《 ト短調 》
【 交響曲 第25番 ト短調 K.183 】
モーツァルトは、青少年時代にイタリアに3回旅行をしている。
1回目は13歳の夏、2回目は15歳の秋、3回目が16歳の秋だが、
この曲が作られたのはイタリア旅行後の、17歳のときであった。
イタリアから帰ってから、短期間ウィーンに赴き、その後に出かけた
ザルツブルクで作られた。
彼は生涯に約50の交響曲を書いたが、そのうち短調の曲は2曲だけで、
そのいずれもがト短調である。
「第25番K.153」を書いてから、15年後に作られた「第40番K.550」の
どちらも悲愴的で、ロマン的な感情表出において、親近性が強い。
終始深い哀愁と苦悩につつまれているが、情熱的で情緒にあふれ、
優雅さも持っている。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Andante
第3楽章 Minuetto
第4楽章 Allegro
《 フランス風 》
【 交響曲 第31番 ニ長調 K.297「パリ」】
モーツァルトが22歳のときに書いた「交響曲31番」は、パリで書き上げた
唯一の交響曲で、初めてクラリネットを 交響曲に使っていて、
2管編成をとっている。
それまでの交響曲よりも管弦楽法が著しく進歩している
「フランス風」の作品である。
1778年6月18日の聖体祭の日に、
パリのコンセール・スピルテュエルで初演され、絶賛された。
この曲の完成は初演の6日前だったが、練習のとき
「今まで、こんなまずい演奏を聴いたことがない」と
モーツァルトを思わせるくらい不安にさせた。
父への手紙に「演奏会で、練習のときのようだったら、
コンサート・マスターのバイオリンを取り上げて、
自分で指揮をしようと決心した」と書き送っている。
当時の習慣では、コンサート・マスターが
バイオリンを弾きながら指揮をしていた。
第1楽章 Allegro assai
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegro
ベーム,カール 〔墺〕
(1894.08.28〜1981.08.14) 86歳
二十世紀半ばから後半にかけて世界的に活躍した大指揮者の
カール・ベームは、オーストリアのグラーツで生まれた。
父親が弁護士だったこともあり、グラーツ大学で法律を学びつつ、
ウィーンで音楽も勉強した。
23歳のときに指揮者としてデビューした後、ウィーンの主要な
国立歌劇場の音楽監督として活躍した。
楽譜に忠実で、練習のときに間違いを指摘していたので
「音楽上の弁護士(法律顧問)」と言われていた。
ベームは1963年に初来日しているが、4回目となる1980年の
ウィーンフィルとの来日が、日本での最後の演奏会となったのみならず
1938年以来続いた、ウィーンフィルとの最後の演奏会となった。
翌年の8月14日にザルツブルグで亡くなったとき、
楽聖達が眠るウィーン中央墓地の提供を受けたが、それを断り、
グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬された。
モーツァルトの作品の演奏は師ともいえるブルーノ・ワルターゆずりの
素晴らしいものがあり、ベルリン・フィルを指揮しての
モーツァルトの交響曲の全曲録音を残している。
《 祝賀曲 》
【 交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」】
モーツァルトが作曲した交響曲の作品は、約50曲にのぼるが、
「交響曲 第35番」は1782年にウィーンで生活をするようになった
夏に書かれた、ウィーンでの最初に書いた交響曲である。
これより前の1776年に、ザルツブルクのハフナー家の
婚礼のためのセレナードを作曲している。
ジークムント・ハフナーは裕福な商人でもあり、当時ザルツブルクの
市長をつとめ、またモーツァルトの父とも親しかった。
その娘エリーザベト・ハフナーの結婚式のために作曲したのが
「ハフナー・セレナード」である。
モーツァルトは1782年になって、 ジークムント・ハフナーの
爵位を得た祝賀曲を、もう一度ハフナー家のためにつくるように、
父から依頼された。
これが、現在「ハフナー交響曲」と呼ばれているものである。
