4−3
モーツァルト,ヴォルフガング・アマデウス 〔オーストリア〕
(1756.01.27〜 1791.12.05) 35歳

          4−1
           【 交響曲 第25番 ト短調 K.183 】
           【 交響曲 第31番 ニ長調 K.297「パリ」】
           【 交響曲 第35番 ニ長調「ハフナー」K.385 】
           【 交響曲 第38番 ニ長調 K.540「プラハ」】
           【 交響曲 第40番 ト短調 K.550 】
           【 交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」】
           【 ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 】
           【 ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 】
           【 ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 】
           【 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 】
           【 ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 】
           【 ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537「戴冠式」】
           【 ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 】
          4−2
           【 3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242 】
           【 2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365 】
           【 バイオリン協奏曲 第1番 変ロ長調 K.207 】
           【 バイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K219 】
           【 ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191 】
           【 フルート協奏曲 ニ長調 K.314 】
           【 オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314 】
           【 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 】
           【 フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K299 】
           【 Yn.とVa.のための協奏的交響曲 変ホ長調 K.364 】
           【 セレナード 第10番 変ロ長調K361
           【 ディヴェルティメント ニ長調 K.251
           【 ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334
           【 ディヴェルティメント ヘ長調 K.522「音楽の冗談」
           【 ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 】
          4−3
           【 弦楽五重奏曲 第5番 ト短調 K.516 】
           【 弦楽四重奏曲 第1番 ト長調 K.80 】
           【 弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464 】
           【 ピアノ三重奏曲 第3番 変ロ長調 K.502 】
           【 クラリネット五重奏曲イ長調K.581 】
           【 フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 】
           【 バイオリン・ソナタ ホ短調 K.304 】
           【 ピアノのための小品「メヌエット ト長調」 K.1 】
           【 ピアノ・ソナタ イ長調 K331 】
           【 グルック変奏曲 ト長調 K.455 】
          4−4
           【 歌劇「後宮からの誘拐」K.384 】
           【 歌劇「フィガロの結婚」K.492 】
           【 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527 】
           【 歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588 】
           【 歌劇「魔笛」 K.620 】
           【 ミサ曲 第14番 ハ長調 K.317「戴冠ミサ」】
           【「戴冠ミサ」ハ長調 K.317 】
           【「レクイエム」ニ短調 K626 】
           【「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618 】
           【 歌曲「春へのあこがれ」K.596 】





《 室内楽の名曲 》

【 弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516 】

モーツァルトが「弦楽五重奏曲 第4番」をウィーンで完成させたのは、
父が亡くなる直前の5月16日、「第3番 ハ長調」は4月19日と
立続けに作曲している。
この2曲は対照的な性格をもっているが、モーツァルトの室内楽の
名曲として親しまれている。

悲愴美にあふれた楽想の第4番は、モーツァルトの作品の中でも、
最も深い憂いをたたえたものに数えられる。

               第1楽章 Allegro       
               第2楽章 Memuetto : Allegretto
               第3楽章 Adagio ma non troppo
               第4楽章 Adagio       




《 最初の弦楽四重奏曲 》

【 弦楽四重奏曲 第1番 ト長調 K.80 】

モーツァルトは生涯に20曲以上の弦楽四重奏曲を作曲したが、
その最初の曲の第1番は14歳の1770年3月15日に完成している。

当時イタリアで最も優れた作曲家のボッケリーニと
サンマルティーニの影響を受けて作られた。

初めは3楽章で書かれていたが、後に4楽章として「ロンド」を書き足している。

               第1楽章 Adagio     
               第2楽章 Allegro     
               第3楽章 Menuetto    
               第4楽章 Rondeau: Allegro




《 ハイドン・セット第6番 》

【 弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464 】

モーツァルトが1782年から1785年にかけて作曲した弦楽四重奏曲の
6曲は、ハイドンの作品から刺激を受け、その手法にのっとって書き上げた。
まとめてハイドンに献呈されたことから、「ハイドン・セット」「ハイドン四重奏曲」と
呼ばれ、古今の弦楽四重奏曲の傑作として親しまれている。

ハイドン・セット第1番 (1782年)
弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387

ハイドン・セット第2番 (1783年)
弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421

ハイドン・セット第3番 (1783年)
弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428

ハイドン・セット第4番 (1784年)
弦楽四重奏曲 第17番 変ロ長調「狩り」K.458

ハイドン・セット第5番 (1785年)
弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464

ハイドン・セット第6番 (1785年)
弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調「不協和音」K.465

