4−4
モーツァルト,ヴォルフガング・アマデウス
〔オーストリア〕
(1756.01.27〜 1791.12.05) 35歳
4−1
【 交響曲 第25番 ト短調 K.183 】
【 交響曲 第31番 ニ長調 K.297「パリ」】
【 交響曲 第35番 ニ長調「ハフナー」K.385 】
【 交響曲 第38番 ニ長調 K.540「プラハ」】
【 交響曲 第40番 ト短調 K.550 】
【 交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」】
【 ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 】
【 ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 】
【 ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 】
【 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 】
【 ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 】
【 ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537「戴冠式」】
【 ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 】
4−2
【 3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242 】
【 2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365 】
【 バイオリン協奏曲 第1番 変ロ長調 K.207 】
【 バイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K219 】
【 ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191 】
【 フルート協奏曲 ニ長調 K.314 】
【 オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314 】
【 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 】
【 フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K299 】
【 Yn.とVa.のための協奏的交響曲 変ホ長調 K.364 】
【 セレナード 第10番 変ロ長調K361
【 ディヴェルティメント ニ長調 K.251
【 ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334
【 ディヴェルティメント ヘ長調 K.522「音楽の冗談」
【 ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 】
4−3
【 弦楽五重奏曲 第5番 ト短調 K.516 】
【 弦楽四重奏曲 第1番 ト長調 K.80 】
【 弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464 】
【 ピアノ三重奏曲 第3番 変ロ長調 K.502 】
【 クラリネット五重奏曲イ長調K.581 】
【 フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 】
【 バイオリン・ソナタ ホ短調 K.304 】
【 ピアノのための小品「メヌエット ト長調」 K.1 】
【 ピアノ・ソナタ イ長調 K331 】
【 グルック変奏曲 ト長調 K.455 】
4−4
【 歌劇「後宮からの誘拐」K.384 】
【 歌劇「フィガロの結婚」K.492 】
【 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527 】
【 歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588 】
【 歌劇「魔笛」 K.620 】
【 ミサ曲 第14番 ハ長調 K.317「戴冠ミサ」】
【「戴冠ミサ」ハ長調 K.317 】