この頃、他の作曲で多忙であったし、父に結婚を反対されていたので
苦労が多く、仕事は捗らなかった。
しかし、出来上がった曲は、堂々たる力量感と動的な性格を持ち、
モーツァルトの交響曲中でも傑作の部に属する。傑作の一つとなった。
「新しいハフナー交響曲は、私をまったく驚嘆させました。
私はなんら言うべき言葉を知らぬほどです。
この曲はたしかによい効果をだすに違いない」
と彼自身が書いている。
彼の曲としては珍しく、クラリネットもフルートも使い、
二管編成としたため、響きも際立って豊かで、祝典風な艶麗さと
交響曲的な雄渾さとを兼ね備えたものとなった。
第1楽章の力強さ、第2楽章ののびのびとした豊かさ、
第3楽章の典雅で整った美しさ、第4楽章のエネルギッシュな強弱の
対照による動的性格など、見事である。
第1楽章 Allegro con spirito
第2楽章 Andante
第3楽章 Menuettto-Trio
第4楽章 Finale: Presto
初演は1783年3月22日、ウィーンでモーツァルト自身の指揮で行なわれ、
当日は皇帝ヨーゼフ二世も臨席し、大成功をおさめた。
《 メヌエットなし 》
【 交響曲 第38番 ニ長調 K.504「プラハ」】
モーツァルトにとってプラハという土地は、歌劇「フィガロの結婚」
が成功したところであり、また彼の女友だちのドゥシェック夫人を
知った土地なので、楽しい思い出を持つ都市だった。
しかも続いて作曲した歌劇「ドン・ジョバンニ」は、
この都市の求めに応じて作られたものである。
1786年のクリスマスのころ、プラハで上演されていた「フィガロの結婚」は、
聴衆の熱狂をあびていたが、この上演を前にしてドゥシェック夫妻は
モーツァルトをプラハに招待している。
彼はそのころウィーンで交響曲「プラハ」を作曲していて、
12月6日完成の日付けがつけられている。
この新作の交響曲を携えて、翌年の1月に妻のコンスタンツェと共に
この地を訪れ、「フィガロの結婚」の指揮をした。
1月19日には「プラハ」の初演、即興演奏などを行ない、
プラハの聴衆を沸き立たせ、多くの謝礼とともに続いてプラハで
初演されるための新しい歌劇の作曲の依頼を受けたのだった。
この新作が「ドン・ジョバンニ」である。
交響曲第38番ニ長調「プラハ」の標題は、
モーツァルトがつけたものではない。
彼の交響曲の作品にはニ長調が数曲があり、特に交響曲35番「ハフナー」と
区別するために、初演された場所の「プラハ」が使われた。
この曲は、彼の他の交響曲の形式と異なり、第3楽章の
メヌエットを欠いているため、「メヌエットなし」とも呼ばれ、
「ハフナー」を「メヌエットつき」交響曲と呼ぶことさえある。
最も円熟した技法を持ち、内面的な情緒、楽曲の構成の見事さと
簡潔さから、モーツァルトの傑作の一つとして、ひろく愛好されている。
第1楽章 Adagio - Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Presto
《 3大交響曲 》
【 交響曲 第40番ト短調 K.550 】
モーツァルトが作曲した交響曲の作品は約50曲にのぼるが、
最後の3大交響曲の一つであるト短調は、彼の交響曲中でも
最もよく知られている。
「交響曲第39番変ホ長調 K543」「交響曲第40番ト短調 K550」と
この第41番は、モーツァルト三大交響曲と呼ばれている。
3つの交響曲はきわめて短期間に作曲されていて、「第39番ホ長調」の
愉悦に満ちた明るさと、「第41番ハ長調」の壮麗さに対して、
暗い抒情味をたたえたこのト短調は、著しい対比をなしている。
この交響曲は、情熱的であり、情緒にあふれた楽想を有していて、
悲劇的であるとともに、病的なまで昂奮な陰鬱さをもっている。
「人間の苦悩からほとばしり出た慰めの心」が現われているともいわれる
第一楽章は、優美で哀愁につつまれた第1主題で始まる。
むせび泣くような主題をもつ第2楽章、
民謡的なメヌエットの主題の第3楽章、
重苦しいわだかまりをふくんだ情熱の嵐で始まる第4楽章と、
楽曲としては感情が濃く、抒情的で情熱的である。