1785年1月10日に完成した弦楽四重奏曲第18番のハイドン・セット第5番は、
6曲中最も規模の大きい作品で、後にベートーベンが弦楽四重奏曲を
作曲する際、この曲を研究したといわれている。

                第1楽章 Allegro         
                第2楽章 Menuetto        
                第3楽章 Andante(6つの変奏曲)
                第4楽章 Allegro         




《 ロン=ティボー国際コンクール 》

【 ピアノ三重奏曲 変ロ長調 K.502 】

モーツァルトは、全部で8曲のピアノ三重奏曲(ピアノ、バイオリン、チェロ)を書いた。
ただ、一曲はピアノ、クラリネット、ヴィオラの編成のものがある。

それらの三重奏曲は、親しい人たちの間で演奏される家庭的な音楽で、
すてがたい味わいのある、見事な構成と内容をもっている。

これらの作品はウィーン時代(1783年〜1788年)に作られたが
「変ロ長調 K.502」は30歳のときの作品である。



ティボー,ジャック〔仏〕
(1880.09.27〜1953.09.01) 72歳 事故

名バイオリニストのティボーは、ボルドー市の音楽教師を父に

8歳でリサイタルを開くという幼くしてバイオリンの才能を発揮し、
13歳からパリ音楽院で学び一等賞で卒業をした。

名指揮者のコロンヌに見い出され、コロンヌ管弦楽団で独奏者として名声を得た。
かつてベリオが愛用していたストラディヴァリウスを自由自在に操った
その音色は、繊細典雅をきわめ、高雅な趣味にあふれた陶酔的なものであった。

1905年に、ピアノのアルフレッド・コクトー、チェロのパブロ・カザルスと共に
「カザルス三重奏団」を結成して活躍した。

1943年には、ピアニストのマルグリット・ロンと協力して、
ロン=ティボー国際コンクールを開催し、後進の育成にも力を注いだ。

1953年9月1日、彼は来日途中、乗っていた飛行機が
アルプス山脈に衝突し、72年の生涯を閉じた。




《 シュタットラー五重奏曲 》

【 クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 】

ウィーン古典派の代表的作曲家といえば、ハイドンとモーツァルトがあげられるが、
この2人は多くの点で対照的な存在である。

24歳も年長であり、作曲家としての道を歩み始めたのが比較的遅かった
ハイドンに対して、モーツァルトは神童といわれ、5歳になるころから
小曲を作曲している。

ハイドン(1732?1809)は十九世紀まで生きのびて長寿をまっとうしたが、
モーツァルトは35歳の働きざかりで世を去った。

クラリネット五重奏曲は、モーツァルトの室内楽曲のなかで、
というよりも全作品のなかでも、最高傑作のひとつにあげられる。
死の2年前の33歳のとき、ウィーンでのきわめて貧しい生活のなかで完成された。

ウィーンで、3歳年長のアントン・シュタットラーというクラリネット奏者と
親しくなったモーツァルトは彼からクラリネットという楽器の
性能や奏法を詳しく教わった。

そのうえ、彼から経済的援助までうけることになり、その返礼に
この曲を捧げているので「シュタットラー五重奏曲」とも呼ばれている。
死の2ヶ月前に作曲した「クラリネット協奏曲」と2曲が
シュタットラーに献呈された。

第2楽章では、クラリネットの甘美な音色が巧みに生かされて、
優麗な楽章となっている。

先日亡くなられた山本直純さんは、生前自分が亡くなったときには
この曲の第2楽章をと言われていたとか・・・
クラリネットの甘美な音色が生かされた優麗な楽章だ。




《 不完全な楽器 》

【 フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 】

モーツァルトは、21歳の1777年に主君にあたる故郷ザルツブルクの
大司教との確執から、宮廷音楽家の地位を辞任して、就職口を探すために
母と2人で、かつて父や姉と幼いころにたどった道をそのままに、
マンハイムに出かけた。

残念ながら定職にはありつかなかったが、ヨーロッパでは一、二を争う
優れたオーケストラに接したことにより、管弦楽法に一段と磨きをかけ、
その後の彼の作風に大きな影響を与えている。