【「レクイエム」ニ短調 K626 】
【「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618 】
【 歌曲「春へのあこがれ」K.596 】
《 青春の記念碑 》
【 歌劇「後宮からの誘拐」K.384 】
モーツァルトが最初のオペラを書いたのは、11歳の1767年で、
その後約25年間に歌劇、喜歌劇などオペラといわれるものを21曲作曲した。
「後宮からの誘拐」(日本では、「後宮から逃走」とも呼ばれる)は、
モーツァルトの最初の完全なジングシュピール(歌芝居)で、
ドイツ・オペラの先駆をなす作品である。
3幕からなる「後宮からの誘拐」は、プレッツナーの台本に基づき
シュテファニーのドイツ語の改作台本で作られた。
主人公ベルモンテが、召使いのペドリロの助けを借りて、
恋人のコンスタンツェをトルコ太守セリエの後宮から救い出すという筋立てになっている。
1781年5月に完成したが、さまざまな障害にあって
すぐに上演することができなかった。
皇帝ヨーゼフ二世の命令によって初演されたのは、翌年の7月16日
ウィーン劇場でのことで、大成功をおさめ繰り返し上演された。
この歌劇について、ヨーゼフ二世が音符が多すぎると評したとき、
モーツァルトは胸をはって音符は丁度必要なだけの量が使われています、
と答えたという逸話も残っている。
「後宮からの誘拐」は、モーツァルトの青春の記念碑だったともいえ、
初演後の8月4日には、父の反対を押し切ってコンスタンツェと
結婚式を挙げていて、モーツァルトの短い生涯の中で、最も幸福な時代であった。
コンスタンツェは、ウェーバーのいとこにあたり、父親は宮廷に仕える
歌手で、4人の娘もみな声楽家だった。
ウェーバーの父は男爵の爵位を持っていたが、
コンスタンツェの父は襲爵しなかった
次女のアロイジアは最も名高く、モーツァルトは最初彼女に求婚したが、
画家のヨーゼフ・ランゲと結婚し失恋に終わった。
今、残されているモーツアルトの肖像画の作者が彼である。
結局、三女のコンスタンツェと結婚し、モーツァルトは6人の子どもの
父となった。(第2子と第6子以外は早世している)
モーツァルトは妻を非常に愛したが、コンスタンツェは決して良い妻とは
いえなかったようだ。
長男 ライムント・レオポルド(2ヶ月で早世)
次男 カール・トーマス(成人し官吏となる)
3男 ヨハン・トーマス・レオポルド(翌月早世)
長女 テレージア(半年で早世)
4男 (生まれた日に死んだ)
5男 フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング
(彼はヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト二世を名のり、
音楽家として生涯を過ごした)
20歳から8年間に、6人の子どもを出産したコンスタンツェには、
良い妻になる余裕はなかったのかも・・・
モーツァルトは35歳で早世したが、コンスタンツェは
病弱でありながら80歳と長生きをしている。
《 指揮者としてのデビュー作品 》
【 歌劇「フィガロの結婚」K.492 】
モーツァルトのオペラの3大傑作といわれる作品が
「フィガロの結婚」(1786年)
「ドン・ジョヴァンニ」(1787年)
「魔笛」(1791年)
この3曲だが、それに次ぐのが「後宮からの誘拐」
「コシ・ファン・トゥッテ」(1790年)で、モーツァルトの代表歌劇とされている。
モーツァルトのオペラの3大傑作の一つの「フィガロの結婚」は、
序曲と第4幕からなり、ダ・ポンテの台本による3時間余りの諷刺のきいた
喜劇で、軽快、優雅、それぞれの登場人物の喜怒哀楽を
生き生きと表現している。
序曲は、名曲の一つにかぞえられていて、演奏会場の雰囲気を
和やかにする効果をももっているので、演奏会の序曲として
プログラムの最初にのせられることもしばしばある。
「フィガロの結婚」の初演は、モーツァルトの30歳のときで、
作曲者自身の指揮で行なわれた。
ゲオルグ,ショルティ (洪)
(1912.10.21〜1997.09.05) 84歳
オペラと管弦楽の両方の分野で活躍した巨匠ショルティは、
ハンガリーのブダペストで生まれた。
6歳からピアノ始め、12歳からリスト音楽院でピアノ、作曲、指揮を学んだ。
1938年に、ブダペスト歌劇場で指揮者としてデビューした曲が
モーツァルトの「フィガロの結婚」だったが、その4年後の30歳のときに、
ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝した。
ユダヤ人だったため、第二次世界大戦中は、ナチの手を逃れてスイスに
亡命し、そのままスイスで暮らしたため、両親や家族とは再会しなかった。
戦後は、ミュンヘン、フランクフルト、ロンドンなどの歌劇場で指揮をし、
56歳でアメリカに渡ってから20年以上シカゴ交響楽団の黄金時代を築いた。
60歳のときにイギリスの市民権を得、「ナイト」の称号を授与された。
死の直前まで「シカゴ交響楽団」を中心に幅広い指揮活動を続けたが
1997年9月5日、南フランスで自伝の最終チェックを終えた直後、
84年の生涯を閉じた。
録音活動も熱心で、4日間にわたって演じられる大作
「ニーベルングの指輪」を全曲録音するという偉業を達成した。
日本には1963年、ロンドン交響楽団と共に来日している。
ダ・ポンテ ,ロレンツォ 〔伊〕
(1749.03.10〜1838.08.17) 89歳
3大傑作のうちの2つは、ダ・ポンテの台本によって作られていて、
モーツァルトの成功のかげには、この男のことを忘れるわけにはいかない。
ダ・ポンテはユダヤ人で3人兄弟の長男であったが、彼が14歳のときに
父は息子たちとともに、キリスト教に改宗した。
神学校で学び、僧職に身をおいたが、女性問題で事件をおこし、
1779年にヴェニスから15年間の追放をうけ、放浪の旅にでた。
1781年サリエリを頼ってウィーンにもどり、サリエリの世話で時の皇帝
ヨーゼフ二世の知遇を得て、オペラの台本を書き始めた。
彼の台本により、モーツァルトが作曲した「フィガロの結婚」が
大成功してから、台本作家として認められるようになった。
しかし、パトロンであったヨーゼフ二世が1790年に死去すると、
とたんにみんなから敬遠されるようになったが、
およそいやな奴であったようだ。
その後アメリカに渡り、香料商やイタリア文学の先生を経て、
ニューヨークでイタリア歌劇の常時上演をできるよう努力を続け、
ニューヨークで89年の生涯を閉じた。
《 モーツアルトの3大オペラ 》
【 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527 】
2幕からなる「ドン・ジョヴァンニ」は、スペインの好色貴族のドン・ファンを
主人公としたもので、モーツァルト自身は「諧謔劇」と名付けている。
ただ、おもしろおかしい喜劇と趣きを異にし、悲喜こもごもおりまぜ、
舞台に生きた人間の対決があり、人間性をついた場面をもつ名作である。
プラハで「フィガロの結婚」の公演が大当たりし、空前の熱狂を巻き起こした
翌年に、ダ・ポンテの台本で「ドン・ジョヴァンニ」は作られ、
1787年10月29日にプラハ劇場においてイタリア歌劇団により、
モーツァルトの指揮で初演された。
前作の「フィガロの結婚」が、大成功だったこともあり、彼自身は不安な
初演だったようだが、万事うまくはこび結果は、かつてプラハにおいて
上演された最も優れた歌劇とまで賞賛されたとある。
しかし、ウィーンにおける初演はあまり歓迎されなかったようだ。
序曲は、オペラを離れて演奏される機会が多く有名である。
ちなみに、日本初演は1948年12月14日、藤原歌劇団が
帝国劇場で上演している。
ニジンスキー,ヴァスラフ 〔露〕
(1890.02.28〜1950.04.11) 60歳
ロシアの生んだ今世紀最大の天才バレエ・ダンサーであり、
バレエの世界で伝説的存在であるニジンスキーは、
1890年2月28日ポーランド人の両親のもとキエフで生まれた。
ペテルグルグ帝室舞踊学校出身で、18歳のときのデビューは、
モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の第1幕第5場での
ドン・ジョバンニの舞踏室の場面で踊られた。
翌年にディアギレフのロシアバレー団に参加して、圧倒的人気を得た。
10年後、精神異常のため引退し、その後30数年間、精神病院を
転々としたが、1950年4月11日にスイスで60年の生涯を終えた。
《 底抜けの喜劇 》
【 歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588 】
1789年8月にウィーンで「フィガロの結婚」が再演されたが、
そのときに臨席した皇帝フランツ・ヨーゼフ二世が、モーツァルトの音楽に