第1楽章 Molto Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Menuettto Allegretto
第4楽章 Allegro assai
《 最後の交響曲 》
【 交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」】
モーツァルトは、600を越す作品を残したといわれているが、
最後の交響曲である第41番「ジュピター」は、壮麗絢爛さにおいて、
また規模の大きさにおいて特に傑出した作品として、
彼の器楽曲中最高峰におかれている。
最後を飾る第41番「ジュピター」は、1788年8月10日にウィーンで作曲された。
第40番を完成から、わずか15日間で仕上げるという驚異的なものだった。
「ジュピター」という名は、ギリシャ神話における最高の造物神の名で、
この楽曲の力強い創造的な壮大さに対して全くふさわしい別名だが、
作曲者自身がつけたものではなく、後世につけられたものである。
終曲に大きなフーガが用いられているために
「終曲にフーガをもつ交響曲」と称されることもある。
晩年の作品とはいえ、彼はまだ32歳の若さだった。
第1楽章 Allegro vivace
第2楽章 Andante cantabile
第3楽章 Menuettto Allegretto
第4楽章 Molto Allegro
《 ジュノム協奏曲 》
【 ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 】
古典派のピアノ協奏曲は、モーツァルトによって完成されたといってもよく、
彼は11歳という若さで、他の作曲家のソナタなどを、協奏曲に編曲する
ことからこの分野の活動を始めた。
それは、死の1791年まで続けられ、27曲に及ぶ作品を生み出している。
1777年の秋から、母親と2人で仕事を求めてパリに出かけたが、
ピアノ協奏曲第9番は、この年の1月に作曲している。
たまたまモーツァルトの住んでいるザルツブルグに立ち寄った、
フランスの若い女流ピアニスト、ジュノム嬢のために作られたので、
「ジュノム協奏曲」とも呼ばれる。
当時の協奏曲では、はじめ管弦楽だけが主題を呈示して、
さらにピアノが同じように新しい主題を加え、管弦楽とともに
あらためて呈示するのが慣例で、ピアノ独奏が冒頭に現れる
ことはほとんどなかった。
ところがこの曲では、管弦楽の総奏に答えてピアノ独奏が現れる。
しかし、これ以後の作品では同じ方法を試みていないので、
単なる気まぐれな着想だったのかのしれない。
ジュノム嬢の影響なのか、パリ風な作品がもつ悲愴な感じは、
さらに深い、情熱的な、いっそう悲しみをたたえた、
いちだんと高い境地にまで、彼を追い上げている。
様式的にみて、簡潔で厳格なこの曲は、抒情的な内容を加えることにより、
ゆたかなものとなっているといわれている。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andantino
第3楽章 Rondeau: Presto-Menuetto: Presto
《 変奏曲形式 》
【 ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 】
モーツァルトは、28歳のときに第14番?第19番までの
6曲のピアノ協奏曲を作曲している。
その中で、3月に作られたのが「ト長調K.450」で、この曲の特徴としては、
第2楽章が変奏曲形式で書かれていることがあげられる。
完成の2日後には、モーツァルトの第1回非公開演奏会で
彼自身のピアノ独奏で初演された。
「会場は大入り満員で、私(モーツァルト)が演奏した新作の
協奏曲(この曲)は、徹底的に受けました。
どこでもこの協奏曲の噂でもちきりです」と3日後に父に知らせている。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegro
アシュケナージ,ヴラディミル (露)
(1937.07.06〜 )
2004年9月から、NHK交響楽団の音楽監督に就任したアシュケナージは、
ユダヤ系の父とロシア人の母との間に69年前の7月6日ゴーリキーで生まれた。
モスクワ音楽院で学び、ショパン国際ピアノ・コンクール2位、