その音楽的環境で、幾人かの優れた演奏家たちと交わることができた。
当時フルート奏者として、全西欧に知られていたヨハン・ヴェントリングも
そのひとりであった。
そして、その兄のヴァイオリニストの家もしばしば訪れていた。

そこでオランダ人の金持ちド・シャンを紹介された。
金利で生活し、いろいろと芸術に興味をもっていた彼から、
フルートのための短くてやさしい協奏曲の作曲を依頼された。
そこで、第1?第3までのフルート四重奏曲と第1?第2の
フルート協奏曲を書き上げて彼に渡した。

そのころのフルートはまだ不完全な楽器で、奏法も不自由だったし、
音色も現在のように輝かしいものではなくて、華やかさのない、
くすんだ響きをもっていたようで、モーツァルトはフルートがあまり
好きではなかったようだ。
「我慢できない楽器のために作曲していると、頭がぼけてきます」と
父に知らせている。

現在使われている、輝きに満ちた音色のフルートに接していたら、
彼はもっと多くのフルートの曲を作ったであろう。
フルート四重奏曲第1番は、華やかで親しみやすい旋律を持った
魅力的な小品である。




《 母の死 》

【 バイオリン・ソナタ ホ短調 第28番 K.304 】

モーツァルトがヴァイオリンとピアノのために書いた「ソナタ」は、
未完成のものも加えると41曲に及ぶが、彼の作品は「2重奏曲」
ではなくて「バイオリンの自由な伴奏をもったピアノ・ソナタ」だった。

1777年以降に書かれた19曲のなかで、唯一の短調のソナタで、
異様な緊迫感と、暗さとを漂わせていて、すでに健康をそこねていた
母の死を予告するかのような陰うつとさえいえるような気分を持ち、
どちらかといえば、明るい作品の多いパリ時代のもののうちでは、
同じ時代に書かれたイ短調のピアノソナタとともに
異例に属するものである。

             第1楽章 Allegro       
             第2楽章 Tenpo di memuetto 



モーツァルト,アンナ・マリア 〔墺〕
(1720.12.25〜1778.07.03) 57歳

モーツァルトの母のアンナ・マリアは、7人の子どもを生んだが、
成人したのは三女のアンネルとモーツアルトの二人だけだった。

1777年モーツァルトはザルツブルクの大司教につとめる宮廷音楽家の
職務に次第に不満と反発を感じるようになり、父親のレオポルドは、
息子に相応しい地位を他所に求めようとして、
新しい旅行の計画が練られていた。

しかし、父子2人の旅行のプランは、大司教によって退けられたために、
モーツァルトは母と2人で仕事を求めてパリに出かけた。

「バイオリン・ソナタ ホ短調」は、1778年の3月から6月にかけて、
滞在していたパリで作曲されたが、同行中の母は熱病を発して
7月3日異国で客死した。




《 ケッヘル番号 》

【 ピアノのための小品「メヌエット ト長調」K.1 】

K.1は、モーツァルト5歳の作品の「メヌエット」で、最後の作品となった
遺作の「レクイエム」はK.626である。



ケッヘル,ルードヴィヒ・フォン 〔墺〕
(1800.01.14〜1877.06.03) 78歳 

モーツァルトの作品には、年代順にK.のケッヘル番号がつけられている。
全音楽作品626曲の年代順主題目録は、主題部分の楽譜、楽器編成、
作曲年月日と作曲他小節数など詳細な情報を、各曲ごとに網羅した
大変画期的なもので、ケッヘルによって、モーツアルトの死後
70年ほど経って発表されたものである。

それ以後、モーツァルトの作品は、ケッヘルのイニシャルのK
またはK.V.に目録の通し番号をつけて呼ばれるようになった。

ケッヘルは、モーツァルトの死の9年後の1月14日に生まれた
音楽学者だが、ウィーン大学で法律を学んだ後、植物学と鉱物学を
研究し、彼の学名がついた植物もある程の植物学者だった。

モーツァルトの愛好者だったケッヘルは、51歳のころから12年の
歳月をかけて目録を完成させ、一躍有名になった。
彼は他にも音楽史関係の著作をいくつか残し、ウィーンで生涯を閉じた。