興味をいだき、新しい歌劇の作曲を依頼し、作られたのが
「コシ・ファン・トゥッテ」であるといわれている。
物語の大筋は皇帝が自ら決め、前2作の台本を書いたダ・ポンテが
脚本をかきおろし、出来上がったのが2幕からなるこの歌劇で、
1790年1月26日、ウィーンのブルク劇場で初演され一応成功した。
しかし、皇帝ヨーゼフ二世は病気のため臨席せず、その後2月20日に
世を去ったため、上演は中断され、8月までに10回程の
上演が行なわれただけだった。
「コシ・ファン・トゥッテ」(女はみんなこうしたもの)は、底抜けの
喜劇ともいうもので、女の貞節について、男たちのばかばかしい
陽気ないたずらが主題となっている。
登場人物が少なく、かつその人たちが一対ずつの組に分けられて
いることから、音楽的にそれぞれ特徴ある二重奏のアンサンブルが
数多く生み出されている。
《 最後のオペラ 》
【 歌劇「魔笛」 K.620 序曲 】
モーツァルトの最後の年に完成した「魔笛」は、ジングシュピール
(音楽を台詞でつなぐ歌芝居)で、創作活動を締めくくる傑作である。
当時モーツァルトが加盟していたフリーメーソン秘密結社の
博愛思想が織り込まれ、モーツァルトは、その倫理的な思想を、
音楽的に表現するのに見事に成功している。
序曲の初めにも、フリーメーソンの信条を暗示しているかのような
象徴的音型が奏される。
カラヤン,ヘルベルト・フォン 〔墺〕
(1908.04.05〜1989.07.16) 81歳 心不全
1908年4月5日、ザルツブルクで生まれた二十世紀を代表する指揮者の
カラヤンは、「帝王カラヤン」と呼ばれ、人気と実力を兼ね備えていて
音楽的才能、演奏活動や、戦後の芸術復興などの偉業とともに、
多くの映像、録音を残した業績も各メディアから賞賛されている。
1938年12月9日ベルリン国立歌劇場管弦楽団と初録音したのが
モーツァルトの「魔笛」序曲だった。
カラヤンは1954年4月7日(46歳)に単身で初来日し、約一カ月間滞在して、
NHK交響楽団を指揮した。
音楽界の帝王になる前だったが、熱心にN響の指導をし、
また若い指揮者へのレッスンも行なった。
この初来日以降、カラヤンはベルリン・フィルまたはウィーン・フィルとともに
10回もの来日公演を行った。
1842年に創立されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、
ベルリン・フィルとならぶ世界最高のオーケストラの1つで、
専任の指揮者をもたず、客演指揮者制でコンサート活動を展開しているが、
1983年にカラヤンに名誉指揮者の称号を与えている。
ベルリン・フィルの創立は1882年で、1954年にフルトヴェングラーが
急逝した後、カラヤンが音楽監督に就任し、ベルリン・フィルの
新たな黄金期が到来した。
カラヤンとのコンビは、世界最高の組み合わせと称され、演奏会のみならず、
レコード・映像産業にも大きな変革をもたらした。
《 教会音楽 》
【 ミサ曲 第14番 ハ長調 K.317「戴冠ミサ」】
モーツァルトの教会音楽作品は、20曲を数えるミサ曲など多くの作品が
残されているが、これらは生まれ故郷のザルツブルクで作曲されたものである。
この時期は、ザルツブルク大司教に教会音楽家として仕え、
職務を果たしていた。
1777年に職を辞してミュンヘン、マンハイムに職を求めて旅行をしたが、
成果はなく1778年マンハイムからパリに行った。
しかしここでも成果はなく、同行していた母の死と、愛していた
アロイジアにも失恋をした。
翌年、23歳のモーツァルトはザルツブルクに帰郷し、ザルツブルク宮廷に
オルガニストとして復帰した。
第6曲からなる「戴冠ミサ」はその年に作曲したが、それまでの作品よりも
規模が大きくて、力強さを備えたものだった。
マリア・ブライアン教会の戴冠式の行事がとりおこなわれた
1779年4月4日に初演された。
その後も、この曲はモーツァルトの死の前年、サリエリの決定により
レオポルド二世の戴冠式で演奏されたし、死の翌年のフランツ二世の
戴冠式では、サリエリが演奏した。
1780年女帝マリア.テレジア崩御
第1曲 キリエ
第2曲 グローリア
第3曲 クレード
第4曲 サンクトゥス
第5曲 ベネディクトス
第6曲 アニュス・デイ
規模が大きく、力強さを備えた作品で、当時のザルツブルクの教会音楽の、
ヴィオラのパートを欠いた楽器編成に忠実に従っている。
サリエリ,アントニオ〔伊〕
(1750.08.18〜1825.05.07) 75歳