チャイコフスキー国際コンクール優勝などさまざまな賞を受賞した。
モスクワ音楽院を卒業後、ロンドンに移住しその後は妻の故国アイスランドに定住、
アイスランド国籍を取得し、旧ソ連国籍を離脱した。
ピアニストとして活躍していたが、1970年から指揮活動を始めた。
指揮者であり、ピアニストでもあるアシュケナージはピアノを弾きながら指揮をする、
ピアノ協奏曲の「弾き振り」でよく知られている。
《 プロイエル嬢 》
【 ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 】
モーツァルトは、28歳の1784年に、6曲のピアノ協奏曲を作曲している。
その中で、4月に作られたのがこの「ト長調K.453」で、
バルバラ・プロイエル嬢のために書かれた。
プロイエル嬢の父親はウィーンの宮廷顧問官で、
彼女はモーツァルトのピアノの弟子だった。
4月ごろ催された演奏会で、プロイエル嬢を独奏者として
演奏されたのが、初演だとみられる。
この曲は、ロンド形式をつねとする終楽章の第3楽章が、
変奏曲形式で書かれていて、歌劇のフィナーレを思わせる速度と、
華やかさをもった長いコーダによって、堂々と曲を終わらせている。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegretto - Presto
《 情熱的な協奏曲 》
【 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 】
モーツァルトは50曲をこえる協奏曲を残している。
しかも、ほとんどあらゆる楽器(ピアノ・ヴァイオリン・フルート・クラリネット・
ホルン・ファゴット・フルートとハープ)に渉っていることも注目される。
「ニ短調 K.466」を作曲した1785年は、ウィーンでの生活も
油が乗り切った時期で、ハイドンとの個人的交友も始まっている。
しかし、経済的に苦しい生活には変わりなかった。
この曲は特に名高い協奏曲だが、短調の作品はハ短調とこの2曲しか書いてない。
暗く激情的な性格をもつものだが、ベートーベンやブラームスも
この曲に心を寄せていたといわれる。
ベートーベンは、第1楽章と終楽章にそれぞれ一つずつのカデンツァを書いている。
初演は、完成の翌日の2月11日にモーツァルト自身の
ピアノ独奏により、予約演奏会でおこなわれた。
たまたま父のレオポルドがウィーンに来ていて、この初演を耳にし、
娘のナンネルに宛てた手紙に次のように知らせている。
(レオポルドは翌年の5月に死去)
「ヴォルフガングは、新作の素晴らしいピアノ協奏曲を弾いた。
これは昨日我々が着いたとき、まだ写譜屋にあったのだ。
そのために、お前の弟は原稿をすっかり調べることが出来ず、
第3楽章のロンドをあらかじめ全部弾いてみる余裕がなかった。
この(情熱的な)協奏曲はニ短調だ」
第1楽章 Allegro
第2楽章 Romance
第3楽章 Rondo: Allegro assai
《 木管楽器の編成 》
【 ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 】
モーツァルトは協奏曲を23曲残しているが、30歳のときに作曲したハ短調は、
あらゆる作曲家の手になるピアノ協奏曲のなかでも、これほどがっしりと
構成された隙のない作品は、あまり例をみない。
しかも、こうした密度の深い作品が、 「フィガロの結婚」初演も
慌ただしい中で、わずか20日そこそこで完成させたことは、
彼の卓越した天分を裏付けられる。
モーツァルトのピアノ協奏曲で短調の曲はニ短調とこの曲の2曲だけである。
正規の木管楽器全部を揃えた編成は、交響曲にも珍しく、
協奏曲中ではこの曲だけである。
第1楽章では、カデンツァの後ににも独奏が加わっている。
抒情的な緩徐楽章では小ロンド形式に、終楽章は荘重な主題と
8つの変奏からなる変奏曲形式で書いている。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Allegretto
1786年3月24日に完成し、翌月の予約音楽会で初演された。
《 窮状の中で 》
【 ピアノ協奏曲 ニ長調 K.537「戴冠式」】
