られた。
2幕ものに改められた第2改訂版は翌年上演され、かなりの好評をえたが、
決定的な評価を得るまでにはいたらなかった。
それから19年後にこの歌劇を上演する機会があたえられたベートーベンは、
またも改訂にとりかかった。
宮廷歌劇場の監督兼座付詩人のトライチュケがベートーベンと共同して
台本を改訂し、1814年5月23日に現在版の初演に至った。
すでに聴覚異常をきたしていた作曲者自身の指揮による第3初演は、
非常な好評によって迎えられ、ようやく輝かしい成功を得た。
ベートーベンは題名を「レオノーレ」とするよう主張したが、興行的な見地から
受け入れられず、後に彼も「フィデリオ」の題に納得したという。
3幕からなる歌劇は、スペインのセビーリヤ近くの刑務所を舞台に、
その所長ドン・ピツァロの手で地下牢に閉じ込められた政敵フロレスタンの
妻レオノーレが男装してフィデリオと名乗り、牢番ロッコの部下となり、
夫が暗殺される危機に臨み、身をていして救出。
夫の旧友の大臣の手でピツァロは罰せられる。
一同は正義と愛を讃え、明るく幕となる。
4つの序曲とレオノーレのアリアや囚人の合唱など、有名な曲がある。
《 2つのセレナード 》
【 セレナード ニ長調 作品8 】
ベートーベンは、1797年に「セレナード」を2曲作曲している。
「作品8」は、弦楽三重奏のためのセレナードで、バイオリン、ビオラ、チェロで、
もう1曲の「作品25」は、チェロの代わりにフルートが使われている。
5つの楽章からなり、美しい旋律と屈託のない典雅な情緒が全曲に流れている。
第1楽章 March : Allegro
第2楽章 Menuetto : Allegretto
第3楽章 Adagio
第4楽章 Allegro Alla Polacca
第5楽章 Andante quasi Allegretto
《 教育者 》
【 ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50 】
ベートーベンは、ロマンスという題の曲を2曲書いているが、
「ロマンス第2番ヘ長調」は、「ロマンス第1番ト長調作品40」よりも先に書いた。
しかし、作品番号は後になっている。
1798年に書いた第1番は、独奏バイオリンと管弦楽(フルート、オーボエ、
バスーン、弦楽五部)のための楽曲で、旋律が美しく甘美な曲である。
ロマンスというものには特定の形式はない。
斉藤 秀雄
(1802.05.23〜1974.09.18) 72歳
指揮者、音楽教育者、チェロ奏者日本のクラシック音楽界の
水準を引き上げ、数多くの後進を育てた。
ドイツのライプツィヒとベルリンでチェロを学び、第二次大戦後、
いち早くヨーロッパの革新的な考え方を広めた。
チェロ奏者から指導的な手腕を発揮できる指揮者へ転向し、
プロのオーケストラの実力を高めた。
1944年にバイオリニストの巌本真理と二人で、
ベートーベンの「ロマンス」第1番と第2番を録音している。
48年に桐朋学園の基礎となる「子供のための音楽教室」を設立し、
音楽の早期教育に力を尽くした。
昭和49年9月18日に世を去ったが、没後、先生を追悼するため教え子たちが
年に1回だけ集まって「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏会を行なっている。
《 演奏会用序曲 》
【 序曲「コリオラン」作品62 】
1807年の初めに作曲された演奏会用序曲「コリオラン」は、
ウィーンの宮廷秘書官で、法律家であり詩人でもあった、
ハインリッヒ・ヨーゼフ・コリンが1802年にウィーンで上演した5幕ものの、
古代ローマの将軍コリオラヌスの悲劇「コリオラン」が大当たりで、
その戯曲が作曲の動機となっている。
作曲した年の3月に予約演奏会で初演され、コリンに献呈された。
コリオランは、プルータルクの英雄伝に出てくる紀元前五世紀ごろのローマの英雄で、
本名はケイアス・マーシャスといったが、彼はただ1人で、コリオーライの城を
攻め落としたので、コリオラヌスと呼ばれるようになった。
ドイツ語読みにすると、コリオランとなる。
コリオランは、ローマが共和体制になった折に政治上の意見の相違から国外追放となった。
そこで、隣国の将軍となりローマに攻め寄せたが、謀殺されてしまった。
この筋はシェイクスピアが1607年に発表した戯曲「コリオレーナス」に使われた。
《4つの序曲》
【「レオノーレ」序曲 第1番 ハ長調 作品138】
ベートーベンは、歌劇を1曲しか作曲しなかった。
そのただ一つの歌劇「フィデリオ」のために、4つの序曲を書いている。
「レオノーレ」序曲 第1番 ハ長調 作品138(1807年)
「レオノーレ」序曲 第2番 ハ長調 作品72a(1805年)
「レオノーレ」序曲 第3番 ハ長調 作品72b (1806年)
「レオノーレ」序曲 第4番「フィデリオ」序曲(1814年)
1805年の初演には「第2番」が使われ、
1806年の再演のときには「第3番」が書かれ、
1814年の上演のためには、現在「フィデリオ序曲」と呼ばれている
ホ長調のものが作られた。
第1番は、ベートーベンの死後行なわれた遺品の競売で楽譜出版者が手に入れ、
1832年になって出版されたものである。
1805年に書かれた最初のものであるともいわれているが、定かではない。
ベートーベンが書いた第1バイオリンのパート譜に、「序曲、ハ長調、性格的序曲」と
自筆されているこの曲は1828年2月7日、ウィーンで初演されたが、ベートーベンは
不満足で聴衆の印象も良いものではなかったため、楽譜を捨ててしまったとされている。
《 4つの序曲 》
【「レオノーレ 」序曲 第2番 ハ長調 作品72a 】
「第3番」はまとまりも良く、簡潔性もあり、「第2番 」は「第3番」を生み出す
母体となっている感が深く、演奏される機会が少ない序曲となった。
歌劇「フィデリオ」は、主人公レオノーレが、「フィデリオ」という名前で男性に変装し、
政治犯として勾留されている夫のフロレスタンを救出する物語りで、
1805年の初演は、ベートーベン自身の指揮で行なわれた。
管弦楽演奏会で演奏会用序曲としては、1840年1月9日に
メンデルスゾーンの指揮によって初演された。