十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて、ウィーン楽壇の重鎮として
君臨していたイタリアの作曲家のサリエリは、ヴェロナ近郊で生まれた。
サリエリといえば、モーツァルトを毒殺した(かもしれない)ということで
知られているが、ベートーベンシューベルト、リストが師として仰いでいたし、
彼の作品は当時のウィーンでは大いにもてはやされ、
指揮者としても活躍していた。
6歳年下のモーツァルトがザルツブルクからウィーンにやってきたころ、
サリエリはすでに当地で絶大なる権力を誇っていた。
モーツァルトの才能がただならぬものだと感じた彼は、
自分の地位を守るため、モーツァルトを楽壇から閉め出すよう
策略をめぐらせたといわれていて、ついにはモーツァルトを毒殺したとも・・・
しかし、事実ではなさそうだ。
《 最後の曲 》
【 レクイエム ニ短調 K.626 】
35歳の最後の年の7月、 歌劇「魔笛」の完成が間近に迫った
ウィーンのモーツァルトを1人の男が訪れた。
モーツァルトが最後の年に、鼠色のフロックコートを着た見知らぬ男から
注文された「レクィエム」の創作をしていたときにしたためた書簡である。
『あなたのおすすめにしたがいたいのは山々ですが、
どうしたらそうできるでしょう。
小生はもう頭も混乱し、気力もつきてしまい、例の見知らぬ男の姿が
眼の前から追い払えないのです。
懇願し、催促し、じりじり待ち遠しがりながら私の仕事をせきたてる
彼の姿がたえずみえるのです。
ぼくも作曲しているほうが、休息している時よりも疲れないので
仕事をつづけています。
それだけでなく、ぼくはもうなにものも気にしたくないのです。
ときにふれ、小生はもう自分の終わりの鐘が鳴っているなと、
ふっと気づかせられるような感じがします。
ぼくはもう息もたえだえです。
自分の才能を楽しむ前に死んでしまうのです。
ですが、生きるということはじつに美しいことでしたし、
これほど多幸な前途をみれば、運も開けていったでしょう!
だが、自分の天命を勝手にかえる訳にはゆきません。
誰も、自分の余命を計るものはなく、ただ諦めねばなりません。
摂理の望むとおりにおこなわれるのでしょう。
これで筆をおきます。
これはぼくの白鳥の歌です。完成せずに置くわけにはゆかないのです。』
この手紙を書いてから約二ヶ月をへた11月20日、ついにモーツァルトの
病は急激に悪化し、床につくことを余儀なくさせらた。
しかし彼は、苦しみのうちにあっても生命のすべてをこの曲に注ぎ込んで
書き続けた。
そして、12月4日の夜明け前、音符を刻みこんでいったペンの先は
はたと止まり、翌5日の午前零時55分、永遠の眠りについたのだった。
その後、「レクィエム」は愛弟子のジュッスマイヤーによって
約二ヶ月後に書きあげらた。
恐ろしく厳粛な顔をした、異様な風さいの、鼠色の
衣類をまとったその男から依頼されたのが「レクイエム」だった。
このときモーツァルトは病気の妻と子どもをかかえ、貧困のなかにいた。
以前は彼の無心に応じていた友人たちも、度重なる要求には
応じきれず、また貴族たちもただ一人として、見捨てられた
食うや食わずの音楽家などかえりみようとはしなかった。
そのため、あらゆる貴重品を抵当に入れ、たえず金貸商に行っていた。
7月26日には末子ヴォルフガング生まれた。
8月、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世がベーメン(ボヘミア)王も
兼ねることになり、プラハでの戴冠式のため、
オペラ・セリア「ティトウスの慈悲K.621」を依頼された。
愛弟子のジュースマイヤーの協力で、18日間で作曲し、妻とプラハへ出かけた。
9月6日に行われた「ティトウスの慈悲」の初演は、不成功に終わり、
中旬にプラハを淋しく去った。
健康は、この頃いちじるしく衰えていた。
出来上がった「魔笛」を、9月30日自らの指揮で初演し、
成功は日ごとに加わっていった。
しかし10月になって病状が悪化していった。
11月20日再起不能の床についた。
それでもなおペンをとったが12月4日、作曲していた「レクイエム」は
第6曲からなるが、第3曲の第6部〔涙の日〕の8小節目で途絶えてしまった。
5日午前0時55分、永遠の眠りについた。
翌6日、聖シュテファン教会でミサがあげられた後、見送る者もなく、
聖マルクス共同墓地に葬られた。
自分の死を決して悲しいとも、いたましいとも思ってなかったとあるが、