この作品は、1788年2月ドレスデンにおいて作られ、
翌年4月14日に、ドレスデンのザクセン選挙候フリードリヒ・アウグストの
御前で初演されたらしい。
父レオポルドの存命中は、演奏会の状態などの記録を
残したが、没後は不明な点が多い。
「理想に反して仕事をするより、餓死するほうがましだ」と友人に
書き送っているが、この曲が作られた2年前も窮状は変わりなかった。
晩年の円熟味を感じさせ、流麗な美しい旋律からは、
そんな中で作られたなんてとても考えられない。
1790年2月20日に、ウィーンのオーストリア帝ヨーゼフ二世が没し、
レオポルド二世が即位した。
その年の秋に新帝の戴冠式が挙行されることになったが、
モーツァルトは招かれたわけではない。
戴冠式に集まった貴族を相手に、数日後に国立劇場でピアノ協奏曲
2曲を自ら演奏し、交響曲を指揮したが盛況ではなかった。
K537は、その時に演奏した協奏曲ということで「戴冠式」と
名づけられえたようだ。
世を去る1年前のモーツァルトは、いっさいの価値ある品物を質に入れ、
その質札まで売り払わなくてはならないほどの苦しい経済状態だった。
この曲はその2年前に作られているが、そのころも窮状は変わりなかった。
流麗な旋律からは、そんな中で作られたなんてとても考えられないのだが・・・
第1楽章 Allegro
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Allegretto
《 最後の年 》
【 ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 】
わずか35年の間に、600を越す作品を作曲したモーツァルトが
最後の年の1月5日に完成した「ピアノ協奏曲 第27番」は、
純粋器楽曲の一つで、気品があり水晶のように透明で、
しかもがっしりとした構成をそなえている。
しかし、このときモーツァルトは病気の妻と子どもをかかえ、貧困のなかにいた。
以前は彼の無心に応じていた友人たちも、度重なる要求には
応じきれず、また貴族たちもただ一人として、見捨てられた
食うや食わずの音楽家などかえりみようとはしなかった。
そのため、あらゆる貴重品を抵当に入れ、たえず金貸商に行っていた。
6月に入って、歌劇「魔笛」をほぼ完成したモーツァルトは、
保養中の妻子を迎えにバーデンに赴き、寄寓先に
教会用の小品「モテット アヴェ・ヴェルム・コルプス」を贈っている。
7月26日には末子ヴォルフガング生まれた。
この月、未知の男がモーツァルトを訪れ、「レクイエム」を依頼して帰った。
8月、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世がベーメン(ボヘミア)王も
兼ねることになり、プラハでの戴冠式のため、
オペラ・セリア「ティトウスの慈悲K.621」を依頼された。
弟子のジュースマイアの協力で、18日間で作曲し、妻とプラハへ出かけた。
9月6日に行われた「ティトウスの慈悲」の初演は、不成功に終わり、
中旬プラハを淋しく去った。体は、この頃いちじるしく衰えていた。
出来上がった「魔笛」を、9月30日に自らの指揮で初演し、
成功は日ごとに加わっていった。
しかし10月になって病状が悪化し、11月20日再起不能の床についた。
それでもなおペンをとったが12月4日、作曲していた「レクイエム」は、
8小節で途絶えてしまい、5日午前0時55分に35年の生涯を閉じた。
翌6日、聖シュテファン教会でミサがあげられた後、見送る者もなく、
聖マルクス共同墓地に葬られた。
自分の死を決して悲しいとも、いたましいとも思ってなかったとあるが、
モーツァルトは死について「それは全く神の摂理であり、人間は神を
信頼して、その手に生死をゆだねるべきものだ」と硬く信じていた。
3楽章からなる「ピアノ協奏曲 第27番」は、モーツァルトの
最後のピアノ協奏曲となった。
長調の曲だが、物悲しい雰囲気の曲である。
第1楽章と第3楽章には、モーツァルト自身のカデンツァが残されている。
第1楽章 Allegro
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Allegro