後世の研究で、ケッヘルの目録には間違いがあることが判明し、
現在は第6版が使われている。
「トルコ行進曲付きピアノソナタイ長調」はケッヘルの初版では
331番だが、第6版では300iとされ、現在では「K.331(K.300i)」と
併記されることが多い。




 《 日本ピアノ界の恩人 》

【 ピアノ・ソナタ イ長調 K.331】

モーツァルトのピアノ・ソナタは、ピアノのレッスンには欠かせないが、
K331はモーツアルトのピアノ・ソナタのなかで、もっとも有名な曲である。

モーツァルトの活動は、ピアノという楽器と切り離せない関係にあったが、
彼が子どものころに弾いていたのは、ハープシコード
(イタリア語でチェンバロ、フランス語でクラブサン)で、後年は今のピアノの
前身にあたるハンマーフリューゲルを使っていた。

彼はこの楽器で、ウィーンの楽壇にデビューし、ピアノの演奏家として活躍、
また教師として多くの優れた弟子を育てあげたのだった。

ピアノの独奏曲としては、20曲ほどのピアノ・ソナタの他、4曲の幻想曲、
16曲の変奏曲、さらにロンドその他の小曲がこの楽器のために
作曲されているが、4手用や2台のピアノの作品もある。

「ピアノ・ソナタ イ長調 K331」は、ソナタといっても、
ソナタ形式の第1楽章に始まり、緩やかな中間楽章をはさんで、
フィナーレに続く正規の楽章構成をもっていない。

第1楽章は、主題と6つの変奏曲からなり、
この楽章もこのソナタをポピュラーなものにするのに成功している。

第2楽章も普通と異なり、トリオがついた規模の大きなメヌエット楽章である。

終楽章である第3楽章が「トルコ風に」と記されていて、当時ウィーン
その他ヨーロッパの各地で流行していた東方風のスタイルが、
巧みに取り入れられている。

この曲は1778年の夏、モーツァルトがパリに滞在中に作曲したものとされている。



ショルツ,パウル  〔独〕
(1889 〜1944.10.02) 55歳

ショルツは、1913年にベルリン高等音楽学校を卒業後、
東京音楽学校ピアノ教師として着任した。
以来東京に住み、ピアニスト、教師として活躍した。

30年にわたり、日本のピアノ界ならびに、ピアノ教育に尽くした功績は大きい、
東京で55年の生涯を閉じた。

1909年(明治43年)にルドルフ・ロイテルが、東京音楽学校ピアノ教師として
着任したが、彼の後任として来日したのがショルツだった。




《 厳格変奏 》

【 グルック変奏曲 ト長調 K.455 】

モーツァルトがピアノ独奏用として書いた変奏曲は、28曲あるが、
多くの曲が旅行中に書かれていて、その地で流行していた曲を
主題として、即興的に作られている。

いずれも主題をそのまま使い、厳格変奏(テンポ、リズム、調性を
変えて奏する)となっている。
変奏の数は6回?12回で、統計的には12回が最も多く、主題の調性は
全部が長調で、変奏のうち1回は同名短調に転じている。

「 グルック変奏曲」では、ト長調の主題のあと10回の変奏が行なわれる。
第5変奏でト短調が、第8変奏と第10変奏ではカデンツァが設けられている。



グルック,クリストフ・ヴィリバルド 〔オーストリア〕
(1714.07.02〜1787.11.15) 73歳 脳溢血

グルックは、バイエルンのエラスバッハの出身で、父親は
大貴族ロブコヴィッツ家に仕えた森林官だったが、一族で
音楽家になった者も、その他の芸術に従事した者もいなかった。

彼は、オペラの改革者として知られているが、プラハ大学で、
哲学と音楽(教会音楽とイタリア音楽のスタイル)を学んだ。
このころ聴いたイタリアふうオペラに強い刺激を受け、
後にオペラ作曲に意欲を燃やした。

当時のイタリア式オペラは、歌手たちの技巧を競うもので、
芸術的に価値の乏しいものが多かった。
グルックは、劇と音楽の完全な融合を考え、オペラ改革を目指した。

歌劇「メッカの巡礼」は、1776年夏に初演されたが、
1780年に改訂されて蘇演がおこなわれた。
この歌劇中のアリアに基づいて書かれた変奏曲が
「 グルック変奏曲 ト長調」で、モーツァルトにとってグルックは
ハイドンと共に尊敬を捧げる数少ない先輩の一人だった。