モーツァルトは死について「それは全く神の摂理であり、人間は神を信頼して、
その手に生死をゆだねるべきものだ」と硬く信じていた。
未完成の「レクイエム」は、モーツアルトの死後約二カ月のちに、
ジュースマイヤーによって書き上げられた。
「レクイエム」を依頼した男は、ヴァルゼック伯爵の家令で、
伯爵が妻の命日に自分の作品として発表しようとしたことが
後になって明らかになった。
モーツァルトの死因について、教会の死者台帳には
「急性粟粒(ぞくりゅう)疹熱」(熱が出て粟粒のような湿疹が体に出る症状)
とあるが、記録はこれだけしかないことから、今も病死説と毒殺説が
取りざたされている。
短命の作曲家
ウェーバー (1786〜1826)(39歳)ー結核、
シューベルト (1797〜1828)(31歳)ーチフス
メンデルスジーン(1809〜1847)(38歳)ー過労
ショパン (1810〜1849)(39歳)ー結核
《 祈り 》
【 モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618 】
最後の年のモーツァルトは、病気の妻と子どもをかかえ、貧困のなかにいた。
以前は彼の無心に応じていた友人たちも、度重なる要求には応じきれず、
また貴族たちもただ一人として、見捨てられた食うや食わずの音楽家など
かえりみようとはしなかった。
そのため、あらゆる貴重品を抵当に入れ、たえず金貸商に行っていた。
6月に入って、歌劇「魔笛」をほぼ完成し、保養中の妻子を迎えにバーデンに赴き、
そのときに作ったのが「モテット アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。
妻のコンスタンツェは、しばしば療養のためウィーン近郊の湯治場の
バーデンに行っていた。
そこでシュトールという教師兼合唱指導者に、お世話になっていたので、
モーツァルトは深い感謝の気持をこめて、この短いながらも
あまりに美しいモテットを書き、彼に贈った。
それは、モーツァルトが亡くなる6ヶ月前6月17日のことだった。
モーツァルトの宗教音楽の中で、最も多くの人に親しまれている
「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、霊妙さがよくうかがわれる名作として、
一般の合唱団にもよく手がけられている。
この曲は特に清らかに澄んだ美しさをたたえていて、ゆるやかな、
弦楽器とオルガンによる2小節の序奏に始まり、四部の混声合唱が
静ひつな祈りの気分を漂わせている。
モテトは教会合唱音楽で、カトリック教会典礼のための
ラテン語無伴奏合唱曲であったが、1600年以降になって、
オルガンや器楽の伴奏をつけたものも作曲されるようになった。
Ave Verum Corpus(救主への祈り)
光りなる マリアの御子
清らけくも あ(生)れにし
世の人ゆえ ゴルゴタに
悩みたまいぬ
流れたる 血潮は
諸人の 糧なり
ああわが主よ 救いませよ
にごれる世の ほころびより
我らを
《 春よ 》
【 歌曲「春へのあこがれ」K.596 】
モーツァルトの最後となった1791年、彼の生活は想像を絶するほど
惨めなもので、この年が35度目の最後の春だった。
10年前、故郷ザルツブルクの選帝侯コロンド大司教との確執から、
父の許を離れてウィーンに移住し、翌年コンスタンツェを妻に迎えて以来、
日増しにかさんできた出費を助けるため、音楽会を催して自らの作品を
演奏するとともに、ピアノ独奏や指揮などを行なったり、弟子をとったり
したが、それだけでは支えきれなくなって、次第に金払いの良い貴族たちの
依頼による舞踏曲などにも手をつけ始めていた。
この曲を含む、3曲(春のはじめに、子どもの遊び)の歌曲は、
子どもの雑誌よりの依頼によって作曲されたものだが、悲惨な生活状態と、
この曲の苦しい中での「春へのあこがれ」への無邪気さとはいったい
どう結びつくのであろうか。
子どものための作品らしい、天真爛漫とした屈託のない有節歌曲で、
歌詞はオーヴァーベック作の5節からなるものである。
第1節 「きたれ、愛らしき春よ・・・」で始まる春へのあこがれを
第2節 過ぎ去った冬の楽しい日々への追想
第3節 春の楽しさは格別だと、外に出て遊ぶことのうれしさを
第4節 友人が、心臓を病んでいることが気掛かりだと憂いを
第5節 春とともに、ナイチンゲールや美しいカッコウもきておくれ・・・
と結んでいる。